子どもたちは二度殺される【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
900706 学校災害 2000.11.30.  2001.2.17 2002.1.13更新
1990/7/6 神戸市西区の兵庫県立神戸高塚高校で、登校の門限時間がきたため、担当のA教師(39)が、内側から引き戸式の校門の鉄製門扉を手で押して閉めたところ、登校中の石田僚子さん(高1・15)が、門扉(230キロ)と門柱の間に頭を挟まれ、頭蓋骨骨折で死亡した。
門 扉 同校の校門は高さ1.5メートル、長さ約6メートル、重さ230キロの引き戸式鉄製門扉で、警察・裁判所・防衛庁等の建築物用に設計された。60年安保の時、保安関係機関がその管理下の建物を暴力デモの侵入から守るために設計されたものだった。

兵庫県捜査一課と科学捜査研究所が扉の衝突実験をした結果、重さ230キロの門扉は、押し始めは動きにくいが、長さ約6メートルのレールを走る間に加速がつき、閉まる寸前には時速5キロ、軽自動車が発進した時と同じ程度の衝撃を頭に受けた状態だったことが判明。
教師の力を弱く見積もっても、秒速2.6メートルの速さで、コンクリート壁に頭がぶつかったときの瞬間的に加わる力は、最大3.5トン。時速50キロのスピードで飛んでいって、コンクリートの壁にぶちあたるという状態の衝撃だったことがわかった。
経 緯 同校では業務として、校長や教頭を除く教諭63人が3人1組になり1日交代で、事故のあった校門で遅刻指導していた。遅刻するとグランド2周の罰が科せられ、2度以上遅刻すると保護者の呼び出しがある。

この日は特に期末試験の初日とあって、10数人の生徒が殺到。事故当時、ほかにも校門の外に6人の生徒がいた。

石田さんはこれまで一度も遅刻したことがなく、この日もいつも通りの時間に家を出たが、なぜか電車に乗り遅れてしまったらしい。(ルポライター・日垣隆氏の検証によれば、この日、神戸市営地下鉄は、西神中央駅に定刻より90秒遅れてプラットホームに入ってきた。90秒という時間は同地下鉄にとって定時運行の範囲内だったため、乗客へのお詫びの放送はなかった)

この日、校門前で待ち構えていて、遅刻者を絞め出そうと強く決意していたA教師は、「いつもより流れが遅い」と感じていたが、これまでの経験から、「期末テストの初日なのに、たるんでいる」と解釈して、「早くしろ!」と生徒に怒鳴った。

事件の前日、教師は時計を学校のチャイムに秒単位で時刻を合わせていた。時計を見ながら「5、4、3、2」とカウントダウンをはじめ、チャイムの鳴り出す瞬間に、門扉を閉めた。
学校・ほかの対応 7/6 僚子さんが病院に運ばれてすぐ、玉津署員到着前に、校長(59)立ち会いのもと、通用門の大量の血を教職員がきれいに洗い流してしまっていた。期末試験は平常通り実施。
学校側は遺族に、死に至る事実を詳しく伝えていない。

同日、校長は、「生徒の生活の乱れを防ぐには遅刻が肝心と思い、指導してきた。指導は続けるが、扉を閉めるなどの方法については再考せざるを得ないだろう。生徒に命を大事にするように教育してきた。大変申し訳ない」と所信表明。

7/7 校長は体育館に全校生徒を集めて、「あと10分早く来れば(事故はおきなかったの意)……諸君の生活を見直してほしい」と生徒指導。後には、「結果として、このような事故を起こしてしまい」と、指導方法には誤りがなかったことを発言。

