わたしの雑記帳

2013/5/6 埼玉県北本市の中井佑美さん(中1・12)いじめ自殺事件控訴審 棄却!

 2013年4月25日(木) 13時30分から、東京高裁101号法廷で、埼玉県北本市の中井佑美さん(中1・12)いじめ自殺事件控訴審判決があった。結果は控訴棄却。同じ「棄却」でも、判決文の内容によっては、原告側も少しは救われることがある。しかし今回、一審よりむしろ後退した内容だった。

 2013年1月17日の結審時に、設楽隆一裁判長から和解の提案があり、その後、不調に終わったものの、少し期待感があった。それだけに残念だった。
 和解の話し合いのなかで、佑美さんの両親は、今後のいじめ裁判のためにも、自分たちは最大限の譲歩をする覚悟を決めていた。しかし、一審で認めたわずかな内容でさえ、北本市はいじめと認めることを一切拒否した。それでは裁判を起こした意味さえなくなるとして、結局、判決を選んだ。悔しい思いは当然、強くあるだろうが、判決を選んだことに後悔があるようには見えなかった。

 前回、地裁判決(2012年7月9日)のあと、なかなか時間がとれなくて、一審判決についていろいろ思いながらも雑記帳に書くことができなかった。一審とあわせて、裁判所の判断について触れたいと思う。

佑美さんの両親の請求内容

 提訴は、2007年2月6日付。

 (1)北本市に対し
 @被告北本市が、早期にいじめの実態を調査し、適切な防止措置を執るといういじめ防止義務を怠ったことにより亡佑美が被った損害 
 A被告北本市が、亡佑美の自殺後、 その原因等を調査し、親権者に報告する調査報告義務を怠ったことにより原告らの被った損害
 これらの賠償を国家賠償法(昭和22年法律第125号)1条1項に基づいて、求める。

 (2)国に対し
 @被告国が、被告北本市を指導、助言又は援助する義務を怠ったことにより亡佑美が被った損害
 A被告国が本件事件の原因の再調査に際して、遺族である原告らに対する聴取を行うなどして適切な調査を行うべき注意義務を怠ったことなどにより原告らの被った損害
 これらの賠償を国賠法1条1項に基づいて、求める。

 被告らは、原告らに対し、連帯して、それぞれ3837万0251円及びこれに対する平成19年2月28日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2012年7月9日 東京地裁(棄却)の判断 (舘内比佐志 裁判長)

 (1)遺書について
 「死んだのは、学校の美術部のみんなでも学校の先生でもありません。
■■■■(「クラスに」と書いて、黒く塗りつぶしてあった) クラス(の一部=挿入文)に勉強にテストのせいかも」
という内容の遺書について。

 「中学1年生の祐美が、家庭内の問題について触れながら、自殺の原因として、美術部や教師を明示的に除外しつつ、『かも』として断定を避けながら原因と考え得る複数の要素を記載したものと考えることができる。
 しかしながら、(中略)本件遺書の記載内容から、具体的に特定することは極めて困難であるといわざるを得ず、本件遺書が、その具体的な手がかりとなるものということはできない
 仮に、一定の手がかりとなると考えていたとしても、亡祐美の自殺の原因が原告らの主張するような『いじめ』であると認定することはできず、結局は様々な要素が原因となってその尊い命を自ら絶つことを決意したものではないかと推察するほかはない。


 (2)中学時代のいじめについて

 @「中井君」「きもい」などと言われた事実について
 「複数名が同調して亡佑美に対して一方的、継続的に行っていたものとまでは認められず、上記発言をもって、自殺の原因となるような『いじめ』があったと認めることもできない。」

 A上履きが下駄箱から落とされたこと等について
 「いかなる経緯で上履きが落とされ、いかなる理由で片方だけ下駄箱の上にあったのかは本件全証拠によっても明らかとはいえず、第1回報告書では、他の生徒についても同じようなことがあった旨が記載されていることにも照らすと、亡佑美を特定の対象とした『いじめ』であったと認めることは困難である。
 確かに、亡佑美は、本音大会において、『私の靴を落としたのは誰か知っていますか?』と部員に尋ねており、亡佑美がこのことを気にしていたことは優にうかがわれるものの、亡佑美のクラスの者に原因があるかどうかは明らかでない上、亡佑美が、クラスではなく美術部の本音大会において尋ねていることからすれば、亡佑美自身、これがクラスの一部の者の行為であるとは考えていなかった可能性もあることになるのだから、上履きに関する上記事実が、亡佑美が自死を決意しなければならないほどの行為を受けていたことの証左であるということはできない。」

 B体育祭の練習中、他の女子生徒から「内股だよね」と言われたことについて
 「亡佑美が、他の女子生徒から『内股だよね。』と言われたことに対し、『直してるんだ。』と言ったことが認められるものの、これがいかなる趣旨、状況下での発言かは明らかでなく、被告北本市の調査(第1回報告)によれば、発言をした生徒は、亡佑美が近くにいるとは気付かずに発言したものであり、亡佑美の発言を受けて謝罪したとされているところであって、亡佑美を特定の対象とした『いじめ』であったとは認められないし、亡佑美が自死をも決意しなければならないほどの行為を受けていたことを推認させる事情ということも困難である。

 C塾に入らないと、「ヤバイ系」「絶交」「ウワサばらまいてやる」などと書かれた『塾勧誘の手紙』について
 「亡佑美と19番との関係は、(中略) 一方が他方を一方的に攻撃していたというような関係とは認められないものであり、前記認定の塾勧誘の手紙の記載内容についても、多少強引な表現が見られるとしても中学1年生の19番が、自ら通う学習塾に小学校以来の関係がある亡佑美を誘う方法として、『強要した』と評価することは躊躇せざるを得ないし、このことをもって、亡佑美が自死をも決意しなければならないほどの行為を受けていたことを推認させる事情であるとも認め難い。
 なお、本件遺書には、『死んだ』原因が『クラスの一部』『かも』と記載されているところ、19番は、中学1年生の時、亡佑美とは異なるクラスに所属しているのであるから、そもそも
塾勧誘の手紙が亡佑美の自殺の主たる原因であるとは考え難いところである。」

 Dクラス内での席替えについて
 「原告らは、44番が、クラスの席替えにおいて、亡佑美に断りなく、Y教諭に対して、亡佑美と席を交換するように言った旨主張するところ、44番がかかる発言をしたことについては、これを認めるに足りる的確な証拠はない上、仮にかかる発言があったとしても、これがいかなる趣旨、状況下における発言であるかは定かではなく、原告らの主張するような『いじめ』の趣旨で行われたものであるとも認められない。」

 E美術部の本音大会について
 「本音大会において、『タメなのに敬語は使わないで。うざいんだ。』と発言されたことをもって、亡佑美を対象とした『いじめ』であったとは認められないし、亡佑美が自死を決意しなければならないほどの行為を受けていたものと認めるに足りない。
 亡佑美は、本音大会において『今もいじめのある人』との質問に対して、他の生徒とともに挙手しており、亡佑美が北本中学校において友人関係で、何らかの精神的な負担を感じていたことは否定できないとしても、亡佑美が、上記の『いじめ』という言葉をどのような精神的な負担の限度を超えて、亡佑美が自死をも決意しなければならないほどの行為を受けていたことを推認することは困難である。」
 「本件遺書において美術部に関することが明示的に除外されていることや、『クラスの一部』との記載とも整合しない。」

 F結論
 「以上のとおり、原告らが主張する事実は、いずれも、証拠上認められないか、認められる範囲の事実についても、亡佑美の自殺の原因となるような具体的な事実ということはできず、また、亡佑美の自殺の原因となるような事実があったことを推認させる事情ということもできないし、さらに認められる各事実の内容が上記の限度であることからすれば、これらがあいまって亡佑美の自殺の原因となったものとも認められない。」


