わたしの雑記帳

2004/9/20 「先生はぼくらを守らない」 〜川西市立中学校 熱中症死亡事件〜


川西市立中学校のラグビー部の練習中に熱中症で死亡した宮脇健斗くんのご両親が、「先生はぼくらを守らない −川西市立中学校 熱中症死亡事件−」(宮脇勝哉・宮脇啓子 著 / エピック ISBN4-89985-121-9 C0037 Y1334E 定価 1400円(本体1334円+税5%))という本を出された。
学校の教師であるご両親が、このようなタイトルの本を出さざるを得なかった無念を思う。

第1章には、健斗くんが亡くなった日の様子が実に克明に書かれている。
その日の朝、元気に部活に出かけていった息子。まさか、次に帰宅するときには遺体になっているなどとは、誰が想像しえるだろう。たった一日で、平凡な家族の平和な世界が一転してしまう恐ろしさ。
私たちの平穏な日々の暮らしがいかに危ういもののうえになりたっているか、失われてみるまではわからない。
第一報から集中治療室、亡くなるまでの描写があまりにも臨場感にあふれていて、胸が痛くなる。子どもを亡くされた方にはかなり辛いかもしれない。きっと、ご両親は、その瞬間、瞬間を思い出し、泣きながら書かれたのだろうと思う。

子どもが死に直面しているとき、親なら、なんとしてでも救ってやりたいと思う。その願いが届かない。現実はあまりに残酷だ。
目の前で命が失われていくのを、私自身、今年、父を看取るなかで体験した(me040318)。父の場合は81歳。それなりに充実した人生を送ることができた。人生を全うしたという思いがある。しかし健斗くんは中学1年生、13歳。人生半ばどころか、まだまだこれからだった。しかも、ほんの少しの注意で失われずにすんだはずの命だった。
顧問さえしっかりしていればというより、あの顧問さえいなければ死なずにすんだ命だった。

子どもが亡くなったあとの学校は、教師は、どうして日本全国、このように判で押したような対応をとるのだろうと思う。いじめであれ、事故であれ、学校の管理下で起きた事件・事故は、まるで全国統一マニュアルが存在するかのような動きとなる。
そして親は、自分たちがこのような目にあうまでは、学校というところを信じている。それは教師を職業にもつ親も例外ではなかった。万が一、学校で子どもの命が失われるようなことがあったなら、当然の責務として、学校は何があったかを詳細に調査し、両親に報告。きちんと謝罪も賠償もなされるものだと思っている。学校ができるせめてものこととして、二度と同じ悲劇を繰り返さないように、わが子の死は教訓として生かされる。それで、子を亡くした親が納得いくはずもないが、学校も教師も善意で一生懸命にやってくれたんだと思うことで何とか自分の気持ちに折り合いをつけようとする。それら全てが幻想であると知る。

子どもの死の直後は、混乱のなかから、頭の片隅で何かおかしいと気づきながらも、つきつめて考える余裕さえない。子を亡くした親よりも、立ち会っていた教師を気遣う学校関係者。不祥事のあとの奇妙な連帯感。一方で、亡くなった子の親にさえ平気で理不尽な要求をつきつける常識のなさ。相手の気持ちへの配慮のなさ。
そして、多くの事件に共通するのは、当事者であるはずの教師がまるで他人ごとのような言動を平気でする。あまりに責任の重さから、自己防衛本能としてでてしまうものであるなら、まだ救われる。しかし、そうは思えない。
教師というのは、常に自分を問題の外において考える習性を持っているのだろうか。自分たちを偉いものとして別格におかなければ、ひとにものを教えるなどということはできないことなのだろうか。

この人たちに心はあるのだろうか、死の意味がわかっているのか、子どもを亡くすことの絶望感を理解しようという気持ちはあるのだろうかと、事件のたびに教師の言動を見聞きしていて思う。
同僚の教師を思いやってるように見える行為も実は、自分にも同様のことが起きたときの保険ではないか。かばいあうことで、互いの行為のおかしさに気づいても見て見ぬふりをする。子どもたちを変えようと日々、努力する教師たちが、自分が誰かに何かを教わり、変えられていくということは頑ななまでも拒否をする。
子どもや親を仮想敵視し、自分たちの立場だけを守ろうとする。本当は、教師が守るべきは子どもであるはずなのに。
体育の授業中の事故で亡くなった戸塚大地くんの両親は、「子どもが亡くなったから学校・教師がこのような対応をとるのではなく、このような学校だからこそ子どもが死ななければならなかったのです」と言った。

