わたしの雑記帳

2007/2/24 小森香澄さん・いじめ自死裁判、生徒と和解。


2007年2月19日、濱野惺裁判長のもと、小森さんと一審被告の元同級生Aさんとの和解が成立した。一審判決時は地方紙にしか載らなかったものが、今回は元生徒との和解のみで全国版に大きく報道されている。社会問題として注目を浴びているときとそうでないとき、マスコミや世間一般の関心の違いを実感する。
小森さんが支援者に送った手紙と和解文を許可を得て、ここに掲載させていただく。


                        裁判のご支援を頂いている皆様へ
                                                                2007/2/22 
 
 いつも私たちの裁判に関心を寄せていただき有難うございます。先日お伝えしたとおり一審被告生徒との和解が成立し、和解文が送られてまいりました。
 相手からの要望で、支援者の方にご報告する場合は、原文そのままの形で公表して欲しいということですので、そのまま送らせていただくことに致しました。
 私たち両親は、香澄の心を傷つけた事への謝罪に8年7か月もかかってしまったことに対し、悲しみと共に空しさを感じています。
 もし、亡くなった直後にしっかりと反省し、心からの謝罪の思いを私たち両親に伝えていたら、この裁判そのものがありませんでした。
 互いにもっと早い段階で、新たな生き方を模索することも出来たはずです。
 その事を考えますと、この長い時間は一体何の為に必要だったのか全く理解が出来ず苛立ちさえ覚えます。
 香澄の負った深い傷、そしてこの間に負った私たちの心の深い傷を思い出すと、「和解」という文字のイメージとはほど遠いものがあります。
 「香澄と、この間の時間を私たちに返して欲しい!」と、改めて叫びたいというのが本心です。
 後日改めて今後の日程等をご連絡させていただく予定でおりますが、取り急ぎご報告と考えて、和解文を送らせていただくことにしました。
 今後ともご支援のほ宜しくお願いいたします。
                                   小森新一郎・美登里



                               和 解 条 項

1 控訴人は、被控訴人らに対し、控訴人の言辞により、心ならずも、亡香澄の心を深く傷つけ、亡香澄を精神的に追いつめてしまったことを陳謝する。

2 当事者双方は、本件に関し事実関係を正確に認識しない第三者から心ない言動等がされたことに遺憾の意を表明し、今後、本和解の趣旨ないし内容と異なるような一切の言動及び行為をせず、互いの名誉を尊重することを誓約する。

3 控訴人は、被控訴人らに対し、平成19年3月30日限り、弔慰金30万円を被控訴人代理人の口座に振り込んで支払う。

4 被控訴人らは、その余の請求を放棄する。

5 当事者双方は、当事者間に本和解条項に定めるほか何ら債権債務の存在しないことを相互に確認する。

6 訴訟費用は、第1、2審を通じ、各自の負担とする。
        
                                         以 上

※ 和解文全文。控訴人=元同級生、被控訴人=小森さん


和解文を見せられた瞬間、私は「えっ、これだけ?」と思わず聞いてしまった。全文でA4用紙に半分しかない。謝罪の言葉は、いかにもお役所的な表現でたった2行。この紙1枚のために5年もの間、裁判が続けられた。

1審判決では、『被告Aの発言は、「アトピーがきたない」「顔が醜い」など香澄の身体的特徴をあげていわれない中傷を加えるものや、「部活に邪魔」など部活動内における香澄の存在価値を否定するもの、さらに病気療養中の香澄に対して「もう仮病は治ったの」と言うなど当時の香澄の心情を顧みずにされたものがあり、上記発言内容はそれ自体香澄に大きな精神的苦痛を与えるものということができる。
被告Aの上記発言は香澄に対して機会あるごとに執拗に繰り返されていたものと認められ、被告Aによる発言が香澄を精神的に追い詰め、耐え難い精神的苦痛を与え、人格的な利益を侵害したものと認めるのが相当であるから、被告Aの上記認定の言動は違法というほかはない。』と認定。
Aさんに対して、原告である小森新一郎さん(父親)に28万円、同じく原告である小森美登里さん(母親)に28万円の計56万円の支払い命令が出た。(me060404参照)

もうこれでAさんを解放してあげようと思っていた小森さんに対して、Aさん側が控訴してきた。裁判が続けられた。
1審の判決内容からしても、現在のこの世間のいじめ問題への関心の高さからしても、裁判は小森さんのほうが有利な立場にあったと私は思っている。おそらく、小森さん側が和解条項にもっといろいろな条件を盛り込むことも可能だったと思う。相手がそれに納得しなければ判決を待てばよいだけなのだから。