 (3)小学校時代のいじめについて

 @小学校6年生時の担任との交換日記について(051011参照)
 「亡佑美は、本件交換日記上、『いじめ』を受けた旨記載しているが、いずれも自死を決意しなければならないほどの行為を指して『いじめ』を受けている旨記載しているとは考え難い。
 また、その他の記載も、そもそも記載された事実を認めるに足りないか、翌年10月の自殺の原因となるような行為があったものと認めるに足りない。」

 A「中井君」と呼ばれたことや「全部がきもい」と言われたことについて
 「これらの表現によって亡佑美が不愉快に感じたことはうかがわれるものの、それを超えて、複数名が同調して亡佑美に対して一方的、継続的に行っていたものとまでは認められず、これらをもって自死の原因となるような行為があったものと推認することはできない。

 B19番に関する記載について
 19番が鉛筆を返さなかった点 ⇒ 「その理由について触れられておらず、実際、翌日には返却されたとされている。」
 19番との関係について、10月12日以降N教諭に相談している点 ⇒ 「記載を全体としてみると、仲の良かった19番と喧嘩するようになってきた中で、今後、どのように付き合っていくかを悩んでいるということを超えて、翌年10月の自殺につながるような事実はうかがわれない。」
 修学旅行に関する記載 ⇒ 「19番と喧嘩してしまう可能性を心配する記載はあるものの、自殺とつながるような事実であるとはいい難い。」
 19番が日記を読んだという点 ⇒ 「解決に至っている。」
 「以上のとおり、亡佑美と19番との関係は、複雑であり、亡佑美が相応の不愉快な思いを抱くことがあったとはいえ、亡佑美が自殺の原因となるような行為を19番から受けていたとまで認めることはできない。」

 C44番に関する記載について
 44番から歯科検診の際に蹴られるまねをされ、4年生のときの陰口に関連して、またいじめられるのではないかと不安がっていた点。
 握力測定の順番を抜かされそうになった点。
 手を振るふりをされた点。
 給食の配膳の際に亡佑美の皿をずらして置かれた点。
 ⇒ 「いずれも伝聞であったり、亡佑美の推測であったりするもので、実際に44が亡佑美に対してどのような行為をしたのかについて認定し得る的確な証拠はなく、亡佑美が不愉快な思いをしたことを超えて、自殺の原因となるような行為を44番から受けていたとまで認めることはできない。

 D学級委員に推薦された点について
 「押し付けられたものと認めるに足りる証拠はなく、仮に、亡佑美が押し付けられたと感じて不愉快になるようなことがあったとしても、これをもって亡佑美が、自殺の原因となるような行為を受けていたとまで認めることはできない。」

 E木琴の役に関する点について
 「亡佑美がその役の決定過程に不満を抱いていたことが推測されるにとどまり、自殺の原因となるような行為を受けていたものとまで認めることはできない。

 F19番及び46番にトイレに連れて行かれ、便器に顔を突っ込めと言われて逃げ出したことについて
 「亡佑美が、19番及び46番によりトイレに連れて行かれ、トイレの水に顔をつけろと言われ、このことをN教諭に言ったかどうかとの点については、証人Nは、そのような事実はなかったと明確に否定しており、しかも、かかる重大な事実があれば記憶に残らないはずはなく、学年間で情報を共有した上、校長に報告しているはずであるとの証言も一定の合理性があること、

 また、原告節子が作成した上記メモ自体、正確な作成時期は明らかではなく、他に上記メモの内容を裏付ける客観的な証拠はないことに照らし、原告節子に係る上記各証拠から上記事実を認めることはできない。
 なお、仮に、原告らの主張するような事実の一端が存在したとしても、原告節子の供述によっても、その後、一応の解決をみたとされていることや、19番及び46番は、北本中学校では亡佑美とは別のクラスであった上、亡佑美は、その後、本件交換日記において、19番との関係について、上手く対処している旨記載しており、亡佑美が19番及び46番との関係に思い悩んでいたとしても、亡佑美が自殺を決意するに至った事情であるとまで認めることはできない。」

 G髪ゴムを引っ張られて首を痛めたとの事実について
 「亡佑美が首が痛いと言って整形外科で受診したこと、同整形外科のカルテには『髪のゴムをひっぱられneck痛くなる』と記載があることが認められるものの、災害報告書には亡佑美が首を激しく振った際に首をひねって負傷したと記載されており、これ以前に、亡佑美は、平成16年12月2日頃に体育のマット運動の際に首を痛め、同13日には、後ろをふり向いた際に首を痛めて整形外科で受診したことを併せ考えると、19番が、首を負傷するほどの強さをもって亡佑美の髪の毛を止めているゴムを引っ張り、これにより亡佑美を負傷させたとまで認めることはできない。}

 H結論
 「以上のとおり、亡佑美が、西小学校において、自殺の原因になるような行為を受けていたものとは認められず、原告らの主張は採用することはできない。」
 「本件交換日記の記載から、亡佑美が19番や46番から『いじめ』を受けていたと認識するような、相応の出来事があったことや、亡佑美が交友関係に思い悩み、気持ちが揺れ動いていたことをうかがうことはできるとしても、これらの事実関係から、亡佑美が、西小学校6年生の時から北本中学校1年生の2学期まで、継続的に、自殺を決意するほどの行為を受けていたとまで認めることは困難である。」
 「原告らは、被告北本市に対し、亡佑美がいじめ自体により受けた精神的苦痛に対する損害賠償責任をも主張するが、(中略)亡佑美に対して不法行為があったと認めることはできないし、少なくとも、N教諭、Y教諭を始め、被告北本市の担当者らについて、亡佑美との関係においていじめ防止義務違反があったと認めることは困難である。」


 (4)被告北本市の調査報告義務違反について

 「公立中学校の設置者である地方公共団体は、在学契約上の付随義務として、在学する生徒及び親権者に対して、生徒の生命、身体、精神等に重大な影響を及ぼし、又はそのおそれのある事故等が発生した場合には、当該事故等について、一定の調査をし、当該事故等の当事者である当該生徒又はその親権者から、調査結果の開示が求められた場合には、これを報告すべき義務を負うと解するのが相当である。」
 「もっとも、どのような内容の調査を、いかなる方法により実施するかについては、これを直接定めた法律の規定は存在しないところ、かかる調査報告は、当該生徒のみならず、他の生徒らに対する関係でも、全人格的な教育を全うし、その健全な成長を図り、教師らと生徒らの間の相互信頼関係を維持育成することが要請され、他の生徒らのプライバシー等も尊重し、規律ある学校運営を維持する必要がある教育機関が、専門技術的な知見を駆使して、調査報告と上記教育に関する要請とを調整しながら行うことが要請されるものであるという事柄の性質上、公立中学校の設置者である地方公共団体の合理的裁量に委ねられるというべきである。」
 「北本市が、その委ねられた合理的な裁量の範囲を逸脱し、又はこれを濫用したと解することは困難である。」

 「原告らは、被告北本市が、亡佑美の自殺の原因となるような事実を知りながら、又は教育に関する要請上何らの支障もなく知り得る状況にあることを知りながら、あえてこれを隠す意図のもとで調査報告を行わなかったなどという事実については、認めるに足りる証拠はない。」


 (5)被告国の亡佑美に対する責任について

 「原告らが主張する地教行法48条1項は、憲法における『地方自治の本旨』に基づき、法的拘束力をもたない非権力的な関与として、それに従うか否かは相手方の主体的な判断に委ねられる指導・助言を規定するものにすぎず文部科学大臣が地方公共団体の行う教育について直接指揮監督することを認めた規定ではない。
 また、地教行法53条及び54条2項も、文部科学大臣が自ら調査し、または地方公共団体の長等に対し、調査することを求めることができることを規定するものにすぎず、地教行法上、個別の国民の法的利益を直接保護することを目的とする規定は存在しない。」

