わたしの雑記帳

2006/3/16 2006年3月13日北村光寿さん落雷事故裁判、最高裁判決


2006年3月13日、前回の口頭弁論(2月13日)から、まる1ヶ月。最高裁の判決が出た。

9時少し前に永田町にある最高裁判所の南門に行くと、すでに学災連の方たちがビラ配りをし、たくさんのマスコミが来ていた。
9時10分頃から、傍聴整理券の列をつくる。渡された札は4番だった。前回同様、コンピューターで抽選。20番目までのひとが、門越しに抽選風景を見ることができる。と言っても、ノートパソコンにつながったプリンターから紙が排出されるのを見るだけなのだが。
番号が張り出されて、今回は数字があった。しかし一旦、学災連の事務局に渡す。前回は入れなかったということで、今回は入れていただいた。

カギのついたロッカーに、筆記具と貴重品を除く荷物を預ける。携帯電話も持ち込み不可。
探知機を潜り抜ける。ブザーが鳴ると、さらに空港などにある金属探知機で調べられる。
案内板に従って、閑散とした建物内を歩く。第二小法廷。天井が高い。半円状にイスが並ぶ。
傍聴席はなんと、座席指定だった。渡された傍聴券に座席番号がふってある。私の席は前から2列目。一般傍聴席は42席。全部で4列。それとは別に両脇にマスコミ席がある。
正面に高い背もたれのついた裁判官席が5つ並ぶ。
弁護士席も半円状で、一般傍聴席とは木のパーティションで仕切られている。

原告の北村光寿さんが、お兄さんに車いすを押してもらって入場した。
光寿さんのまつげの長い、黒目がちのおおきな目は、見えているのではないかと錯覚してしまうが、見えてはいない。車いすの前の弁護士席と一般傍聴席とを隔てる木のパーティションを手で探っていたかと思うと、やおら自力で車いすから立ち上がった。
私はそれまで、光寿さんが自力で立てるとは知らなかったので、驚いた。腕にも力があるようには見えなかった。それでも、なんとか立ち上がり、介助しようとするお兄さんの手を振り払いながら、私の斜め前の座席へと移動した。

10時30分、5人の裁判官らが入場。全員が起立して会釈をする。光寿さんも、木のパーティションにつかまりながら、自分で立ち上がって会釈し、座った。
1分間のマスコミによる制止画像録画がある。裁判官は正面をむいて動かない。
終わると、カメラマンは全員、退廷させられた。

中川了滋裁判長が判決文を読み上げた。「原判決における被上告人に関するものはすべて破棄し、高松高裁に差し戻す」。これだけ述べると、裁判官たちは去っていった。
傍聴人のなかには、よく意味がつかめなかったひとたちもいたと思う。被上告人(この場合、上告人は北村さんで、上告された、被上告人は私立土佐高校と高槻市体育協会)が誰のことを指すか、理解できないひともいた。つまり、高裁の判決は間違っているので、もう一度、審議しなおしなさいという結論が出た。
最高裁の門を出るとすでに、「勝訴」を掲げた横断幕が支援者たちの手で掲げられていた。拍手がわく。マスコミのシャッター音が響く。「よかったね」「おめでとう」の声。
最高裁で審議されることが決まった段階で、ある程度は予測がついていた。しかし、一抹の不安もあった。どこまでが認められるのか。おそらく一番よい形の判決であったのだと思う。

議員会館に場所を移して、記者会見が行われた。判決文はまだ手元にない。別室で弁護団が今、読み込んでいるという。
お母さんの北村みずほさんが、感謝の言葉を述べた。しかし、手放しでは喜べない。
最高裁は、結論を出す機関ではない。あくまで法に照らして正しいかどうかを審議し、間違っていると思われれば、裁判のやり直しを命じる。まだ、終わりではない。

みずほさんは言う。「地裁と高裁で2回負けて、自分の目で判決を確認したい。何回も、何回も読んでからでないと、信じられない。素直に喜べない」
そして、スポーツ事故が今だ減らないことに触れて、「教師はきちんとした指導をしてほしい。防ぐことのできる事故は防いでほしい」「生死をさまようような体にして返されたのに、被災者には言う場がない。失明や下半身まひなどの重度障害を負わされて、いまだに一度も「申し訳ない」という言葉を学校から聞いていない」「30分の心肺停止。どこも動かなかった。指1本動くのを楽しみにきた。体はもどらないが、きちんと上を向いて生きていきたい」「予見可能性が認められてうれしい」と話した。1審、2審と負け続けて、どん底のなか、なんとか這い上がってきた思いが伝わってきて、会場は涙した。

