わたしの雑記帳

2006/12/15 自閉症児Nくん転落事件の第一回口頭弁論


2006年12月14日(木)午前10時半から、八王子地裁401号法廷で、自閉症児Nくん転落事件の民事裁判の第一回口頭弁論が行われた。

事件は、2004年11月26日。東京都小金井市立第二小学校で、自閉症のNくん(小3・8)が、校舎2階の体育館倉庫への出入りを叱られ、倉庫内に閉じ込められたことにパニックを起こし、窓から約5メートル下に転落。下あごに全治1か月のけがをしたほか、奥歯5本が欠けた。
もちろん、これだけでも許されることではないが、さらに教師は、Nくんに障がいがあって状況を伝えられないのをいいことに、隠ぺい工作まで行った。


私は今年の1月に保護者の方から、この事件について知らされていた。そして、最近になって、民事裁判を起こすことになったとご案内をいただいて、裁判の傍聴に駆けつけた。損害賠償と謝罪広告を市立小学校の設置者である小金井市に求めている。

私は何回か、自閉症を理解するための勉強会に参加したことがある。
右から左へとすぐに抜けてしまう私だが、世間一般でいう性格的な「自閉(症)気味」と障がいとしての「自閉症」とは明らかに違うということ、コミュニケーションの障がいであるということ、自閉症には様々な段階があり一括りにはできない障がいであるということはなんとなく理解した。
そして、印象に残っている講師の言葉は、「自閉症のひとに言葉を理解しろというのは、目が見えないひとに、がんばってこれを見なさいというようなものだ」という内容。そして、自閉症のひと独特のこだわりについては、私たちが見知らぬ外国に行ったとき、マクドナルドを見ると安心して入ってしまう心理。つまり言葉がわからなくて不安ななかで、ここなら言葉がわからなくても、ある程度理解できると安心できる場所。不安だらけのなかで、知っていること、ここなら安心できる場所やものに向かおうとする心理が、他者からすると「こだわり」に見えてしまうということ。

素人の私が、1、2回の勉強会で理解した内容を、身障学級の教師が理解しないはずはないと思うのだが。結局は、思い通りにならないイライラを子どもにぶつけただけという気がする。対応に専門性を有するからこそ、特殊学級をつくったのではなかったか。少人数クラスなのではないだろうか。
しかし、現実には、障がい児学級での不祥事は後を断たない。そして、たいへん残念なことに、親が訴えても、その訴えが入れられることは少ない。そんななかで、子どもたちが何十にもハンディを負わされている。障がいを抱えたうえに、理不尽な周囲の振る舞いによって苦痛を強いられる。
何も知らない子どもならまだしも、それが大人だったり、ましてや今回のように、専門職である人間が、子どもの障がいに付けこんで、自らの過ちを正すことをせず、口をぬぐったまま知らん顔でやり過ごそうとしている。障がい児を担当するしないにかかわらず、基本的な子どもの安全や人権という視点に欠けている気がする

事件については、時間をみて概要をもう少し詳しく事例として挙げさせていただきたいと考えているが、とりあえず今回は裁判のことを書く。
原告は、Nくんとその両親。被告は小金井市。第一回目ということで、お母さんとお父さんがそれぞれ、冒頭での意見陳述を口頭で行った。2人で10分という限られた時間だったため、お母さんは準備していた陳述書より若干短めになったというが、本来の提出した原稿のほうをサイトで掲載させていただくことの了承を得た。(陳述書 参照)

お母さんは、事故後のNくんの辛い治療について話された。自閉症児の治療風景を知らない私たちには、まさに想像を絶する苦痛がそこにある。治療の意味が理解できず、恐怖にパニックを起こすNくん。危険だとわかっていても、全身麻酔に頼らざるをえない。教師の叱責と行動で恐怖を体験し、怪我で痛い目にあって、治療でさらに恐怖と痛みを再体験する。命さえ再び危険にさらされる。
教師の何気ない行動が、Nくんに拷問の日々を与えてしまった。それを間近でみていなければならなかったお母さんもまた、拷問を受けているような気持ちだったろうと思う。

そして、保身のための教師のうそ。Nくんの捜索や大けがの治療よりも優先された隠ぺい工作。自分で状況を伝えることのできないNくん。治療に当たる医者は、教師の言葉を信じるしかない。
ほかの学校事故でもあった。重体の子どもの救急搬送に付き添うことなく、事故処理の話し合いばかりをしていた教師。状況説明のないなかで、適切な検査や治療が遅れた。
子どもの命にかかわることだ。

さらに、不祥事にふたをしようとする学校と教育委員会。もちろん障がいのない子にも同様のことが行われているが、障がいがあればさらにたやすい。本人は状況を伝えられないか、話しても大人たちが否定してしまえば障がいを理由に言いくるめることができる。親は障がいをもつ子を預けていることに負い目を感じている。世話をかけているという思い、今後も世話にならなければないらないという思いから、泣き寝入りをしやすい。
しかし、お父さんは言う。「何も言わないことが子どもたちのためになるとは思えません」「私たちの息子のためだけでなく、多くの障碍を持つ子どもたちのためになると思っています」。

親たちが言わなければ、この先も、障がいのある子は、どんなに理不尽な目にあっても、命が危険にさらされても、その人権が顧みられることはない。
言わなくても察してくれるやさしい社会ではない。主張しなければ権利はどんどん奪われてしまう。

今回、心強いなと思ったのが、いくつかの障がい者のグループが裁判の傍聴に駆けつけていたことだった。これはNくんだけの闘いではない。みんなの闘いであることを理解している。
本当は、障がいのあるなしにかかわらず、子どもの命を守るための闘いだと思う。
今回の事件は、障がい児だからこそ被害にあったのではなく、障がい児だからこそ加害行為がないことにされた事件なのだと思う。

世間ではよく「勝ち組・負け組み」「弱肉強食」などと言う。しかし、気づいたら自分も切り捨てられる側にいつかいることだろう。「勝ち組」などと言われるのはほんの一握りの人間だけで、他者の犠牲のうえでなりたっている。「強いもの」はいつまでも強くいられるとは限らない。それよりは、誰もが安心して生きられる社会をめざすほうがよいのではないかと思う。
裁判の成り行きを見守りたい。

河合治夫裁判長からは、次回は弁論準備期日(非公開で裁判の今後の進め方を話しあう場)にしてはどうかという打診があった。しかし、原告弁護団は裁判は公開が原則であることを理由に弁論を主張。
公開で行われることになった。
お父さんは、この裁判を健常児の基準で判断しないでほしいと冒頭陳述のなかで訴えている。多くの裁判で、健常児の基準で判断された結果、原告側の主張が容れられない。
裁判所はどのような基準で判断をするのか、しっかりと見届けたいと思う。

双方の弁護団の都合で、次回は2007年3月29日(木)八王子支部401号法廷で、10時から口頭弁論が行われる。



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