 「原告らが主張する各規定は、特定の国民との関係において、当該公務員が権限を行使すべき作為義務の根拠となるような規定ではなく、他にこれを基礎付ける規定も存在しない以上、原告らの上記主張は採用することができない。」

 「原告らは、本件各作為及び本件各不作為行為により、被告北本市において適切な調査報告がなされなかった旨主張するが、前記のとおり、被告北本市の調査報告義務の履行につき、違法な点は認められないのであるから、原告らの上記主張のうち、被告北本市の調査報告の違憲を前提とするものについては理由がないことは明らかである。」


2013年4月25日 東京高裁(棄却)の判断 (設楽隆一 裁判長)

 (1)遺書について

 「亡佑美は、『クラスの一部』のほかに『勉強』、『テスト』をも並列的に列挙しているのであるし、『クラスの一部』という以上に具体的な記載がないことに加え、『かも』という断定を避ける表現が用いられていること、更には、亡佑美がいまだ成長の途上にある多感な中学1年生であったことや、自殺を決意するに際しては激しい葛藤があったと推察されることも併せ考えれば、上記のような本件遺書の記載内容から、亡佑美が自ら命を絶つことを決意するに至った原因を、直ちに特定することはできない。
 また、『クラスの一部』という記載があることから、それが一定の手掛かりになると考えるとしても、本件遺書の記載内容にも照らせば、そのことから亡佑美に対する『いじめ』があり、それが亡佑美の自殺につながったとまで認めることには、飛躍があるといわざるを得ない」


 (2)中学校でのいじめについて

 @悪口を言われたり無視されるなどしていた事実について
 「控訴人節子は、○○、19番、○○、○○の母、○○からその旨聞いたと陳述するところ、いずれも伝聞又は再伝聞であるから、その聴取内容の信用性については慎重に吟味しなければならない。
 とりわけ、19番は塾勧誘の手紙の差出人であり、本件事件から約1年後に、控訴人節子から塾勧誘の手紙を示され、同席した母からそれについて叱責され、同母が控訴人節子に謝罪した直後に話した内容であるというのであるから、責任転嫁等につながる発言が潜り込む可能性が高く、信用性は特に慎重に検討すべきであって、いずれも裏付けを欠くものである以上、そのままに受け取ることはできない。19番とその母がその後に作成したメモ にも同旨の記載があるが、同様の理由から採用することはできない。
 ○○も、当時、44番とともに亡佑美をいじめていたとして名指しされていた生徒であるから、同様の懸念がある。」

 「その他、内容的に見ても、1年○組の女子生徒が性格の強い者らから成るグループと、亡佑美らのグループとに分かれており、前者のグループに属するとされる者が佑美らとあえて話をしなかったというもので、これをもって『無視』とまで評価すべきかについては疑問があり、
 あるいは、前者のグループに属する44番や○○が亡佑美に聞こえるように悪口を言っており、他の女子も同調していたとはいうものの、その具体的な内容は『暗いね』というもののほかは明らかではなく、発言の際の状況やその頻度等も不明である。

 亡佑美が『中井君』と呼ばれていたとのことについても、(中略) この呼称が用いられた頻度等は不明であり、亡佑美がこれを極めて深刻に受け止めていたとまで認めることはできない。

 Aくつ隠しについて
 「証人A子が自ら確認したのも2回のみであり、それ以上の回数があったことを認めるに足りる的確な証拠はないといわざるを得ない。」
 「亡佑美がこのことを気にしていたことはうかがわれるものの、上履きは下駄箱から落とされ、あるいは片方だけ下駄箱の上にあったという客観的状況からして、そもそも意図的に隠されていたものであると決め付けてよいか疑問であり、いずれにしても亡佑美は所定の場所からほど遠くない場所で上履きを発見していることにも照らせば、上履きに関する上記の事実によって亡佑美が自殺を決意しなければならなかったとは認め難いし、このことが亡佑美が自殺を決意しなければならないほどの行為を受けていたことの証左であるということもできない。」

 B「タメなのに敬語は使わないで。うざいんだ。」という発言について
 「 (その当否はともかく)同級生問で敬語を使うことについて否定的な意見を述べるものであって、亡佑美の人格までを否定するものではない

 C美術部の本音大会について
 「控訴人らは、本件ではどの「いじめ」も精神的苦痛を与えるものであり、亡佑美は本音大会により死の決意を固めたなどとも主張するけれども、既に説示したとおり、亡佑美が自殺を決意しなければならないほどの行為を受けていたとは認められないものであり、そもそも、本件遺書において美術部に関することが明示的に除外されていることからすると、美術部における出来事が亡佑美が死の決意を固める決定的な要因になったかのような主張とは整合しないといわなければならない(控訴人らは、美術部のせいではない旨の表現は、死の原因が美術部に一切ないという意味ではなく、美術部が直接の原因ではないと言っているにすぎないなどとも主張するけれども、文理に明らかに反しており、採用することはできない。)」

 D北本中学校の「指導に関する記録」の「清掃では一人でも黙々と取り組む姿がある。」との記載自主学習ノートに、夏休み明けに並び順の変更を行うことを提案していることについて
 「これらのことをもって、亡佑美を対象とする『いじめ』が行われていたと推認することはできず、亡佑美が自殺を決意しなければならないほどの行為を受けていたものとも認めることはできない。」


 (3)控訴審におけるA子さんの証言について

 「A子は、その陳述書及び証人尋問において、亡佑美について、北本中学校においても、態度が気に入らない、うざい、きもいなどの悪口が言われていた旨述べるけれども、誰がどのような状況で発言したかといった具体性を有するものではないし、
 A子は、陰で悪口を言うことはあっても直接本人に向かって悪口を言うような雰囲気はなかったとか、亡佑美の耳に入っていたかどうかは分らないとか、名前をカムフラージュするなどして本人に分からないように言っていたなどともいうのであるから、A子自身は亡佑美が察知していたと思うと述べるものの、亡佑美が認識していたかどうかすらはっきりしないといわざるを得ない。
 しかも、A子は、本件事件後にY教諭に3回にわたって話を聞かれた際、亡佑美が受けていた『いじめ』に当たる事実として『靴隠し』の話しかしていないともいうのである。

 一方、A子は、北本中学校では、亡佑美とクラスも部活動も同じで、いつも一緒にいるという間柄であり、本音大会の際に、亡佑美が『A子ちゃんはもしかして私のこと嫌いなんじゃないか。』と尋ねたのに対しでも、帰り道で、『全然嫌いじゃないよ』などと伝えたというのであるから、 亡佑美は、本件事件当時、北本中学校で孤立していたとまではいえないものである。

 「以上のとおり、本件証拠上は、亡佑美が、同じクラスの女子生徒らから、悪口を言われ、はやし立てられ、からかわれ、無視され続けたなどといった事実を認めることはできない。
 そして、亡佑美は、中学1年生という多感な成長期にある女子であったこと、証拠及び弁論の全趣旨からうかがわれる同人の性格等に照らして性格が異なるなどの理由から同じクラスの44番らに苦手意識を持ったり、あるいは、同じクラスの女子生徒らの言動を他の生徒以上に深刻に受け止めたり、友人関係の持ち方などに思い悩むなどした可能性はあるかもしれないけれども、そのことを具体的に認定し得ない以上、そのような事実があることを前提として、亡佑美が自らの命を絶つに至った原因となったとまで認めることもできない。」


