「緩やかで苦痛を伴う死をもたらす」タバコ問題 4

1999.2.19

ソロスに背後の大物:アイゼンバーグ
続:米の煙草批判は麻薬公認とセット説

三浦英明です。
前回の続きをお送りします。
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1999年2月6日

「タバコへの批判は、麻薬へ切り替えるための布石である」説について
―続編―ソロスの背後にいる大物・アイゼンバーグ

 1999年2月3日に「タバコへの批判は、麻薬へ切り替えるための布石である」説について書き、最後にアイゼンバーグについては重要なので項を改めて報告する旨かいた。その件を今回、報告させていただく。

 前回の話をもう一度簡単に触れておくと、1992年のポンド暴落に際し、空売りにより100億ドルを越えると言われるほどソロスは大儲けした。ソロスは麻薬合法化のキャンペーンに力を入れている人物でもある。「タバコへの批判は、麻薬へ切り替えるための布石である」との噂もあるのだが、その噂もソロスの合法化キャンペーンの勢いを見ると真実みが出てくる。

 なぜ麻薬をそんなにも推進するのか?麻薬は売る側にとって、とにかく儲かるのである。そのソロスの背後にいた強力な裏部隊の一人としてアイゼンバーグの名前をアメリカ国務省の金融情報の専門家は挙げている。

 さて、それではアイゼンバーグの話に移ろう。

 浜田和幸『ヘッジファンド 世紀末の妖怪』(文春新書)の 106頁に「イスラエルの武器商人」と書かれたシャウル・アイゼンバーグのことは、P・ゴールドスタイン、J・スタインバーグ『ユダヤの告白』阿修羅資料室「ユダヤの告白」の第五章「日本を繰ったアイゼンバーグ」に比較的詳しく紹介されている。

 『ヘッジファンド』では、シャウル・アイゼンバーグだが、『ユダヤの告白』ではショール・アイゼンバーグとなっている。

 『ユダヤの告白』のアイゼンバーグに関する部分を要約して紹介する。

 アイゼンバーグの両親は、ポーランドに属するガリチアのユダヤ人で、19世紀終りごろドイツにやって来た。

 ショールは、1926年にドイツのミュンヘンで生れ、1938年から39年にかけてドイツアルプス越えで、偽旅券を手にスイスに逃れた。スイスから西ヨーロッパに移動し、1940年の終りにはオランダにいた。

 第二次世界大戦に入り、オランダから中国の上海に向った。

 1940年に日本に来た。

 日本へ来て何ヵ月もたたない間に、彼は日本人女性と結婚した一人のオーストリア人亡命者に接触を図ろうとしていた。そのオーストリア人は画家で、一九三六年のナチによるオーストリア併合の後も本国とのコンタクトを続けていた。ここでアイゼンバーグの経歴に再び前と同じような不可解な様相が現れてくる。彼は、このオーストリア人と日本人の夫妻の娘と結婚したのである。彼の妻は後にユダヤ教に改宗した。彼は、官僚の家系だった妻の母方のコネにより、日本財界の大物の一人である永野重雄氏に出会う。

 戦時中アイゼンバーグが何をやっていたかは記録もなく、彼自身明らかにすることを拒んでいる。

 終戦直後、永野重雄との関係を通じて、当時の日本の大手としては唯一の金属と武器のスクラップ会社を設立した。

 アイゼンバーグは日本国籍を有し、オーストラリアやフィリピンから鉄鉱石を買付け、それを八幡製鉄などに売った。

 日本の製鉄業界と進駐軍双方に持っていたコネを通じて、アイゼンバーグは日本財界による戦後初の訪米を計画し、日本の製鉄業界を代表して事にあたり、アメリカ政府と交渉した。この訪米旅行に際し、彼はスクラップ金属事業と軍事機密を扱う事業を興し、それらを統合した。

 帰国後、進駐軍向けに台所、浴槽などの家庭用品をつくる工場を三つ建設した。

 (三浦注:永野重雄は東大法学部卒、富士製鋼に入社、1934年合併により日本製鉄に移る。1941年に鉄鋼統制会理事になり、1946年日本製鋼に復帰した。1948年日本製鉄が八幡製鉄と富士製鉄に分かれた。1950年永野は富士製鉄の社長に就任した。1970年八幡製鉄と富士製鉄が合併し、新日本製鉄となった。

 アイゼンバーグが来日したのは1940年なので、略歴から判断すると、二人が知り合ったのは、永野の日本製鋼時代か、鉄鋼統制会理事時代であろう。

 また、八幡製鉄と富士製鉄が合併した時、富士製鉄にM資金が導入されたのではとの噂が根強く囁かれていたが、永野とアイゼンバーグとの関係を見ると本当かもしれない)

