わたしの雑記帳

2013/3/1 体育会系運動部での暴力について考える

2012年12月23日、大阪府大阪市の市立桜宮高校の男子生徒(高2)が自殺。
男子生徒はバスケットボール部のキャプテンを務めていたが、顧問の体育教師(47)にあてて「顧問の教師から顔を叩かれたなどの体罰を受けてつらい」などと書いた手紙と遺書が残されていた。
男子生徒は自殺する前日にも顧問教師から体罰を受けていた。
この教師については以前にも、市教育委員会に、体罰をしているのではないかという情報が寄せられたが、学校からは「体罰はなかった」との報告があったという。

この事件をきっかけに各地で、体罰問題が噴出した。
いじめ問題と同じで、一つの問題がセンセーショナルに取り上げられると、今まで隠されてきた、あるいは注目されてこなかった問題が一気に浮上する。それは大抵、数か月もすれば沈静化し、また元のように何もなかったかのように事件はニュースから姿を消す。せめて、大騒ぎした分だけ、一つでも、二つでも教訓に残ればよいと思うが、数年後には全くその教訓が生かされていなかったことを思い知らされる。

いじめ問題が起きると、政治家や教育関係者からは、「今は体罰ができないので、生徒指導ができない」「ちょっと小突いただけで体罰だと言われて、処分されてしまう」などと言われてきた。しかし、現実には体罰はなくなっていなかったし、特に部活動においては公然と行われてきた。そして、被害者が声をあげにくいという点や学校や教育委員会が必死に隠そうとする点は、いじめ以上ではないかと思う。

過去に体罰問題が大きく取り上げられたのは、水戸五中事件(760512)、岐陽高校事件(850509)、高塚高校校門圧死事件(900706)、近畿大付属女子高校事件(950717)など、生徒指導中の体罰によって、生徒が死亡した事件だった。
子どもが教育の名のもとに教師に殺されるというこれらの事件でさえ、遺族や亡くなった生徒へのバッシングが集中した。

今回、予想以上に、政治家や教育者、スポーツの指導者、一般の大人たち、そして暴力を受けてきた当事者や生徒からさえ、スポーツにおける暴力を肯定、あるいは容認する発言が多く飛び出した。
いかに、スポーツにおいて暴力が根強くはびこっているかがわかる。

改めて、体育会系部活動等における事件を手持ちの資料から拾い出してみた。(子どもに関する事件・事故 4)
(広いはじめたらあまりに多く、とりあえず2000年以降のものを簡単に拾ってみた)
もちろん、これらは日々報道されるものの一部でしかないが、いくつか見えてきたものがある。


1.全国大会で優勝するような部活動で、非常に暴力事件が多いということ。
大きな大会で優勝したり、大会出場常連校になると、注目度が上がる。そのために、報道されやすいということもあるかもしれない。
そして、部活の目覚ましい活躍は、この少子化で生徒数が減少し、経営難に陥る学校がたくさんあるなかで、学生・生徒獲得に大いに貢献しているということがうかがえる。大会常勝校では部員が100人を超えることもある。
それ以外にも、スポーツで名前が挙がったことで、「有名」な学校だから選んだという生徒も多いのではないかと思う。
スポーツの活躍と経営(利益)とが、密接に結びついている。
そのことに味を占めた学校経営者は、暴力的指導に目をつむっても、あるいは事件が起きてさえ、なんとかもみ消して、部活を引っ張ってくれる顧問を優遇するのだろう。
これはおそらく、公立学校でも同じで、学校評価制度が進む中、スポーツ常勝校はランクの高い学校として、予算も多くつくし、管理職のその後の出世にも結び付くのだろう。自分たちに利益をもたらすものを優遇している。
経営者のこのような考え方は、常勝チームの顧問や部員に、何をしても許されるという間違った万能感を身につけてしまうのではないだろうか。

2.同じ学校で、同じ部活で、同じ顧問や監督が、問題行動を繰り返している。
これも学校管理職が、暴力行為に目をつむることとも関係していると思われる。
部員にけがをさせるような暴力を振るっても、顧問らの処分は軽い。口頭注意やわずかな減給や短期の活動停止。
それも、外部に漏れてはじめて、処分を決定する。学校自ら積極的に、生徒や保護者からの声を吸い上げ、暴力を生まない環境整備に努めているとは、到底思えない。
実力さえあれば、何をしても許されるなかで、暴力を振るう顧問らには、当然、反省は生まれない。
いじめ問題でも、被害者が言うことを聞くようになると、金を巻き上げたり、性的虐待に走ることが多い。問題が発覚しても放置されるとエスカレートする。顧問も、絶対的立場を利用して、部活動にかこつけた暴力行為やわいせつ行為が多い。