 (4)小学校でのいじめについて

 @「中井君」と呼ばれることについて

 「名字に『君』との敬称を付けたものであるから一般的にみて嫌忌される呼称とまではいえないし、本件交換日記の記載内容からして、亡佑美は本件交換日記に友人とのやり取りにまつわる感想や感情等を比較的率直かつ詳細につづっているとみられることに照らしても、このような呼称で呼ばれることが頻繁に行われ、それを亡佑美が極めて深刻に受け止めていたとまで認めることはできない。

 A「全部がきもい」と言われたことについて
 「4月16日に記載があるのみであって、どのような状況での発言かは明らかではなく一時的な友人関係の悪化の中で出た発言である可能性もあるし、上記の呼称と同様に、こうした発言が繰り返し行われ、それを亡佑美が極めて深刻に受け止めていたとまで認めることはできない。」
 「いずれにしてもこれらが小学校卒業後半年以上経過した平成17年10月の自殺の原因となったとは認め難いし、これらをもって平成17年10月の自殺の原因となる行為があったと推認することもできない。」

 B19番との関係について
 「亡佑美自身が、19番がちょっかいを出してくるのに対して亡佑美がキレてよくけんかになる(10月12日)とか、19番とは気が合わないから付き合いたくない(10月21日)などと記載しており、そうしたことからすれば、基本的に両者の立場は対等な友人関係であると認識していることがうかがわれるのであって、亡佑美らが当時小学6年生という多感な時期にある女子であったことも考慮しつつ、その記載を全体としてみると、元々は仲の良かった19番とけんかをすることも出てきた上、更に46番が絡むことによって、いよいよ19番との関係が不安定化することに戸惑い、今後、どのように付き合っていけばよいのか思い悩んでいたことはうかがわれるものの、それ以上に深刻な状況に置かれていたことは認められずまた、亡佑美が主観的に『いじめ』と捉えていたものの内容も判然としないから、平成17年10月の自殺につながるような事実があったと認めることはできない。」

 C交換日記を19番に読まれたことについて
 「亡佑美も記載しているとおり相応に不愉快な思いをしたとは認められる。しかし、19番が亡佑美に控訴人らの主張する『いじめ』を行い、本件交換日記を読むことによって、亡佑美がN教諭に「いじめ」の事実を訴え出ることを不可能にしたという事実を認めるに足りる的確な証拠はないし、本件交換日記が勝手に読まれるという問題自体も最終的には収束している。」
 「亡佑美が、時に19番の言動に不愉快な思いを抱き、時にその関係の持ち方について思い悩むことがあったとは認められるものの亡佑美が自殺の原因となるような行為を19番から受けていたと認めることは困難である。」

 DN教諭の対応について
 「亡佑美は、本件交換日記の最後に、N教諭に対し、悩んでいるときなどに良いアドバイスをしてもらい本当に助かったとして、言葉や文字では言い表せないくらい感謝している旨記載しており(その記載内容等から見て、単なる社交辞令とは解されない。)、北本中学校から学校の課題の一環としてN教諭に送った手紙の内容に照らしても、亡佑美は、N教諭の1年にわたる対応に、概ね満足していたものと推認される。」

 Eトイレに連れて行かれ、便器に顔を突っ込めと言われたことをN教諭に話したかについて
 「証人Nは、そのような事実はなかったと明確に否定しており、そのようなことがあれば、学年間で情報を共有し、校長にも報告しているはずである旨の証言もあながち不合理とはいえない。
 そして、A子の上記証言は、19番からの伝聞である上、被害者である亡佑美自身からその旨を聞いたこともないというのであり、当該行為があったとされる時期から3年以上経過しているから、19番から語られた内容をそのまま真実と認めてよいかについては慎重に検討せざるを得ない。
 19番がA子に告白をした経緯も唐突な感を否めず、また、A子の証言によれば、上記の出来事があったことは当時クラスに広まっていたというのに、本件アンケートや本件二者面談等の被控訴人北本市が行った調査においてはもちろん、控訴人らが行った聞き取り等においても、A子以外の友人又はその保護者等からその旨の情報提供はされていない。
 さらに、上記の本件交換日記の記載は、亡佑美が相当に安心している様子はみてとれるものの誰との間でどのような問題があったのかについて具体的に言及するものではなく、それを推知させるだけの手掛かりもない。
 以上によれば、亡佑美が、19番及び46番にトイレに連れて行かれ、便器に顔を突っ込め、あるいは、 トイレの水に顔をつけろと言われたとの事実の存否については、その存在をうかがわせる事情がないわけではないものの、これに反する事情等も考慮すれば、いまだそのような事実が存在したと断定するには躊躇せざるを得ない。」

 「仮に、控訴人節子の前記メモに記載されたような事実があったとしても、控訴人節子の供述によっても、その後、一応の解決をみたとされており、控訴人らから19番及び46番やその保護者らへの直接の抗議や、北本中学校に配慮を求めるような働き掛け等が行われるなどしたことは特に認められないこと、
 亡佑美は、上記のとおり、平成17年2月4日の本件交換日記に『解決できて本当によかった』などと記載しているほか、
 同年3月8日の本件交換日記にも19番との関係について『けっこうなんとかうまくいっています。』などと記載しており、
 亡佑美と19番との関係は、決して平たんとはいえないものの、深刻な事態に立ち至っているとまではうかがわれないこと、
 本件事件までは半年以上が経過しており、19番及び46番は、北本中学校では亡佑美とは別のクラスであったこと
 などからすればそれが亡佑美が自殺を決意するに至った事情であるとまで認めることはできない。」

 Fゴムを引っ張られて首を痛めたことについて
 「災害報告書 には、友達がゴムを触ったため、振り払おうと(亡佑美が)首を激しく振った際に首をひねって負傷したと記載されており、表現の仕方の違いにすぎないとみることもでき、相互に矛盾する記載であるとまではいえないし、亡佑美が19番に故意に首を負傷させられたというのに、控訴人らが19番やその保護者に対して何らかの対応を執った形跡がないのも不可解であること、証人A子も、自らが目撃したわけではなく、その旨のうわさがあった旨証言するにとどまること」と改める。

 G小学校における出来事が心理的苦痛として継続的に累積し、そこに北本中学校における出来事が加わったことによって、亡佑美の自殺につながったとみることについて
 「証拠上は困難であって、一つの仮説あるいは推測の域を出ないものといわざるを得ず、これを認めることはできない。」

 「西小学校及び北本中学校における前記認定の事実のうちの一部の出来事が、亡佑美に精神的な不快感を与えたことは否めないとしても本件証拠に基づき、客観的に見た場合に亡佑美が自殺を決意するに至った原因となるような『いじめ』が存在したと認めることは困難である。また、本件においては、客観的に見てこのような『いじめ』の存在が認められないことからすれば、西小学校や北本中学校の担当教諭らについて、亡佑美との関係においていじめ防止義務違反があったとみることもできない。


 (5)調査報告義務違反について

 「本件事件直後、被控訴人北本市において有していた客観的な資料としては、本件遺書及び塾勧誘の手紙のみであり、警察署からも、本件事件がいじめによるものと断定できる証拠資料がないことから、警察による捜査及び調査の対象とすることができない旨の見解が伝えられるなどしていたのであり、
 その一方で、同じ学校に通う生徒が自殺によって亡くなるという事態は他の生徒にとっても極めて衝撃的な出来事であり、生徒が激しく動揺していることは明らかであるから、
 そのような中で、被控訴人北本市の関係者があえて亡佑美の自殺の原因がいじめである可能性があると明示し、犯人捜しをしているかのような対応を執れば、北本中学校の生徒の心身に重大な悪影響を与える(最悪の場合には後追い自殺などの不測の事態も生じ得る。)と危倶して種々おもんばかろうとすることも、それ自体無理からぬことといえ、不合理であるとはいえない。」