記者から、光寿さんに対して感想を聞かせてほしいとの声があがった。
しかし、光寿さんは「言わない」と家族に小さく言った。
「まだ実感がないから」「判決文も読んでいないし」「恥ずかしいのか」。周囲の思惑を気にして、家族がとりつくろうが、きっと複雑な心境なのだろうと思う。
見えない目の間近でたかれるいくつものフラッシュ。音や気配は伝わる。他人にどのように映っているのか、今の光寿さんには知ることができないなかで、不自由になった体をさらしものにされている感覚もあるのではないか。
そして何より、裁判に勝ったとしても、失った機能は戻らない。あの日以来、彼の人生は大きく変わってしまった。失ったものは計り知れない。
加えて、そのことの責任を認めさせるのに10年もかかって、まだ足りないという。当たり前の謝罪、当たり前の補償、それすらずっと拒否され続けて、最高裁の審議差し戻し命令は出ても、まだ相手が認めたわけではない。再び、自分たちを否定し、傷つけたあの法廷に戻されるのだ。
大きなマイナスからの出発。どんなにがんばっても、ゼロの地点にさえ戻らない。
そんななかで、喜べだの、感謝しろだの言うほうが無理だろう。
前回と今回、光寿さんを見ていて、私はそう感じた。

マスコミには、すでに判決文がわたっていた。
いつも思う。原告たちより、マスコミのほうが早く内容を知ることができる矛盾。大金をはたいて、苦しい思いをして、裁判をしたのは原告なのに、なんだか一番、ないがしろにされている気がする。


やがて、判決文を読んだ弁護団が合流した。判決文の解説を行う。

事故直前にグラウンドでは、南西方向に雷鳴と放電が確認されていた。そのことは複数の証言がある。
しかし、1審、2審は「引率していた教諭らに落雷は予見できたとは言えず、予見すべき義務があったとも言えない」とした。
これに対して最高裁は、「落雷事故が毎年発生していることや、前兆現象に関する文献が多数存在していることを踏まえると、現場にいた教諭らは気象状況から落雷を予見できた」とした。
この場合、「前兆現象に関する文献」は特別な文献ではなく、小さな子ども向けの本にさえ、雷鳴や雷雲があるときには安全な空間に逃げなさいと書いてある。知ろうと思えば簡単に知りえた状況だったということが認められた。

そして、「たとえ一般的なスポーツ指導者に認識が薄かったとしても、教育活動の一環として行われる部活動では、生徒は指導官の指示に従って行動するのであるから、生徒との安全にかかわることを具体的に予見する義務がある」「危険を予見して、かつ、事故を防止する義務がある」とした。
つまり、一般的なスポーツ指導者以上に、学校教育におけるスポーツ指導者には、より高いレベルの安全配慮、注意義務を認めたことになる。

最高裁は、差し戻し審で、教諭が予見に基づいてどのような措置をとることができたかや、その結果事故を回避できたかどうかなどについて、さらに審理するよう命じた。
具体的には、試合を途中でやめることができたかどうか、どういう状況で、どの時期にやめるべきだったかが審理されることになる。
原審では、私立土佐高校側は、たとえ落雷の危険性を予見できたとしても、自分たちに試合を中断させる権限はないと主張。高槻市体育協会は「自分たちは主催者ではない」から、責任はないと主張。
学校と協会を訴えた1審、2審で原告は敗訴した。
しかし最高裁は、会場を借りたのは同協会であることなどから「協会が主催者であると推認するのが相当」と判断。協会の責任についても、差し戻し審で審理される。


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この最高裁の判断は、今後の学校事故・事件にひとつの道を開くことになるのではないかと私は思う。事件や事故が起きるたび、学校側は「予見できなかった」と主張し、「予見できなかったのだから仕方がない」と、無知であることが免罪符となり、責任が否定されてきた。過去の事例が教訓に生かされることなく、繰り返されてきた。
しかし、教育活動で、より高い注意義務が認められるようになれば、いい加減な指導は許されなくなる。知らなかったこと、不勉強であることに責任を問われるようになれば、指導者は積極的に安全について学習するようになるだろう。あらかじめ危険を予測し、対策を立てるようになるだろう。
そうなければ、学校での事故・事件は確実に減る。

落雷という天災でさえ、科学的な見地から学べば回避できると認められたなら、人災はもっと回避されるべきことだろう。

母親の北村みずほさんの、けっしてあきらめないがんばりが、自分たちのことだけでなく、多くの子どもたちの命を守ることにつながったと思う。
そして、指1本動かすのがやっとだった光寿さんが、ここまで回復した陰に、本人の強い自立心とがんばりがあったことを今回、目の当たりにした。光寿さんもまた、家族に支えられて、けっして自分の人生をあきらめていない。
盲学校から帰るとき、靴をはきかえるのに、光寿さんは3時間もかかるという。それでも、やってもらうことを拒否して、自分ができることは時間がかかっても、自分でやるという。
光寿さんは現在、事故後に入学した盲学校を休学して、大学進学を目指している。
九死に一生を得て、その生を大切に生きている。

報告会であいさつに立った国民救援会の方が言った。「1円でも多く賠償金をとりなさい。この国ではそれが相手の責任が認められたということだから」。
重い障がいを負った子どものこれからの生活に少しでもプラスになるように、あるいは家族の負担を少しでも減らすために、補償金は多いほうがいいと思っていた。しかし、裁判の賠償金には、こういう意味もあるのだと改めて思った。被害にあった子どもの命をお金に替えているのではない。相手の責任をお金に替えているのだ。

裁判は最高裁で終わりではない。再び高裁が待っている。最高裁の判決は大きく影響するだろうが、子どもたちの安全・安心のために、前例となるような判決を望む。





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