編集長の辛口時評 2006年10月 から分離

『日本テレビとCIA 』新刊で27年前の拙著以来の研究の成果実る

2006.10.22(2019.9.3分離)

http://www.asyura2.com/0610/war85/msg/975.html
『日本テレビとCIA 』新刊で27年前の拙著以来の研究の成果実る

 本年、二〇〇六年一〇月一七日に発行された新刊書、『日本テレビとCIA 』は、拙著、『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(木村愛二、筆名・征矢野仁、汐文社、一九七九年)と『放送メディアの歴史と理論』(木村愛二、社会評論社、二〇〇五年)の成果である。

 アメリカで古文書を調査してきた早稲田大学教授の有馬哲夫には、ご苦労さん。


http://www.amazon.co.jp/gp/product/4103022310
日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」 (単行本)
有馬 哲夫 (著)
単行本: 336ページ
出版社: 新潮社 (2006/10/17)
サイズ (cm): 19 x 13

出版社/著者からの内容紹介
「日本テレビ放送網」----なぜ日本テレビの社名は「放送網」となっているのか?
「網」の字にはどんな意味があるのか?
その理由は設立時の秘密にある。
 実は日本へのテレビの導入は米国による情報戦の一環だった。テレビ放送網は、そのまま「反共の防波堤」であり、さらに軍事通信網にもなるはずだったのである。
「テレビの父」である正力松太郎のテレビ構想は、アメリカ側にたくみに利用されたものに過ぎない。CIAは正力に「ポダム」という暗号名まで付けていたのである。
 著者がアメリカ公文書館で発見した474ページに及ぶ「CIA正力ファイル」----。そこには、CIAが極秘に正力を支援する作戦の全貌が記録されていた!日米で蠢くCIA、政治家、ジャパン・ロビー、官僚、そして諜報関係者・・・・・・。
日本へのテレビ導入はアメリカの外交、軍事、政治、情報における世界戦略のパーツの一つだった。

内容(「BOOK」データベースより)
474ページに及ぶ「CIA正力ファイル」―。そこには、CIAが極秘に正力を支援する作戦の全貌が記録されていた!日本へのテレビ導入はアメリカの外交、軍事、政治、情報における世界戦略のパーツの一つだったのである。暗号名PODAM=正力松太郎。新資料で解き明かす「アメリカ対日心理戦」の深層。


 以下が、拙著の関係箇所の抜粋である。


『放送メディアの歴史と理論』(木村愛二、社会評論社、二〇〇五年)
第三章 戦後の放送メディアの歴史をめぐる主要な問題点

 [中略]
●「武器」として建設された日本のテレヴィ放送網

 正力は戦後の一九四五(昭二〇)年一二月一二日、A級戦犯として逮捕され、巣鴨プリズンに収容された。二年後に釈放されたが、以後も四年間は公職追放の身であった。公職追放が解除されるとすぐにテレヴィ構想を発表して動き、一九五二(昭二七)年には初の民間テレヴィ放送免許の獲得に成功した。

 正力を中心とする日本テレビ放送網(株)の設立は、NHKと並立する唯一の民間テレヴィ放送の出発だった。その際、注目すべきことには、読売の正力が中心であるにもかかわらず、朝日・毎日・読売の三大新聞の日本テレビ放送網(株)への出資比率は同じであった。このパターンは、ラディオの独占的発足の繰り返しである。大手新聞各社は、この日本テレビ放送網(株)の出発の際には協力して、テレヴィ業界進出の足場を築いた。以後、複雑な経過を経て、逐次、それぞれの大手新聞系列によるテレヴィ・キー局と全国ネットワークの体制が確立される。当局と結託した大手新聞による放送支配は、さらに大規模に全国展開されたのである。

 さらには、正力のテレヴィ構想がアメリカの意向をうけたものであったことは、誰一人として否定し得ない歴史的事実である。巣鴨プリズンからの釈放と公職追放解除の裏には、かなり早くからの密約関係があったと考えられる。