 アイゼンバーグは事業拡大とともに日本国内での政治権力を手にし、日本人が独立した力を行使できない時には、肩代わりして力を行使した。

 その後、イギリス政府が国有会社インペリアル・ケミカル・インダスト(ICI)の日本での代表者としてアイゼンバーグを指名し、彼は世界的なビジネス・コネクションを手に入れた。

 アイゼンバーグは1953年国際金融業務を行う形で韓国に参入した。彼は建設とエネルギー業務に進出した。彼が韓国へ進出したのは、アメリカの軍事占領が終わると、日本の大手企業が彼を追い出しにかかったからだという。

 1950年代、1960年代には、南米コネクションを利用して、原料の手当てや資金調達を図った。彼の中枢企業は、1960年にパナマに設立したユナイテッド・ディベロップメント・コーポレーションである。

 1970年代、米CIAとイスラエル・モサドが所有し、麻薬のマネーロンダリングを行うアメリカン・バンク・アンド・トラスト(ABT)から導入した資金でアイゼンバーグは、パキスタンに原子力発電所を建設する秘密プロジェクトを実施した。

 実際にはアイゼンバーグとカナダのブロンフマンに代わって、エジプト人とレバノン人がパキスタンと取引きした。取引きにはカナダもかかわっており、カナダ政府は、カナダ型重水原子炉の輸出許可状をアイゼンバーグの会社に交付した。

 ところが、このへんが面白いところだが、アメリカとイスラエルは、パキスタンが原爆を開発しつつあると、攻撃のキャンペーンを張った。そのわけは、イスラム世界の原爆開発に手を貸しては駄目というメッセージを世界に送るため、一種の策略としてパキスタンに原発を売った。アラブやイスラムが原子力に手を出せば、西側にとって脅威となるとの風潮を生み出したかったわけである。

 1977年イスラエル外相モシェ・ダヤンが訪中したおり、アイゼンバーグは中国政府を貿易面で援助することになった。中国では15件の大プロジェクトを制約した。彼は北京飯店に事務所を構え、最上階の3フロアーを占有して、ビジネス展開を図っている。ハーマンド・ハマーとも合弁事業を展開した。

 また、小火器類やハイテク武器の開発製造では、中国政府と合弁契約を結び、1979年アジア・ハウスという商社を設立した。彼は中国人と組んで、アラブ諸国に中距離ミサイル技術を売っている。ということは、イスラエルにとってはアラブ諸国がどういう武器を所有しているかが、はっきり把握できるわけである。

 1980年代パナマのノリエガは、ニカラグアの反政府ゲリラ組織・コントラへの支援をアメリカとイスラエルから求められた。イスラエルの情報部工作員マイク・ハラリたちは、コントラへの資金援助を行うため麻薬を扱うアイゼンバーグの組織を築き上げた。

 1985年イラン・コントラ事件が浮上した際、名前の出たイスラエル・エアクラフト・インダストリーズの創始者アル・シュイマー(広瀬隆『ジキル博士とハイド氏を探せ』ダイヤモンド社ではシュウィマー)とアイゼンバーグはビジネス上のパートナーだった。モサドの活動の指揮を執っていたジェイコブ・ニミロッド(広瀬隆の本ではニムロディ)とシュイマーがイランのコネクションを、実行部隊のオリバー・ノース、リチャード・シコード、セオドア・シャックリーを提供した。アイゼンバーグは「イラン・コントラ事件で中心的役割を果たした黒幕の一人であったが、それが公にされることは決してなかった」と記されている。

 1986年にはフィリピンで、アイゼンバーグの組織は米CIA、フィリピン債務の引受人アメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)と組んで、マルコス政権を転覆させた。AIGの経営者はモーリス・グリーンバーグだった。

 (三浦注:1998年9月LTCMが破綻した際、AIG、ゴールドマン・サックス、バークシャー・ハザウェーが買収を試みたことがある。これはNEWSWEEK1998年10月14日号32~34頁「LTCM救済のあきれた内幕」の記事だが、AIGの会長はハンク・グリーンバーグとなっている)

 以上だが、ここに書かれたことが本当だとすると、アイゼンバーグと麻薬とのかかわりは、彼がパキスタンに原発を導入する際の資金元になった銀行が麻薬のマネーロンダリングしていたこと、コントラへの資金援助のためにアイゼンバーグの麻薬の組織が作られたことに現れている。

 ソロスもアイゼンバーグも、ともに麻薬にかなり深くかかわっている様子である。

 実はアイゼンバーグのことは、断片的に名前だけは目にしていたが、これほどの大物とは知らなかった。『ユダヤの告白』によれば、キッシンジャーと並び称されているのである。

 以上。

編集部より:下記リンクで『三浦雑記帳』を御参照下さい。

『三浦雑記帳』(2003.3現在不通のためリンクを外しました)

 以上。