わたしの雑記帳

2006/10/12 小森香澄さん・いじめ自死裁判の傍聴報告

2006年10月12日(木)、東京高裁818号法廷で午前10時より、小森香澄さんのいじめ自死裁判の控訴審(平成18年(ネ)第2324号)第2回口頭弁論が開かれた。(濱野惺裁判長・高世三郎裁判官・遠藤真澄裁判官)

横浜地裁から東京高裁に場所が移ったことが影響しているのか、今回は傍聴者数が10名程度で、今までに比べるとかなり少なかった。わずか15分程度で終わってしまうので、仕方がない面もあるが。

まずは、準備書面の確認が行われ、被告生徒側から提出された手紙の原本が回覧された。
法廷での弁論と平行して、現在、和解の話し合いが進められている。それを踏まえたうえで、進行について意見はないかと裁判長が双方の弁護士に尋ねた。

一審原告の小森さん側の弁護団は、本日提出されたAさん側の書証については、反論するかしないかを含めて検討したいと申し出た。一審被告側の県とAさん側は、とくにないという。
双方、弁護団の都合(差し支え)を聞いて、次回の口頭弁論の日程が決定される。結局、このスケジュール調整に一番、時間を費やしている感がある。

終了後、いつものように弁護団から説明があった。現在、職権和解が勧められており、第1回目の話し合いが行われたという。
高裁ではとくに、地裁の判断を踏まえて、和解の可能性について話し合うことをするという。
一審の地裁で、双方の主張、争点はほぼ出ている。判決では、金銭的なことを争うしかないが、和解ではもっと柔軟に、謝罪や再発防止策を求めるなど実質的な要求を出すことができる。

小森夫妻は、地裁判決後、控訴するつもりはなかった。被告の県とAさん側が控訴してきたので、やむなく控訴した。よって、高裁での和解も拒絶するものではない。
そこで、話し合いの席に臨んでいた。

早々に和解になるかもしれないと、私自身、密かに思っていた。しかし、今日の口頭弁論では、和解の話し合いが勧められる一方で、Aさん側は、Aさんはいじめをするような人間ではないという証拠の手紙を提出してきた。
いじめている子どもが、すべての人間に対していじめをしているとはむしろ思わない。それでは孤立してしまい、自分自身の立場も弱くなる。他の仲間を自分側に引きつけておいて、そのなかで多勢対無勢の対等ではない関係のなかで、自分は安全圏にいて、いじめをする。あるいは誰かを一致団結していじめることで、自分たちの希薄な関係性を維持しようとする。
体罰をする教師を「いい先生だった」と擁護する親や生徒は必ずいる。犯罪を犯したひとを「自分にはやさしかった」「そんなことをする人間ではなかった」と言うひともいる。
しかし、だからといって罪が帳消しになるわけではない。
また、小森さん側にしても、何もAさんの全人格を否定しようとしているわけではない。香澄さんを心理的に死に追い詰めたことの責任だけを問うている。

そして、県側、すなわち学校側は、なんとここへきて、香澄さんやその両親の悪性立証をしたいといってきたという。
昨日、千葉浦安の小学校養護学級でのわいせつ事件の民事裁判傍聴報告の終わりのほうで、被告側が原告側の悪性立証をしたいと言い出したり、証言者の人格を貶めるような証言・証拠を出してくることがあると書いたばかりだ。
民事裁判で、原告側が問うているのは、いじめの事実があったことを認めてほしいこと、どんなことがあったのか真実を知りたいということ。学校側は非を認めて、再発防止に努めてほしいということだ。
争点とは全く別のところで、ただ原告を攻撃して心理的な打撃を与えるためだけに出してきているとしか思えない。