 拙著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』では、正力とCIAの関係に関する『ニューヨーク・タイムズ』(一九七六年四月二日、四四頁)の記事に関する騒動を紹介した。その記事の見出しは、「CIAは一九五〇年代からロッキード汚職を知っていた」である。

 読売新聞の一九七六(昭和五一)年七月一日付朝刊、三面左上隅に三段ぬきで、「CIAめぐる戦後の疑惑、故正力社主は無関係、ニューヨーク・タイムズ再び訂正」と題する大見出しの記事が載った。全体で、横一七行、縦九段もの長文の記事である。読売新聞の社主だった故正力松太郎は、当時、日本テレビの会長でもあった。

 日本テレビでは、放送こそしなかったが、報道局長名入りの一文が『社報日本テレビ』一九七六年八月一〇日号に四ページにわたって掲げられた。題名は、「ニューヨーク・タイムズが謝罪、訂正消滅した故正力会長へのCIA工作資金誤報記事」となっていた。これには、ニューヨーク・タイムズの写真版も載っており、「THE NEW YORK TIMES」の横一杯の題字の真下に、黒い太枠で囲まれて「CORRECTION」(訂正)の小見出しつき、ベタ二○行の記事が見える。

 ところが、この写真が技術的にはあり得ないほどにボケており、肝心の記事内容が読み取れないのである。そこでニューヨーク・タイムズの実物を探し出してみたら、これは驚いた。まず、題字の真下には、くだんの記事がなかったのである。あった場所は、なんと三九ページ目の、しかも一番下でカコミもついていなかった。つまり、問題の写真は記事を切り抜いてカコミをつけ、題字の下にはめこんで、いかにもトップ記事であるかのようにみせかけたシロモノだったのである。

 そこまでは、まだ弁解の余地がある。題字と記事を一緒に写したかったのだとか、注目させるためにカコミをつけたのだとか一応の理屈が立つ。問題はなぜか、ボケて読みとれなかった記事内容である。短いものなので、全文をできるだけ直訳の形で訳出してみよう。

「訂正 一九七六年四月二日付、ニューヨーク・タイムズの記事は、元CIA工作員(複数)の言によると、戦後の早い時期にCIAの恩恵(複数)を受けた人物として、日本のマスコミ経営者で閣僚だった故正力松太郎が挙げられると記した。この情報が元CIA工作員(複数)から出たことは確かだが、タイムズによるその後の調査の結果、それらの情報源の誰ひとりとして、ニューヨーク・タイムズの編集者の考えからすると、先の記事が作り出した印象を正当化するような、充分で精密な細部までを示すことができない、と結論するにいたった」(同紙一九七六年六月三〇日付、三九頁)

 つづいて、最初の記事の問題の部分をも訳出しておこう。

「CIAは、一九五〇年代からロッキード汚職を知っていた、と語った(一面トップ、横二段大見出し―筆者) ……(略)……元CIA工作員(複数)の言によると、この他に、戦後の早い時期にCIAの恩恵(複数)を受けた人物として挙げられるのは、強力な読売新聞の社主であり、一時期は日本テレビ放送網社長、第二次岸内閣の原子力委員会議長、科学技術庁長官となったマツテロ・ショーリキである」(同紙一九七六年四月二日付、四四頁)

 この記事では、児玉、岸のあとに、正力の名が出てくるが、松太郎(MATUTARO)ではなくてマツテロ(MATUTERO)になっており、「故」に当る単語はない。つまり、あまり重視されておらず、調査も不充分なものであることはたしかであり、この部分の記事量は、ベタ一三行である。

 これだけの小さな記事ではあるが、これも朝読戦争の最中に出され、朝日のトップ記事に含まれたため、大騒ぎとなった。関係者の言によれば、ニューヨーク・タイムズの方では、全く軽く扱った記事とのこと。読売新聞と日本テレビが、ヤイノヤイノと抗議文を何度も送りつけるやら、弁護士を使うやらのさわぎ方だったので、何度もつっぱねた挙句、しぶしぶ訂正記事を出したもの、ということらしい。