3.暴力は連鎖する。
顧問が起こした事件だけでなく、部員が起こした事件を見ると、非常に共通点がある。
部のきまりに従わなかったから、態度が気に食わなかったから、頑張りが足りなかったからと、激しい暴力をふるう。下級生のときには自分もがまんしたのだからと、上級生になったとき、同じことをする。
先輩には逆らえないという地位を利用して、飲酒を強要したり、金銭を脅し取ったりする。

4.ストレスの発散
事件が起きると、あの先生はほぼ360日、家庭や私生活を犠牲にしてまで部活動に尽くしてくれているのだから、と擁護論が出る。
勝つために、顧問は休日をなげうって部活動の指導に当たり、そんななかで、部員もまた、部活動を休んだり、他の楽しみを行うことが許されない。異常なほどの部活漬け。部活動を休んで遊びに行った、部活動の合間に仲間と釣りに行ったり、トランプをすることさえ、制裁の理由になる。
顧問のあるいは部員のストレス発散として、飲酒、喫煙、わいせつ行為、窃盗、暴力などが行われる。


まだまだ十分に分析したわけではないが、これらの連鎖を断ち切るためには、
1.学校経営者、管理職が、勝敗至上主義を捨てる。
学校経営者、管理職の考え方は、学校全体に影響しやすい。何を教育の目的にするのかが、問われていると思う。

2.部活動に科学の目を。
日本のスポーツ界はまだまだ根性主義で、非科学的である。
しかし、科学的にわかっていることはたくさんある。練習のやりすぎが、効率をあげないだけでなく、成長盛りの肉体をむしばみ、選手生命さえ断ってしまう。指導者にはもっと、経験則でばかり教えるのではなく、指導者としての勉強をしてほしい。専門性を身につけてほしい。

3.指導者にあった待遇を。
部活動の指導者が他にいないことを理由に、無理を強いられている。本来、教師の役割ではないことを安いお金で無理強いされている。無理強いしているのだから、多少のことは目をつぶるという取り引き的なことはいい加減やめるべきだろう。部活動と教師の仕事は分けたほうがよいのではないかと思う。それは教師の過労死や本来負わなくて済んだはずの部活事故の責任を負わせないことにもつながる。
そして指導者には、活動に見合った対価や待遇を与える。部活指導だけで生計が立てられるなら、スポーツを愛し、生徒をも愛してくれる優秀な指導者はもっといくらでもいるだろう。貸し借りをなしにする代わりに、不祥事にも目をつむらない。
教育にお金をかけない、人材育成に労力とお金をかけないで、結果だけ得ようというのは虫が良すぎると思う。

4.教育の一環としての部活動を。
学校で行う以上、プロのスポーツとは違い、教育面を忘れてはいけないと思う。
一部の優秀な選手のためだけの部活動、他の部員は犠牲になるような部活動であってはいけないと思う。そして当然、人権尊重の姿勢は貫かれるべきだ。道徳教科書ではなく、子どもたちは現実の大人たちの子どもたちへの接し方から、多くを学び取っている。

5.暴力根絶の決意を。
大人に、暴力容認論がはびこっている間は、子どもの暴力だけをなくそうと思っても無理だろう。大人が暴力を容認すれば、子どもも暴力を悪いことだと思わない。
いじめ問題で、私たちは子どもたちに、「学校の外で起きたら犯罪になることは、学校の中でも犯罪」と話し、「理由があれば、暴力を振るってもよいのか?」と問いかける。
子どもへの厳罰化やゼロトレランス(許容ゼロ)を言う前に、大人の暴力にこそ、ゼロトレランスの考え方が必要ではないかと思う。とくに、政治家やスポーツ指導者から、その考えを改めてほしい。

6.事件事故が起きたときの情報収集と分析、改善策までのPDCAサイクルの確立。
今回、桜宮高校の事件が起きるまで何十年もの間、政府は体罰問題に関心を持ってこなかった。事故報告書の一元管理や分析、そこから得られた教訓を現場にフィードバックするということを怠ってきた。
過去にも体罰問題があり、多くの子どもの命を奪ってきたにも関わらず、根拠もなく、今は体罰はほとんどの学校で行われていない、大した問題ではないかのような扱いをしてきた。
これは現状把握のいい加減さがもたらした結果だと思う。
学校事故について、スポーツ振興センターの保険から給付金が支払われれば、文句は出ないだろうと放置し続けてきたことの結果だと思う。スポーツ振興センターへの報告書は、学校が一方的に自分たちの都合の悪いことを隠したうえで簡単な報告書をあげればすむ。保険金の給付には速やかさも必要であるから、調査に時間がかかることは本気で事故防止を考えるなら、別組織が必要かもしれない。

※PDCAサイクルとは、Plan(計画)、 Do(実行)、 Check(評価)、 Act(改善) を繰り返すこと。



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