雑誌『憎まれ愚痴』1寸の虫の5分の毒針

4年に1度だけ騙される権利への挑戦

現在の議会制度は非常に遅れた愚民政治の場でしかない

(1999.4.9)

 木村愛二です。

 一斉地方選挙を控えて、ombusmanjapanでも、オンブズマンと議員の関係での議論がありました。私は完全に独自の立場で接しますが、必ずしも、政党や個人の議員の立場を取ってはならないとも思いません。要は、政党、議員個人の批判を大いにやれる場にすることではないでしょうか。

 以上の考えの基本には、私の数十年の労働組合運動と国会対策の経験があります。結論的には、現在の議会制度は、非常に遅れた愚民政治の場でしかないということです。しかし、政党や議員個人を排撃するだけでは、単なる1人よがりでしかありません。議員や政党の教育も必要ですが、それだけでは問題の解決になりません。これも、議員が市民運動家より馬鹿だという意味ではありません。事実として、ほとんど人気投票の選挙制度の下では、いくら税金で政治秘書を雇わせても、票稼ぎに使われるだけです。

 政治には、資料収集、調査、分析、立案が必須条件ですが、現在の議会制度の下で、議員や政党に、そういう作業を期待するのは、はっきり言って間違いです。現在の資本主義社会を牛耳る高級官僚と大企業幹部に太刀打ちするのは不可能です。その理由は簡単です。議員も政党の幹部も、結局は個人です。個人の人間が使える時間は、誰でも同じで、1日に24時間しかありません。票集めが生き死にの問題として中心的な活動になれば、残り時間はなくなります。政策が杜撰になったり、借り物になったり、結局は大企業の手先に使われたりするのは、当然の結果です。

 その上に、市民個人個人の方にも、その「水準」という大問題が控えています。人類文化そのものも、アフリカ大陸で気候の激変を生き抜いてきた類人猿の水準を、それほど大きく超えているわけではありません。そのことを自覚した上で、必死の努力をする個人が増えなければ、いつまで経っても、「4年に1度だけ騙される権利」という現行の選挙制度を変えることすら不可能でしょう。

 武蔵野市の場合、社会党と共産党の共闘時代の流れを汲む「よくする会」が、一応の市政分析を行ってきましたが、私は最近、我がWeB週刊誌『憎まれ愚痴』連載「仰天!武蔵野市『民主主義』周遊記」の中で、「よくする会」の現状を厳しく批判しています。簡単に言うと、市長選挙の票稼ぎしか頭にないために、結局は、ありきたりの愚民政策に堕落するのです。

 唯一の野党などと気取る共産党に対しても、私は、自分の過去の30年余の党歴を賭けて、多くの友人知人による誤解も覚悟しながらも、批判を強めていますが、この党が一応の理論書、必読文献などとしているレーニンの小冊子、『国家と革命』でも、議会制度を「ブルジョワ独裁の外套」(隠れ蓑)と規定し、批判しています。労働者・農民・兵士の「ソヴィエト」は、実質的に機能しませんでしたが、だからといって、逆に現状の議会制度への幻想を煽り、「わが党の議席が増えれば世の中が変わる」などと連呼する選挙運動を行うのは、歴史に逆行する愚行に他なりません。武蔵野市では日本共産党が、減り続けの議席数に悩みつつ、あと1議席増えると条例の提案権を持てるという売込みをしていますが、これには慨嘆する他ありません。

 要は、市民個人個人が主権者として、自分自身が納得のいく調査をすることでしょう。その点では、いわゆる情報公開運動にも一言しておきますと、すでに公開されている情報をすら、収集し、分析し、さらには、それらに基づいて提言する気構えと実行力の蓄えのない個人、組織にとっては、どんな情報でも「豚に真珠」でしかなく、情報公開制度そのものがエリート権力支配の欺瞞の隠れ蓑になってしまいます。このあたりが、人生経験、職場の経験、組織運動の経験などの乏しい受験エリートの教授や弁護士、新聞記者、半端ものかき、政党幹部らに依拠しがちな、あえて言えば「お互いを甘やかす自己満足の市民運動」の限界なのではないのでしょうか。私は、普通の職業人たち、生活人たちが、自らの経験に基づき、いわゆる世間知らずのエリートによる「左右」の支配を、自らの力で根底から覆す決意し、堂々と挑戦することが、最も重要なことだと確信しています。

 自己満足の運動では、いわゆる「ガス抜き」でしかなく、手の内を読まれるばかりで、それ自体が体制側の思う壷にはまる結果になっています。

 以上。


「仰天!武蔵野市『民主主義』周遊記」
元共産党「二重秘密党員」の遺言 または 日本共産党犯罪記録

『1寸の虫の5分の毒針』
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