 「被控訴人北本市においては、本件遺書の記載等に基づいて対象を狭めたりはせず、いじめがあったかなかったかも含めて、亡佑美の周りで事実として何があったのかについて、幅広く情報を得るという方針に沿って、本件アンケート、本件二者面談及び相談箱を関連付けて調査をすることとし、具体的には、本件アンケートへの回答を手掛かりとして本件二者面談を行い、その中で、最終的には本件事件に関することを必ず聞くこととして、 特に亡佑美が所属していたl年○組においては、説明を加えた上で、情報提供を求めたほか、それ以外にも、生徒らは、相談箱を利用していつでも自由に情報提供することができるようにされていたものである。」

 @学校、教委の隠ぺいについて
 「調査自体が亡佑美が自殺するという衝撃的な事件から聞がない時期に行われたものであることも考慮すれば、これをもって、被控訴人北本市が、あえて都合の悪いところを隠して虚偽の報告を行ったとまで認めることはできない。
 控訴人らは、被控訴人北本市が本件アンケート用紙の一部を処分したことを問題にするけれども、相当数の本件アンケート用紙が保存されていたことに照らしでも、被控訴人北本市が事実を隠蔽する目的で本件アンケート用紙を廃棄したとは認められない。」

 A結論
 「当裁判所は、亡佑美が自殺した原因が『いじめ』によるものであったかについて、控訴人らの主張に基づいて検討したが、外形的事実の一部が認められるところはありこれらのうちの一部の出来事が亡佑美に精神的な不快感を与えたことは否めないとしても、本件証拠に基づき、客観的に見た場合に、亡佑美が自殺を決意するに至った原因となるような『いじめ』があったと認めることは困難であると判断せざるを得ないものである。」

 「本件訴訟における一審以来の審理を通じても、証拠上、亡佑美が自ら死を選んだ理由は、結局、解明されなかったというほかない。
 また被控訴人北本市が行った調査及び報告の内容が、調査報告義務を果たしていないともいえないし被控訴人国に対する請求も、いずれも認め難いといわなければならない。

 もっとも、学校におけるいじめの防止を図り、いじめの早期発見及び早期解決を実現することが、我が国における喫緊の課題であることは、周知の事実であり、このこと自体については、被控訴人らにも異論がないものと思われる。
 当裁判所はこうした課題に的確に対処するため、被控訴人らを含む関係者が、より一層、真摯な取組を継続することを願うものである。」


武田私見

被害者側が立証することの難しさ

 民事裁判では、訴えた側(原告)が相手側(被告)の不法行為や過失を立証しなければならない。
 子どもが生きていてさえ、責任追及を恐れて事実をなかったことにしたい学校・教師・教育委員会の隠ぺいや妨害にあって、証拠も証言も得ることが難しい。亡くなっている場合は、さらに難しい。

 いくつかの情報を総合して、親はいじめが自殺の原因ではないかと思っても、多くは遺書さえ残していないし、遺書があっても具体的なことを書いていないことが多い。
 遺書を残していない理由としては、遺書を書けるほど冷静な精神状態ではなかった。自分がいなくなった後の世界に望むことがなかった。言ってもどうせ理解されないというあきらめ。書かなくてもみんな知っているはずだ、わかっているはずだという思い。自分が死ぬことで加害者らが後悔し、事実を告白してくれるだろうという期待。具体的なことを書いて、これ以上、親を悲しませたくない。うじうじ悩んでいた弱い自分、情けない自分を知られたくないというプライド。家族には自分のよい思い出だけを残したい。などがあるのだろうと想像する。同じような理由で、生前の日記やメールの送受信データも、本人が消去していたりする。
 「こんな自分なんていないほうがまし」。自尊感情をとことん傷つけられて、そう思い込まされた子どもは、わが子がなぜ死ななければならなかったのか、知ることができずに苦しむ親の気持ちまで想像することは難しいだろう。当事者でなければ、大人たちでさえそれを理解できないくらいなのだから。

 中井祐美さんの場合、「クラスの一部」に原因があると示唆する遺書が残されていた。そして、小学校時代の担任教師との交換日記。そこには、数々のいじめの事実と相談が書かれていた。
 佑美さんの自筆であり、しかも亡くなる半年以上前のもので、改ざんのしようもない証拠。
 今回、ご両親はマスメディアにこの日誌のコピーを公開した。それまでは、私のサイトに載せることさえ、そこに書かれている子どもたちへの影響を考えて、躊躇していた。しかし、子どもたちが成人していることや、北本市側が「いじめは小学校時代も中学校時代も一切なかった」と全面否定するなかで、「これを読めば誰でもいじめがあったとわかるはず」と、佑美さんの名誉のためにも、公開に踏み切った。

 この交換日記がもしなかったとしたら、元担任の「小学校時代にいじめはなかった」「相談もなかった」という話しだけがひとり歩きしただろう。
 小学校6年生の小学校児童指導要録に「やや友人関係が気になる」と書いたことについて、元担任は一審法廷(me110711参照)で、「佑美さんは、ものごとをストレートに言うので、友だちとトラブルにならなければいいと思った。友だちにきつい言葉で話すことがあった。」から、こう書いたと説明している。
 これは、他の証拠から見られる佑美さん像とは全く異なる。
 自分にいやなことをする友人と離れたいのに離れることができない、遊びたくないのに断ることができない、同級生にも敬語を使ってしまう、遺書にさえ自分を苦しめた人間の名前を書かない、交換日誌で肝心なことに返事さえ返さない担任にも最後には感謝の気持ちを表す、まじめで、思いやりがあって、強く自己主張できない佑美さん像とは全く異なる。

 日誌一つだけとっても、佑美さんにいじめがあったことや元担任教師の嘘は明らかであるのに、裁判所は全く違う判断を下した。
 一審では、「亡佑美が19番や46番から『いじめ』を受けていたと認識するような、相応の出来事があったことや、亡佑美が交友関係に思い悩み、気持ちが揺れ動いていたことをうかがうことはできる」とわずかながらに認定していたが、高裁ではそれさえ否定。
 19番との関係について、「基本的に両者の立場は対等な友人関係であると認識
していることがうかがわれる」として、佑美さんが交換日誌のなかで訴えてきたいじめさえ、否定している
 そして、佑美さんが悩んでいたことさえ、「同人の性格等に照らして」「苦手意識を持った」「同じクラスの女子生徒らの言動を他の生徒以上に深刻に受け止めたり、友人関係の持ち方などに思い悩むなどした可能性はあるかもしれない」などと、たとえいじめだと感じたとしても、それはそう受け取った佑美さん側の性格の問題であるかのように書いている。
 

事実認定のアンバランス

 一審、二審を通じて、裁判官は学校、教委、文科省の言い分にばかり耳を傾けてきた。証拠採用してきたと感じる。

 (1)遺書について
 遺書について、「クラスの一部」と明確に原因を書いているにも関わらず、それを否定。
 理由は、「勉強」や「テスト」と並列して書いていることと、「かも」という語尾。
 数々の証拠から、佑美さんは成績優秀で、勉強にも、テストの点にも、まったく問題がなかったことは明らかになっている。だとすると、なぜここに加えたのか。最後のメッセージにわざわざ嘘を書くはずがない。一方で、カモフラージュや無意識のメッセージはあると思う。
 「死んだのは、学校の美術部のみんなでも学校の先生でもありません」この文言も同じ。短い文面のなかで、わざわざ不必要な言葉を入れるはずがない。
 
 裁判所に提出した意見書にも書かせていただいたが、佑美さんはひとに気を遣う性格だった。
 最初に「クラス」と書いてわざわざ消して、「クラスの一部」と書き直した。本当は、クラスの一部だけでなく、それを見て見ぬふりをしたクラス全体が自分を追いつめたと知っていたことだろう。でも、すぐに相手の立場に立って考えてしまう。
やりたくてやったわけではない人もいる。もし、その人が自分が原因で死んだと言われたらどう思うだろう?傷つくのではないか?
 自分を追いつめた「クラスの一部」に対しても、できるだけ負担を感じさせないように、後ろにわざわざ「勉強」や「テスト」を付け足したのではないか。