 そして、肝心の問題だが、ニューヨーク・タイムズの「訂正」記事なるものは、「元CIA工作員(複数)の言」そのものは、まったく否定していないのである。むしろ、出所は「確か」(DID COME)と強調さえしており、「謝罪」に類する単語はひとつもないのである。しかるに、日本テレビ報道局長常盤恭一名による一文は、「こうして六月一〇日、同紙の謝罪文と訂正記事という結果をみたのでした」(『社報日本テレビ』一九七六年八月一〇日号、五頁)などと、麗々しく記しているのである。そして、仕事では最高度の写真技術を駆使しているところが、文字の読み取れない写真版を掲げているというのでは、その意図を疑われても仕方ないであろう。

『ニューヨーク・タイムズ』の「訂正」(CORECTION)記事には、「謝罪」の言葉は、まったくなかったのである。むしろ、「この情報が元CIA工作員からで出たこと(DID COME)は確か」としており、「十分で細密な細部までを示すことができない、と結論するにいたった」だけなのである。

 アメリカの古文書館にはかなりの証拠資料が眠っているのではないだろうか。

 私自身は、資料室勤務の折に病状が悪化し、不当解雇の口実、「勤務成績不良」の直接の原因になったほどの強度のホコリ・アレルギー症だから、その仕事だけは志願しない。そのうちに誰かがやってくれるのではと期待している

 正力とアメリカをつなぐ使者の役割を果たした元日本帝国陸軍特務少尉、柴田秀利は、私が日本テレビ放送網㈱に入社した当時には専務だった。柴田は正力の死後、日本テレビ放送網㈱の社史などの正力伝説に異議を唱え、正力が彼に「自分の追放解除まで頼み込んだ」(『戦後マスコミ回遊記』)などと記している。その日本テレビ放送網(株)の社史『大衆とともに25年』にも、アメリカの上院で一九五一年に、VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)の推進者として知られるムント議員が行った演説の、次のような主要部分が翻訳紹介されている。

 「共産主義は飢餓と恐怖と無知の三大武器を持っている。共産主義から直接に脅威されているアジアと西欧諸国では、テレビジョンの広い領域がある。共産主義者に対する戦いにおいて、アメリカが持っているテレビが最大の武器である。われわれは、『VOA』と並んで『アメリカのビジョン』を海外に建設する必要がある。最初、試験的にやってみる最も適当な場所はドイツと日本である」。

 ムント議員の計画は、本来、アメリカ国務省の仕事として、占領地である日本の全土にマイクロ・ウェーヴ網を建設し、テレヴィ放送網と軍事通信網を兼ねさせようとするものだった。

 正力は社名を日本テレビ放送網 とした。当局が独占集中排除の原則によりネットワーク経営を禁止したのに、なおも「網」に固執したのは、独自のマイクロ・ウェーヴ網によるネットワーク構想を抱いていたからである。一九五三年一二月七日には、衆議院電気通信委員会に参考人として出席し、次のような発言をしている。

 「太平洋戦争に負けた最大の原因は、いわゆる通信網の不完全からであります。[中略]この際、通信網を完備しなければならぬ。[中略]アメリカの国防省も、われわれの計画を見て、これならば日米安全保障の意味からでも、日本にこれがあった方がよかろうということで、これまた推薦してくれたわけであります」。

 結果としてマイクロ・ウェーヴ網は、電電公社(現NTT)と防衛庁がそれぞれ建設することになった。また結果として、テレヴィの全国ネットワークは実際に行われている。

 以上みてきたように放送メディアは、その出発点から日本またはアメリカの権力の意図の下に特別扱いされてきた。まずは当局と結託した先兵としての新聞通信社によって占領され、情報操作の道具に仕立てられてきた。放送メディアについての「神話」の数々については、本書の「第二部」「理論編」で詳述するが、放送というメディアの新大陸に新聞通信社が上陸する際には、戦前の「公共性」神話が最初の橋頭堡となった。戦後は「公平原則」または「希少性神話」がそれに代わり、終始一貫、権力による独占支配の隠れ蓑の役割を果たしてきたのである。

 [後略]


『放送メディアの歴史と理論』(木村愛二、社会評論社、二〇〇五年)の注文は下記で受付中。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/hanbai.html
木村書店