中井佑美さんいじめ自殺事件陳述書




平成19年(ワ)第2491号 損害請求事件


意見陳述要旨


                                      
2007年 4月12日

原告 中 井 紳 二

1.はじめに

 1992年10月27日に産声をあげた娘に、多くの人の支えになり、美しい心を持った女性に育ってほしいと願いを込めて、佑美と名づけました。
 佑美はその名のとおり、非常に優しく思いやりのある子に育ってくれ、小学校に入学してからも多くの友達を支え学校生活を送っていました。また、母親思いで友達のように接している佑美を見て私は、成長が楽しみでした。

 そんな佑美が、夢や希望に胸をふくらませ北本中学校に入学し、7ヶ月ほど経った2005年10月11日のことでした。その日も普段と変わらずに朝食を食べて7時45分に「行って来ます」と言って、家を出て北本中学校に向かいました。しかし、その日以降中学校の門をくぐることはありませんでした。
 私たち家族には全く想像のつかない「○○マンション」の8階から飛び降り、12年という短い人生を閉じてしまったのです。

 これからという時なのです。マンションを死に場所と決めて、歩いて行く娘の姿を思うと涙が止まらなくなります。まだ12歳なのです。どんな思いで、歩いていったのでしょうか。辛く、苦しかったのだと思います。親としては、不憫でなりません。それと同時に何で気づいてあげられなかっただろう、何で守ってあげられなかったんだろうと、親としてのあり方を厳しく問い直しました。妻もまた同じでした。

 亡くなる前の連休中に大工さんと打ち合わせをし、前からほしがっていた自分の部屋がやっとできると楽しみにしていましたが、それも叶いませんでした。

 娘の遺書の最後には、「私、お母さん大好きなのにね」という言葉が書かれています。この言葉には、本当は、まだ、生きていたかったのに、死ななければならなかった辛い思いが込められていると思います。

 佑美が亡くなって1年6ヶ月が経とうとしています。娘がなぜ自らの命を絶たなければならなかったのでしょうか。学校の門の前で佑美を見かけたと言う話もありました。佑美が学校の中に入ることができずに、踵を返して「○○マンション」での自殺を選んだとしたら、学校の中で何が起きていたのでしょうか。なぜ辛い気持ちを両親にも友達にも言えず一人心の中に閉じこめたまま死を選ばなければならなかったのか、毎日、遺骨の前で手を合わせながら私たちは何度も問いかけています。

 娘が12歳で自ら命を絶たなければならなかった気持ちを考えると、親がしてあげることは何があったかを知り、その無念の気持ちを少しでも分かってあげることだと思っています。

 娘が生きている間にその辛い気持ちを知ってあげられなかった分、せめて今からでも娘の心の傍らに寄り添っていたいのです。いつか天国で娘に会った時に、何もしないままでは、親として顔向けができません。

 また、私達も、娘に何があったかを知るまでは、その死を受け入れることができません。娘が死んだのは、悪い夢だったのではないかと思うことも一度や二度ではありません。娘の遺骨を未だに納めることもできず、現実感のないまま日常生活が過ぎています。

 私達のこんな苦しい、やりきれない思いがいつまで続くのでしょうか。娘が死に至った原因や経緯をそれがどんな事実であろうとも知りたいのです。

 娘の遺書には自殺の原因の一つとしてクラスのことが書かれています。この部分は、何度もクラスと書いては消し、最後に、「クラス」の後に「一部」という言葉を書き加えるなど、娘が自殺を選ぶに到る苦悩が切々と伝わってきます。

2.北本中学校と市教育委員会の対応

 北本中学校や市教育委員会に対しては何度も事実関係の調査をお願いし、誠意のある対応がなされることを信じて、長い間、待ち続けました。

 しかし、結局、何も調査はされませんでした。そして、北本中学校や市教育委員会は、娘が自殺したことを保護者や生徒に対して説明することさえしてくれなかったのです。

 私達は裁判を起こすことなど全く考えていませんでした。しかし、愛する娘の自殺の原因を知ることすら妨げられ、この選択肢以外に見つかりませんでした。

 娘が自ら死を選ばなければならなかった気持ちを知りたい。また、「もうこれ以上子ども達を被害者や加害者にしたくない」と願い、文部科学省の教育政策の問題性も含めてこの裁判を提起させていただきました。そして、こんな悲しい裁判が起きるのは私達だけでもう最後にして欲しいと心から願っております。

                                             以 上
   

原告 中井 節子
 
 一人娘の佑美は、1992年10月27日に、蕨市の病院で生まれました。6ヶ月で北本に引っ越してきました。小さいころは、風邪をひきやすい子でしたので、よく病院通いをしていました。小学校に行くようになったころからすこしずつ丈夫になりました。3歳頃から、年に2回ぐらい家族で旅行をしていました。冬はスキー、夏は山や海に連れて行きました。

 亡くなる2ヶ月前の夏休みに、私と佑美の二人で、念願だった、愛知の地球博に2泊3日で行きました。二人だけの旅行は始めてで少し不安でしたが、2日間、朝早くから夜7時ごろまで、たくさん見学しました。友人にお土産を買い、自分のお小遣いでキッコロの大きなぬいぐるみを買って大事そうに持って帰りました。地球博での佑美のきらきら輝いた目と、喜びいっぱいの笑顔は一生忘れません。

 同じ夏休みに、家族で長野の野尻湖へ行きました。野尻湖のナウマン象博物館に行き、夏休みの宿題にするため、写真をたくさん撮っていました。ナウマン象の発掘調査のことが詳しく展示されていました。佑美は、来年の春休みに発掘調査に加わりたいと言って、埼玉友の会の電話番号と住所をメモに書いていました。その時のメモは机の引き出しにしまってありました。あんなに楽しみにしていた発掘調査でしたが、一度も出来ませんでした。

 亡くなる前の日の夜に「お母さん、肩こっているね。肩たたいてあげるね。」と言って肩をたたいてくれました。その時の、佑美の手の感触は、今でも忘れません。思いやりのある、やさしい子でした。

 佑美と旅行することも話をすることも、佑美の声を聞くことも出来ません。

 佑美の輝く未来も、12歳11ヶ月で止まってしまいました。

 どうして守ってあげられなかったのか、どうして気づいてあげられなかったのかと後悔の気持ちでいっぱいです。

 佑美が亡くなって1年6ヶ月が経とうとしていますが、悲しみは、日に日に深まるばかりです。私たちが辛い日々を過ごす以上に、佑美は、辛く苦しい日々を過ごしていたのだと思うと、胸が締め付けられる思いです。そして、両親にも友人にも誰にも言わずに一人で心の中にしまい死を選ぶいかなかったことを思うと涙があふれてきます。

 争いごとの嫌いな佑美ですが、学校・教育委員会が誠意ある対応をしてくれないのであれば、裁判によって真実を明らかにする以外に方法は無いと思い、文部科学省の教育政策の問題性を含めて提訴することにしました。

 学校で何があったのか真実を知り、それがどのようなことでも、受け止めて、佑美の無念な気持ちを晴らせればよいと願っております。

                                             以 上
 




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