7/20 終業式後に全体保護者会を開催。学校側は質問者に対し、子どもの学年、クラス、名前を明らかにすることを求めた。(録音防止のためか?)集会のさなかに音楽が流されていた。校長は「二度といたしません」「善処します」などとあいまいな受け答えに終始した結果、学校の説明不足に保護者の間から怒号も飛び交った。
作 文 学校側は6人の目撃した生徒たちに、2回の作文提出を求めた。
1回目は7月6日、「事故の状況(目撃したこと)」という内容で、全員が提出。
2回目は期末試験が終わった11日以降、「事故について、警察で何を尋ねられ、どう答えたか」の問答を再現するように、担任を通じて指示。生徒は、「警察に聴かれたことまで報告する気はない」と全員が拒否。
加害者 兵庫県警捜査一課と玉津署の調べに対してA教師は、「門扉が重たく、力を入れようと下を向いて押していたので、前は見ていなかった」「扉の鉄枠が死角になった」「石田さんが事故にあった瞬間は見ていない」「人がぶつかった衝撃は感じなかった」と説明。「登校する生徒の安全を十分に確認せず、門扉を閉めた」と過失を認める供述をした。

1990/8/3 県警はA教師を業務上過失致死で書類送検。
顛末書 1990/7/10付けで、A教師は兵庫県教委に顛末書を提出。県教委は内部資料として、同県議会文教委員会に報告せず。マスコミ報道で明らかになり、7/18、コピーを公表。
内容は、「事故のあらまし」と、「現在の心境について」、「『体で覚えさせる』指導に徹してきた」「一生懸命やれば報われるんだ、ということを体感させようと、他学年より厳しい指導をし、それが三年になった今花開こうとしている時に、このようなことになり、謝っても謝りきれないと思います」などと書いていた。
調査
(検証と証言)
警察の調査で、遅刻をチェックする教師が門扉を閉じる際、1、2ヶ月に1回くらいの割合で生徒の体、衣服、カバンを挟むなどしていたことが判明。A教師も今年になってから2回、生徒の体やスカートを挟んだことがあったが、生徒にケガはなかった。

スライド式鉄製門扉と戸隠し壁との間に約20センチの隙間があり、前方さえ見ていれば、駆け込んで来る生徒の動向を確認できることが判明。

また、顛末書には、門扉を閉めている時に男子生徒がカバンか足が挟まれたが無理やり引き抜いて門に入った」と書いていたが、後に、この生徒は、事故に気付いて門扉を押し戻し、石田さんを助けようとしており、カバンや足は挟まれていなかったことが判明。この男子生徒(高3・18)は、「石田さんが挟まれたが、先生はさらに門扉を押し切ろうとしていた。ぼくが門扉を押し返し、振り返ると石田さんがしゃがみ込むように倒れていた」と証言。また、A教師が門扉を押すスピードが普段よりかなり速かったという証言があった。
処 分 1990/7/26の臨時委員会で兵庫県教育委員会は、門扉を閉めた教師を「安全を怠り、教育者としての配慮を著しく欠いた」として、懲戒免職処分。
警察の捜査結果を待たずに処分に臨んだのは異例。また、生徒指導をめぐる事故死(体罰で死亡させたケースを除く)で免職になったのは初めて。

校長に関しては、「校門指導中の教諭の安全確認を怠ったてめに発生したもので、生徒、保護者に大きな動揺を与え、学校教育に対する信頼を著しく失わせたとして、戒告、辞表受理。教頭を同理由で訓告。教育長を「県立学校を管理・指導する立場にあった」として訓告、2人の教育次長についても同理由で厳重注意。
学校・ほかの対応 兵庫県教委高校教育課長は事件について、「過失があったか不可抗力だったかは現段階では警察にお任せして待つしかない」と発言。また、兵庫県教委が神戸地区の県立高校の生徒指導責任者を集めて開いた生徒指導協議会で、県教育委高校教育課の生徒指導係長が、「神戸高塚高校の事故は、一県の一高校の一教師による一生徒の事故」と発言。

批判の声に後に、「一生懸命やっている先生方が、今回の事故で生徒指導に対する意欲をそがれることがないように話した。悪意はなかった」と釈明。
その後 遺族に慰謝料が支払われた。後任の校長は、「遅刻指導で扉を閉じたり、生徒にペナルティーを科したりしない」と改善を約束。