仮に、被害者や家族に何らかの落ち度があったとして、それが何だというのだろう。
NPO法人ジェントルハートプロジェクトでは、学校での講演で必ず、いじめられてもよい理由をもって生まれた命はひとつもないこと、他人を傷つける権利をもったひとも一人もいないことを子どもたちに話している。
これでは学校側が、こういう理由があるひとはいじめてもいい、こういう家族がいる子どもはいじめられても仕方がないと言っているようなものだ。県や教育委員会が自らいじめを容認しているように聞こえる。
いじめた子どもたちと一緒になって、再び被害者にムチ打ち、最愛の娘を亡くして、それを救えなかった自らも加害者であると自分を責め続ける家族に追い討ちをかけるものだ。

なぜ遺族が裁判を起こさざる得なかったのか。
ひとりの大切な命が失われたことの悲しみと責任を学校と共有できなかったからではなかったか。
自分たちの言動が同級生を死に追い詰めたことの反省と謝罪、二度と繰り返さないという誓いが得られなかったからではないか。

裁判の常套手段とはいえ、和解の話し合いのもたれているこのタイミングで、遺族が心を開きかけているこの時期に、このような大きなしっぺ返しは再び被害者遺族の傷を深く抉り出す行為だと思う。
ほんとうに和解する気はあるのか、反省する気はあるのか。
この先、たとえ和解協議のなかで、どんな言葉を並べ立てたところで、白々しい気がする。

また、学校側は、自分たちの「見守っていた」という方法は高校生に対して、適切な指導方法であったと主張してきた。これだけ、いじめが子どもたちの死に直結する問題であることは言われ続けてきたのにも関わらず。

文部省が1985年に出した「児童生徒のいじめ問題に関する指導の充実について(通知)」の「いじめ問題解決のためのアピール」のなかでも、「いじめは、児童生徒の心身の健全な発達に重大な影響を及ぼし、登校拒否や自殺、殺人等の問題行動を招来する恐れがある深刻な問題である。しかも、いじめは、小・中・高を通じて広範に見られる問題であり、一部の児童生徒だけではなく、すべての児童生徒にかかわる視野の広い問題である」としている。続けて、「いじめは、学校における人間関係から派生し、教師の指導の在り方が深くかかわっていること。いじめ問題に対する教師の在り方などから児童生徒や父母の不信感を招来し、問題を深刻にしている面もあることも留意する必要がある」と書いている。
学校が取り組むべきポイントにも、「全教師がいじめの重大性を認識し、実態に目を向ける」「学校全体に正義をいきわたらせる」「家庭と地域との連携を強化する」とある。

しかも、香澄さんが自殺したのは1998(平成10)年だが、ほとんどいじめが原因だと認めたがらない文部省でさえ、平成6(1994)年には5人、平成7年(1995)年には6人をいじめによる自殺と認めている。調査結果は1、2年遅れて発表されるにしても、1998年には、いじめは自殺と直結する問題であることは、この時期を教師として過ごしてきた人間であれば当然、認識しているべきことだろう。まして、文部省の認定ではなく、新聞報道の数からすれば、常に倍以上のいじめ自殺が報道されているのだから。(雑記帳の2006/9/11付け いじめと学校の対応 を参照)

いじめと自殺との因果関係などは、子どもの自殺の数がすでに立証していると思う。
学校・教育委員会の考えは、世間一般の感覚とは、余りにかけ離れている。そして、それが子どもの命を直接預かる現場なのだ。
北海道滝川の小学生女児のいじめ自殺もけっして小森香澄さんのいじめ自殺と無関係ではないと私は思っている。
言葉や態度のいじめが死に直結することの認識を文科省が、学校現場が、もっとしっかり持っていれば、避けられた死だと思う。
ここで、いじめと死の因果関係を認めないということは、さらに多くの子どもたちをいじめによって死に追い込む可能性につながることだと思う。
ますば、事実を認めることからしか、いじめ防止のためのスタートはないと思う。教育現場はいつまでも遺族の訴えに反論している場合ではない。次の命が失われないために本当に何が大切なのかを今一度考えてほしい。




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