 そして、小学校の担任のアドバイスが影響しているのではないか。友人関係に悩み、どうすればよいか回答を求める佑美さんに担任は、「友だち関係って本当に難しい問題です。中学校に行っても、こういう問題っておこると思います。だから、どうすればよいのかということですが・・・・・。先生なりに考えてみました。
まず、友だちはとっても大切ですが、友だちにふりまわされないことです。したがって目標は、勉強にすることです。勉強(学校)を中心に考え、いやなことはいやとはっきり意思表示することです。ここをがんばってやることを心がけましょう。」
とアドバイスしている。
 素直で、真面目な佑美さんは、その言葉を実践しようと、中学に入ってからも努力しただろう。
 佑美さんは親に一切言われることなく、勉強を頑張っていた。勉強のことだけ考えようとしていたのかもしれない。しかし、いじめが気になって、どれだけ努力しても勉強が手につかないと感じていたのかもしれない。

 「かも」と最後にいれたのは、もう何年も前に話題になった「とか」と同じ。はっきり自己主張すると友人関係でトラブルになりかねない。だから、否定されても大丈夫なように、「とか」をつけて意思表示をあいまいにする。
 「かも」がついているからといって、自分でもはっきりしないわけではない。断定されて傷つく相手の気持ちを考慮しただけだと思う。

 「クラスの一部」という遺書の言葉については、裁判所は事実認定していないにもかかわらず、原因から除外する根拠としてだけ使う。「学校の美術部のみんなでも学校の先生でもありません」の言葉も同じ。
 自殺そのものが、視野狭窄の状態の中で起きる。まして、中学1年生、12歳の佑美さんが、自分を死に追いつめたものの正体をはっきりと認識できていたかといえば、疑問だ。
 「美術部のみんな」と「学校の先生」をわざわざここに挙げたのは、心にひっかかりを感じていたからではないか。原告側が主張するように「直接的な原因は」という意味かもしれない。
 そして、美術部に関しては、亡くなる一週間前の佑美さんが泣きだしてしまったという「本音大会」が影響しているだろう。クラスでは、すでに一部の人たちによって、自分の居場所が奪われていた佑美さんにとって、信頼できる友だちと一緒に参加する美術部は大きな心の拠り所だっただろう。しかし、そこでもいじめの兆しが表れた。学校の先生は頼りにならないことは、小学校時代、中学校時代、すでに経験して思い知らされている。いじめが拡散し、エスカレートする将来への不安と希望のなさが、佑美さんを死に追いつめたのではないかと思う。

 佑美さんの遺書に一貫して流れている感情は、恨みつらみではなく、残された人たちに対する思いやり、気遣いだ。それを裁判所は逆手にとって、いじめには当たらないとする。


 (2)両親の証言と学校関係者の証言
 すでに述べたが、この裁判は、ほかの自殺事案に比べると様々な物的証拠や証言が残されていた。それは、学校や教育委員会が提供したものではなく、すべて両親が自力で探し当てたものだった。ひとり娘を失った悲しみのなかで、どれだけの思いが込められていることだろう。
 しかし、両親が必死でかき集めた数々の証拠より、証拠を残そうと思えば可能だったはずの学校関係者や教師の証拠のない、あいまいな言動ばかりが、裁判所によって事実として認定された。

 わずか半年前に卒業し、学級委員まで務めていた佑美さんのことも印象が薄く、いじめを訴えた学級日誌のことは「ほとんど覚えていない」と言っていた小学校6年生時の担任教師が、いじめの存在や相談されたことは、きっぱりと否定する。
 自分にとって都合の悪いことは、日誌に書いてあることも全く覚えていない。一方で、どこにも書いてはいないが、きちんと対応したことだけは覚えている。親からいじめの相談がなかったことも、はっきりと覚えている。
 担任の証言は自己弁護だけで、佑美さんへの愛情のかけらも感じられなかった。矛盾だらけだった。にもかかわらず、「明言している」「合理的」として全面的に証言を信じるという。
 一方で、母親の電話メモなどの現物や矛盾のない細かな状況説明(me111107)は、信用できないと言う。

 学校の調査についても書類ひとつない教師の口頭での説明や理由づけ(me110914)を全面的に証拠採用して、学校はちゃんとやっていたと認定している。
 証拠を残すことが難しい原告の証拠は採用せず、とくに自殺事案があったときなど教育委員会から逐一文書で報告を求められ、文書やメモ等の証拠を示すことが容易であるにもかかわらず、一切の証拠がない学校関係者の言い分のみ、事実認定している。


 (3)生徒の証言
 そして極め付けは、生徒の陳述書を含めた証言の扱い。
 勇気をもって法廷で証言した元同級生の証言は、「伝聞」で直接見ていない、時間が経過している、当時の学校資料に記述がない、他に同じような証拠がないとして、信憑性が薄いとする。
 伝聞は信用できないと裁判所は言うが、いじめの現場には、いじめの被害者と加害者しかいないことが多い。被害者が亡くなって、加害者が自白しなければ、加害者や被害者から聞いたという人間がいても、その証言は入れられないのだろうか?
 民事裁判より事実認定が厳格な刑事裁判でさえ、周囲の人間が加害者や被害者から聞いた話しが、具体的で、他の証拠と矛盾がなければ、採用されるのではないだろうか。

 さらに味方になってくれているA子さんがいたのだから、佑美さんは孤立していなかったとする。
 他のいじめ自殺した子どもの場合もそうだか、必ずしも、誰も友だちがいなかったわけではない。それでも、悪意にさらされ続けると、ひとは心を病んでしまう。
 そして、いじめは、いちばん親しくしている人間を、脅したりすかしたりして、いじめる側に引き込むことで、最大の効果を発揮する。関係の薄い人間にまで攻撃されたり、犯人のわからない嫌がらせをされると、だんだん疑心暗鬼になり、ひとを信じられなくなる。自分に対する自信をなくし、友だちも本当は自分といることは迷惑に感じているのではないかと思えてくる。実際には孤立していなくても、孤立感を感じることはある。
 佑美さんは、本音大会の際に、『A子ちゃんはもしかして私のこと嫌いなんじゃないか。』と尋ねている。

 また、加害者本人の言葉さえ信用できないと言う。
 自らに不利なことを話したり、謝罪した生徒の言葉でさえ、「責任転嫁の可能性」「唐突」として、いじめがあったという証言を証拠として採用することはできないと言う。
 いじめを一切認めようとしない、謝罪さえしない学校関係者の言葉は、「責任転嫁」も「隠ぺい」の疑いも排除して無条件に信用しているにもかかわらず、自分のやったことをいじめだと認め、反省し、謝罪した生徒の言葉は信用しない。明らかにおかしい。


いじめに対する裁判所の無理解

 裁判所は、いじめというものを理解していない。
 現在の文部科学省のいじめの定義は、「個々の行為が『いじめ』に当たるかどうかの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。『いじめ』とは、当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を加えられることにより、精神的な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。」
 現在のいじめは、殴ったり蹴ったり、金銭を強要したりというような表面的にもわかりやすいものよりむしろ、言葉や態度でのいじめが圧倒的に多い。 しかも、大人にばれにくいように、遊びやけんか、日常会話などに上手にカモフラージュされる。
 だからこそ、表面的・形式的には判断がつかない。児童生徒の気持ちを重視するしかない。
 たとえ裁判所が扱いうる「いじめ」が必ずしも文科省の定義には当てはまらないとしても、少なくとも学校関係者には、文科省が定めたいじめの定義にのっとって、いじめを認定し、防止する義務があるはずだ。
 