1991年の追悼集会に遺影は飾られなかった。改修工事のためにトタン板で囲われた現場の校門前には市民が次々と焼香に訪れた。また、右翼の街宣車が押し掛け、騒然とした雰囲気になった。

重いレール式の校門は取り壊されて、観音開き式の材質の軽い門扉に交換された。
裁 判 僚子さんの両親が、「A教諭は駆け込んでくる生徒のだれかが門扉に挟まれてけがをする危険を認識しながら、それでも構わないという意識で扉を閉めたと思われる」と「傷害致死」として、厳罰を求めて提訴

弁護側は、「閉門時に“閉めるぞ”と叫んだ」「一緒に指導していた他の2人の先生が生徒を制止すると思った」と過失責任を否定。また、校長は重さ約230キロの鉄製門扉を閉める指導について、「それほど危険とは思わなかった」と証言。危険性を十分認識していなかったことを認めた。
証 言 1991/9/17 第10回公判で、当時3年生だった男子生徒(91/4卒業)が、1989年、A教諭が日本史の授業時間中、「今日はふだん以上に遅刻者が多かった。遅刻をする生徒は服装が乱れ髪を染めるなど問題が多い。遅刻者がいなかったらこの高校は良くなる」「遅刻者はライフルで撃ち殺してやりたい」などと発言していたことを証言。
また、事件当日、「A教諭は門扉の端に立ち、『1分前』と大声を出し、直後から何秒かごとにカウント、予鈴が鳴り始めると同時に門扉を押し始めた。当時、生徒約10人が門を通過していたにもかかわらず、力いっぱい門扉を閉めようとしていた」と証言した。
判 決 1993/2/10 神戸地裁は、元教諭に対して、「禁固1年、執行猶予3年」の判決。
「学校として生徒の登校の安全に配慮が足りなかった」としたが、校門指導をはじめとする「管理教育」に触れず、教諭個人の過失責任を厳しく指弾した。
参考資料 1991/9/18讀賣(大阪)(月刊「子ども論」1991年11月号/クレヨンハウス)、「教育の日」−女子高生校門圧死事件−/熊坂崇/1993年5月リーベル出版発行、「学校を救え!」/保坂展人/1999年8月ジャパンタイムズ
TAKEDA私見 生徒が通過しているにもかかわらず門扉を力いっぱい閉めた教諭に対して、同情はできないが、これは一教諭個人の問題ではなく、他の教師であっても十分に起こり得た「事件」であったと思う。学校側も、司法も、これが偶然起きた「事故」ではなく、人為的になるべくしてなった「事件」であることの認識をもっとすべきだと思う。責められるべきはA教師個人ではなく、生徒の安全より校門指導を優先した学校の体質であると思う。

確かに「遅刻」はほめられたことではない。しかし、なぜ遅刻者を取り締まらなければならないのか、基本的なことがいつの間にか教師の間でずれている。生徒たちに社会的ルールを教えるためではなかったのか。その社会的ルールの中で、生徒の安全を確保し命を守ることのほうが、規則を守らせるよりはるかに重いことだということが、忘れ去られている。

心身ともに健やかな子どもたちを育てるためにあるべきはずのルールが、生徒を有無をいわさず教師の言うことに従わせる道具に使われている。やがて規則を破るものを自分たちに反逆するものとして、憎しみを持つようになる。そこには、生徒たちへの愛情も教育もない。あるのは、ただ支配するものとされるものとの対立関係だけとなる。

なぜ校則が必要なのか、それを守らせるために教師はやっきになるのか、生徒たちに問いかける前に教師自身が自分たちに問うてみてほしい。学校の中で真に大切にされるべきものは何かを人間としての原点に戻って考えてほしい。

それから、石田僚子さんがそれまで1度も遅刻したことのない生徒だったことがよく強調されるが、たとえ被害にあったのが遅刻常習の生徒であったとしても、教師たちのしたことは、けっして許されることではない。遅刻をするような生徒は怪我をしても、殺されても仕方ないというような学校に、わが子を通わせることはできない。そんな学校なら行かないほうがいい。

(2002.1.13)



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