元々、お金がほしいわけではない。多少の額をもらったところで訴訟費用等のほうがよほどかかっている。謝罪にしても、Aさんからは心からの反省も謝罪も得られないものとすでにあきらめてしまっている。
被控訴人(Aさん)側が最後までこだわった「いじめ」という言葉は、ふつうなら遺族のほうがこだわるが、その言葉にさえこだわりはなかった。
私たちはジェントルハートプロジェクトの活動のなかで、「いじめ」を「心と体への暴力」と定義づけている。「心を深く傷つけ」「精神的に追いつめる」ことは「いじめ」と同義語であるという共通理解をもっている。また、文部省の「いじめ」の定義が長い間、いじめを認めるためではなく、認めないためにこそ使われてきたことも十分知っている。「いじめ」という言葉でくくられなければ、やってもよいのか。「犯罪」だと警察に認定されないことならやってもよいのか。「いじめ」という言葉にこだわるひとたちに問うてきた。そのことをAさんにも一度よく考えてもらいたいと思う。


裁判をはじめる頃は、小森さんにももっといろんな思いがあったことと思う。「何があったか事実を話してほしい」「心から反省して生き直してほしい」などなど。
しかし、裁判の証人尋問(me051020参照)でも、1審判決に際しても、自分のしたことは間違っていないと主張するだけで、香澄さんの心の痛み、最愛のひとり娘を亡くした両親の悲しみ苦しみに理解を示すことさえなかった。
事件直後と裁判での証人尋問。Aさんが小森さんに直接謝罪するチャンスは少なくとも2回はあったがしなかった。そしてせめて、1審判決の内容を真摯に受け入れていればと思うが、それさえ拒んだ。和解の話し合いでも、Aさん側からの歩みよりの気持ちは感じられなかった。
小森夫妻がAさんに期待するものはもはや何もない。それが、この味気ない和解条項なのだと思う。

それでも、美登里さんは和解が成立した途端、泣けて泣けて仕方がなかったという。もちろん、うれし涙ではない。最後の最後まで、香澄さんや自分たちの気持ちが相手に通じることがなかったことへのくやし涙だと思う。
美登里さんは、「香澄が死んだあと謝ってさえくれていたら、この裁判はなかったのよ」と相手の弁護士を通してAさんに伝えたかったという。しかし、嗚咽をこらえるのがやっとで、言葉にならなかったという。
小森さんは香澄さんのことだけを考えてきたわけではない。真の反省と謝罪からしか次の一歩は踏み出せないのではないかとAさんの将来さえ案じてきた。「私たちのほうがずっと彼女のことを考えていると思う」と話していた。彼女が生き直すための機会を奪ってしまった親や学校など周囲の大人たちに憤慨していた。

2007年2月23日の朝日新聞には「むなしい」と言った美登里さんの言葉を実証するような、Aさんのコメントが載っている。上野創記者の取材に答えて「元同級生本人は『なんとか納得できる内容なので和解に応じた。でも絶対にいじめてはいないし、『汚い』などとも言っていない』と話した」という。

生前の香澄さんはお母さんにAさんやBさん、Cさんからのいじめについて訴えていた。「辛い」と感じていた。そして自殺。
Aさんは、今も自分の言動が香澄さんを傷つけたと本当に思っていないのだろうか。
いつの間にかAさんのなかで、「被害者は香澄さんではなく、むしろ自分」という図式が出来上がってしまったようだ。
親は誰より自分たちを責めている。最終的に救えなかった。自分たちのなかにも追いつめてしまうものがあったかもしれないと。だからこそ、同級生らも、教師らも、夫婦と一緒になって自分たちのしてきたこと、してこなかったことを反省し、香澄さんに「ごめんなさい」とみんなで謝りたかったのだと思う。

いじめを行った生徒たちを反省に導くことは難しい。事件があるたびに実感する。
最初は、自分たちの行為が追いつめたと涙を流して反省していた子どもたちが、1週間もしないうちに態度が変わってしまう。学校・教育委員会・親など保身に走る大人たちに説得されて、前言を撤回する。自分たちのしたことを正当化し、自分たちこそ、人権侵害にあっていると主張する。被害者意識ばかりが増大し、そこからは反省は生まれない。謝罪の言葉の代わりに、亡くなった本人やその家族を傷つける言葉ばかりが発せられる。
心からの謝罪がない。そのことだけでも傷つけられるのに、さらに遺族の神経を逆なでする。亡くなった子どもも遺族も、精神的には何度も何度も殺されている。

いじめが起きたときに、大人たちは子どもたちの反省をどこまで引き出せるのか。どうすれば、子どもたちは自分たちのしたことを真剣に反省し、心から謝罪し、二度と同じ過ちを繰り返さないよう新たに生き直すことができるのか。そのことを大人たちはもっと真剣に考えるべきだと思う。
実際に大人たちが真剣に考えることは、いかに自分たちの責任を逃れるかだけで、大人が反省しないからこそ、子どもたちも反省できない。だからこそ、被害は繰り返される。
早い段階で、大人たちがいじめた子どもたちの反省を引き出すことができれば、たとえ心の傷は残ったにしても、少なくとも香澄さんが死にまで追いつめられることはなかったと思う。子どもたち以上に大人たちの責任は重い。
小森香澄さんの裁判の神奈川県(学校)を訴えている裁判はまだ終わっていない。

次回予定(2007年2月27日)の裁判は和解協議のため延期。


今までの裁判傍聴記録は雑記帳のバックナンバーにあります。小森さんの意見陳述もあわせてご覧ください。



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