 「中井くん」と呼ばれることについて、佑美さんは嫌がっていた。それを「君」という敬称がついているので、いじめには当たらないという。女の子である佑美さんに対して、特に親しくもない生徒が、「くん」づけで呼ぶのは、他の女子生徒には「さん」づけで、佑美さんに対してだけ「くん」づけするのは不自然だ。
 敬称が付けばいじめにならないのであれば、「さん」や「さま」が付けば、どんな呼称もいじめには当たらなくなる。

 「全部がきもい」と言われたことについては、回数がわからない、状況がわからない、佑美さんがどう思っていたかわからないと言う。しかし、「全部がきもい」と言われて、それが1回だったとしても、冗談まじりに言われたとしても、傷つかないひとがいるだろうか?その言葉に悪意を感じないひとがいるだろうか?佑美さんは心傷つき、いじめだと感じたから、教師との交換日記に書いたはずだ。そういうことを吸い上げて、早めに対処することが生徒と教師との交換日記の目的だったはずだ。

 他の悪口についても、本人が知っていたかどうかわからない、どう思っていたかもわからないと言う。しかし、わざと聞こえるように言う、あるいは、誰のことかは具体的には言わないが、本人には自分のことだとわかるように言うのが、単なる陰口と、いじめとの違いだ。本人が反応すれば、あなたのことではないと言ってみたり、軽く謝ってまた繰り返す。

 くつ隠しも、いじめの中でかなり頻繁に行われる。犯人がわかりにくいうえ、見つかったとしてもわざとではないとごまかしやすい。そして、他にも被害者がいたら、いじめにはならないというのだろうか?大勢をターゲットに嫌がらせをする場合は、学校に防止義務は発生しないのだろうか。犯人がわかりにくいということで、頻発しても学校が放置したからこそ、個人をターゲットにしたいじめにも利用しやすかったと考えるべきだろう。

 19番との関係について、裁判所は「対等な友だち関係」と言う。1986年の鹿川裕史くんいじめ自殺(860201)の多くの批判を浴びた東京地裁判決と同じだ。
 鹿川裁判の一審ではいじめグループを「気の合った仲間」と評価し、いじめを否定した。二審の高裁で、いじめと自殺との事実的因果関係を肯定し、被害生徒の心身に大きな悪影響が生ずる恐れのある悪質ないじめに対し適切な対処を怠り、さらには、いじめに加担したに等しい「葬式ごっこ」などに、教師側の過失を認めた。

 自分を仲間と一緒にトイレに連れ込んで、便器に顔を突っ込めと言った相手と、友だちでいたいと思うはずがない。実際に、佑美さんは何度も交換日記で、19番と離れたいのに、離れられないと担任に訴えている。
 たとえ嫌々遊んだとしても、その時に相手の嫌がらせがなければほっとして、心配が大きいだけに、うれしい報告となるだろう。
「気持ちが揺れ動いた」とあるが、一度も佑美さん自らが19番と友だちでいたいと願って悩んでいたという表現はない。上手に付き合いたくて悩んでいたのではなく、離れたいが、波風を立てるのは報復が恐ろしいから、穏便に離れることを切に望んで、その方法がわからずに悩んでいた。

 その19番からの塾勧誘の手紙。佑美さんが断っているにも関わらず、2通目を出し、「ヤバイ系」「絶交」「ウワサばらまいてやる」の言葉。塾の経営者からも佑美さんが塾に入りたがっていると聞いたとして、自宅に電話までかかってきていた。これはどう考えても脅迫にあたる。
 にもかかわらず、二審では、一審の「多少強引な表現が見られるとしても、」を「その字面のみをみれば、不穏当といわざるを得ない表現も一部にはみられるものの」と改め、中学1年生の19番が、自ら通う学習塾に小学校以来の関係がある亡佑美を誘う方法として、『強要した』と評価することは躊躇せざるを得ないし、このことをもって」この後に二審では「亡佑美が自殺を決意しなければならないほどに精神的に追い込まれたことや」を追加、「亡佑美が自死をも決意しなければならないほどの行為を受けていたことを推認させる事情とも認め難い」という。
 小学校での日誌から見ても、佑美さんが19番と離れたがっていたことは明らかだ。しかし、中学校になってクラスが違っても、19番は佑美さんに執着している。それは、佑美さんといると自分のストレスを発散できて、都合がよいからではないだろうか。だからこそ、脅迫してまで佑美さんを自分の身近に、支配下に置きたかったのではないか。
 自殺に直接結びついたかどうかは別にしても、佑美さんが19番から受けたさまざまな行為は、客観的に見ても「いじめ」に当たる。それは親しい間がらであっても、許される範囲を超えている。

 裁判所は、19番の行為をいじめではないと否定する根拠のひとつに、「一応の解決をみたとされており、控訴人らから19番及び46番やその保護者らへの直接の抗議や、北本中学校に配慮を求めるような働き掛け等が行われるなどしたことは特に認められないこと」をあげている。
 一応の解決をみたというが、担任がきちんと指導したと言えば、学校の外にいる保護者としては、相手からの謝罪がなくとも、その言葉を信じて、解決したと割り切るしかない。
 そして、小学校の生徒のほとんどが同じ中学校に行くなかで、事を荒立てれば、その報復は佑美さんに返ってくるであろうことは容易に想像がつく。親の先走った行動はむしろ子どもを追いつめる。
 中学校に直接働きかけなかったのも、あれだけ担任に配慮を求めていたのだから、当然、申し送りがされているだろうと信じていたことだろう。モンスターペアレントという言葉が独り歩きしている状況下、まだ中学では起きていない問題で、親が乗り込むことはリスクのほうが大きい。
 仮に、佑美さんの両親が、上記のような行動を起こしていたら、それこそ、親の過干渉が原因で佑美さんは自殺したと結論づけられていたことだろう。

 そして、判決文に何度も繰り返される「自殺につながるような事実があったと認めることはできない」という言葉
 佑美さんのお父さんは一審の記者会見でも述べていた。「いじめの心の傷は、一滴一滴コップに溜まって、最後の一滴で溢れ出す」と。ラクダが背負う藁(わら)にたとえるひともいる。一本の藁はけっして重くはない。しかしそれが積み上がったとき、最後のたった一本の藁がラクダの背骨を折るという。

 これだけたくさんの佑美さんに対するいじめ。どんなに理由をつけようと、佑美さんの思い過ごしでもなければ、偶然の重なりともいえない。小学校がいじめを放置した結果、中学校でいじめが蔓延し、中学校の無策によって、佑美さんは自死に追いつめられたと考える。小学校時代のいじめがきちんと対応されて解決されていれば、佑美さんは中学校でもいじめられた可能性は低いと思うし、中学校で全校あげてのいじめ対策ができていたら、佑美さんは死ななかっただろう。


 祐美さんは、遺書に「生きるのにつかれました」と書いている。他にも似たような表現をしている子どもの遺書はいくつもある。「頑張ったけれど、もう耐えられない」「疲れたの」と。
 小学校から始まったいじめ。教師に訴えても、訴えても、解決しなかった。卒業と同時に、いじめとも無縁でいられるかもしれない。淡い期待は中学校に入学してすぐに裏切られた。中学校でも蔓延するいじめ。
 「女子生徒が性格の強い者らから成るグループと、亡佑美らのグループとに分かれており、前者のグループに属するとされる者が佑美らとあえて話をしなかったというもので、これをもって『無視』とまで評価すべきかについては疑問」とある。
 いわゆるスクールカーストがクラスに存在し、クラスを仕切ってたのがギャルグループで、その中に、小学校時代に佑美さんをいじめていた44番がいた。佑美さんは階層が低い地味グループ。小学校時代にいじめで、自尊感情を深く傷つけられ、自信をなくした佑美さんは、とても怖い思いをしていただろう。
 中学校時代、具体的に何があったのか、学校が調査しなかったためにわからない。しかし、何もなければ、同級生が亡くなったあとに、「The End」「See you」と書いたり、「せいせいした。よかった」と言う生徒がいるはずがない。

 いじめは小さな攻撃を複数回受けることで、自己否定に結びつきやすい。それは最終的に、自分を生きていてはいけない存在、迷惑な存在とまで思い込ませる。はっきり外からでもわかるいじめより、言葉や態度でのいじめは周囲の理解も得られにくく、自分に問題があると思い込みやすい。それは本人が性格的にそう思い込んだというよりむしろ、いじめ加害者によってそう思わされる。そして、いじめに正面から向き合いたくない大人たちによっても、被害者側に問題があると思い込まされる。
 裁判所も例外ではなかった。友だち関係に悩んでいたとしたら、それは佑美さんの性格の問題であるかのように書いている。


学校・教委の調査義務違反について

 裁判所は学校や教育委員会の調査に問題はなかったという。
 「被控訴人北本市において有していた客観的な資料としては、本件遺書及び塾勧誘の手紙のみ」というが、それだけ重要な手がかりがあれば十分だろう。
 かつ、亡くなったあとの生徒の反応、A子さんは法廷で、佑美さんに対するいじめがあったと担任教師にはっきり伝えたという。しかし、一審判決で、いじめがなかったとされたことに驚き、法廷で、自分の訴え方がたりなかったのではないかと、涙を流した。

 学校がきちんと調査しないことや調査内容を開示しない言い訳に使うのが、生徒の動揺や生徒との信頼関係。
 しかし、本当に守っているのは自分たちの立場だけだ。いじめをして相手を苦しめてしまったかもしれない、死に追いつめてしまったかもしれないと悩む生徒の気持ちを考えない。いじめを知っていたのに何もできなかったと苦しむ生徒を放置する。
 本当に生徒のことを考えているなら、起きてしまったことの背景を調査し、いじめをしていた生徒には反省を促して生きなおすチャンスを与え、いじめを見逃した原因、死にまで追いつめてしまった原因を教師、生徒、家庭、制度のなかに探し、二度と同じ悲劇を繰り返さない最大限の努力をするだろう。
 しかし、いじめをなかったことにしてしまった結果、裁判中にも同中で再び自殺が起きている。

 裁判所は、「かかる調査報告は、当該生徒のみならず、他の生徒らに対する関係でも、全人格的な教育を全うし、その健全な成長を図り、教師らと生徒らの間の相互信頼関係を維持育成することが要請され、他の生徒らのプライバシー等も尊重し、規律ある学校運営を維持する必要がある教育機関が、専門技術的な知見を駆使して、調査報告と上記教育に関する要請とを調整しながら行うことが要請されるものであるという事柄の性質上、公立中学校の設置者である地方公共団体の合理的裁量に委ねられる」という。

 しかし、佑美さんの自殺後に学校、教委が行った調査は、専門技術的な知見を駆使したものではなく、素人目にも「これで佑美さんのいじめに関する事実が出てくるはずかない」「佑美さんの自殺に関する事実調査とは言えない」と思えるおざなりな内容だった。
 証拠も示さず、適切にやったというが、両親が当時知っていたことや、その後集めた情報以上のことは何も出てこなかった。
 内容が具体的ではないとして、裁判所はいじめの事実を認めなかったが、いじめの存在をうかがわせるような手がかりを元にきちんと調査することができたのは、当時、学校だけだった。断片的な情報がありながら、それを実証することができなかったのは、学校や教委の怠慢だ。
 そして、学校、教委の調査がおざなりであればあるほど、自分たちの責任は追及されないという矛盾がある。
 調査能力のなさ、究明の力のなさは裁判所も同じか、あるいは最初から結論ありきであったと考えざるを得ない。

 佑美さんと家族に起きたことは、他の人たちにも起きている。
 「いじめは被害者が言いたがらないから解決できない」「いじめの発見に力を注ごう」と、いじめ自殺が大きく報道されるたびに文科省は通知を出す。しかし実際には、学校教師に、児童生徒や保護者がいじめを訴えても、何もしてくれないという声が日本全国であふれかえっている。
 学校や教委の対応は、北本市や裁判所と同じだ。本人がどれだけ訴えても、いじめだとは認めようとしない。子ども同士よくあること。本人の気のせい。あなただけをターゲットにしたわけではないからいじめとは言えない。被害妄想。いじめられた側に問題があった。いじめではなく、いじり、トラブル、ふざけ、けんか、という。
 子どもを守るためには、学校が対応してくれることや、学校に行くこと自体をあきらめるしかない。教育委員会や警察、人権擁護委員会に言っても同じ。どこにも救済の道はない。そして、裁判所にも。

 いじめ加害者を厳罰に処すようにと、自民党は言う。しかし現状、学校や教育委員会に調査能力はない。被害を訴えられても、いじめの加害者を特定できなかったり、いじめを立証することができない。
 これで、厳罰化と言っても、調査できなかったり、加害者側から反論されることを恐れて、いじめをなかったことにしてしまうのがオチだ。あるいは、対応が困難な大勢のいじめ加害者を避けて、孤立している生徒、大人しい生徒を加害者扱いして、冤罪を生む。指導死がますます増えるだろう。


司法が果たす役割

 高裁判決は、「学校におけるいじめの防止を図り、いじめの早期発見及び早期解決を実現することが、我が国における喫緊の課題であることは、周知の事実であり、このこと自体については、被控訴人らにも異論がないものと思われる。
 当裁判所はこうした課題に的確に対処するため、被控訴人らを含む関係者が、より一層、真摯な取組を継続することを願うものである。」と結んでいる。
 しかし単なる言い訳にしか聞こえない。実際には、この判決は学校関係者が真摯にいじめ問題に対応することをむしろ阻害するだろう。自殺者が出ても自分たちの責任が問われないということは、何も怖くない。忙しいなかで、いじめ防止に努力する日々続けるより、いざという時に専門家の手を借りて、いじめをなかったことにするほうが簡単だ。
 
 これだけ証拠があっても勝てない裁判なら、費用と多大な労力をかけてまで、裁判を起こす遺族やいじめ被害者も減るだろう。
 子どもたちもまた、いじめをしても見逃してもらえることでますますエスカレートさせるだろう。
 いじめ被害者は救いがないことに絶望し、自殺するか、相手を殺すか、社会に復讐を企てるだろう。

 そして、文科省の責任。1980年代から延々と続いてきたいじめ問題。解決できない最大の原因は、文科省自体がいじめの現実に向き合おうとしていないことだと思う。いじめをなかったことにしたいのは、学校、教委だけではない。文科省も同じ。自分たちのやっていることにケチをつけられたくない。だから、この問題を簡単に把握できるはずの文科省は、報道が騒ぐときだけは重い腰をあげるが、そうでなければ自ら動こうとはしない。そして、早い収束ばかりを目指し、制度の問題をはじめ、教育が生み出している根本原因に手を付けようとはしない。(PDF 参照)

 原発事故と同じで、すでに起きてしまったことの原因や問題点を洗い出すこともできないのに、再発防止策を講じることができるはずがない。

 いじめに関する法律をつくるなら、現実に今、苦しんでいるいじめ被害者や遺族が、この法律があったら自分たちも救われたはずと思えるような実効性のあるものを作ってほしい。


 中井さんは、当初から最高裁まで行く覚悟を決めている。最高裁で取り上げられることは、ラクダが針の穴を通るのと同じくらい難しいと言われる。
 しかし、これ以上、いじめに苦しむ子どもと親を放置しないでほしい。子どもたちに、「見て見ぬふりをするのはいじめの加害者と同じだ」と言っているのは、大人たちだ。



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