被害者が泣き寝入りしていれば同情も集まる。しかし、自らの意志で発言しはじめたときから、学校にたてつく異端者とみなされる。トラブルメーカー扱いされる。同じ教師という立場でありながら、宮脇さんの場合も例外ではなかった。
それでも、ほかの被害者が為しえなかったことをいくつも宮脇さんはやってのけた。もちろん、運もあるだろうが、教師という立場ではなく、健斗くんの親としての立場を貫き通した両親の執念の賜でもあると思う。
教師ということで、内部の動きが想像つきやすい、個人的なネットワークで情報を得られやすいなどの利点はあるかもしれない。しかし、少しでも保身を考えれば、たちまち足元をすくわれてしまう。足元をすくわれやすい場所にいることも確かだ。

関係した生徒たちによる現場再現。約束期日の直前になって一方的に反故にされた。
現場再現への思いを宮脇さんは本のなかで次のように書いている。
−子どもたちと本山先生(仮名)との記録のズレを付き合わせてお互いに「こんな風だったなあ」と、実際に体を動かしながら確認できる作業が、現場再現であると考えていた。私たちにとっては、一番真実に近づき健斗の最後を実感できる機会ととらえていた。子どもたちにとって、健斗の死は悪夢のようで、早く忘れてしまいたいことであるかもれない。「あの時、健斗にこんなことを言ってしまった」とか「あの時、こんな風にしてあげていれば・・・」など、子ども自身にも深い心のキズとなっているだろう。十代前半の子どもにとって、その思いに口を閉ざしてこれから生きていくことは、どこか後ろ向きな所が出てきはしないだろうか。これから顔を上げて堂々と生きていくためにも、健斗の命に対して自分はきちんと成し遂げたという確信がいるだろうと思っていた。そして、仲間の死に立ち会った一人の人間として、子どもなりに誠心誠意取り組んでくれるものと思っていた。
 また、あの日あの場所に居合わせた人みんなが、健斗のことを思い出しながら走ってくれる過程そのものが、健斗の気持ちを癒してくれることにもつながると考えていた。そして、その様子を見守るなかで、「健斗はこうして死んでいったのだ」と真実により近づいて、その時の健斗の辛さ・悲しさ・苦しさを今より少しでもわかってやれそうな気がしていた。そして、その再現が終わった時には、そこまでしていただいた皆さんの気持ちを汲んで、健斗が死んでしまった事実は決して納得はできないが無理やりにでも受け入れないといけないと覚悟していた。−

学校側は、そのような親の思いに寄り添うことはなく、「子どもたちの心のケア」を前面に押し出した。
どうして大人たちはすぐに子どもたちのことを勝手に決めてしまうのだろうと思う。宮脇さんと子どもたちを話し合うこともさせずに、子どもたちが本当はどうしたいのか、その気持ちをきくこともしないで、子どもたちのためにはこれが一番いい方法だと勝手に決めつけ、押し付けてしまう。子どもを無能者とみなしている。子どもの権利条約にある「意見表明権」が肝心なときに生かされたためしがない。
「命の大切さ」とお題目のように唱える学校・教師が、失われた命に寄り添おうともしない。亡くなった子どもをないがしろにすることは、生きている子どもをもないがしろにすることだと私は思う。
子どもたちは、このような学校の対応から、「保身のためには真実に蓋をする」ことを学ぶ。個人の命など、組織の安定の前には小さなものだと、「命の軽さ」を学ぶ。

結局、教員による現場再現となった。学校現場ではいつも、責任を問われている当事者の言い分ばかりが聞かれる。利害関係のない第三者の目撃情報とすりあわせて真実を追及しようという姿勢はみられない。そうしたなかで、現場再現もアリバイづくりにさえ感じられる。自分たちは、これだけのことをしました。さあ、これが遺族が知りたかったことのすべてだから、さっさと見切りをつけなさい。ポーズだけの真実追究。

納得がいかなかったからこそ、宮脇さんは民事裁判を起こした。「僕には健斗を助けるチャンスが3度あった」そう言っていた本人が、「やるべきことはやった」「責任はない」と言い切る。全面否定する。自分の発言にさえ責任を持たない顧問教師。代わりにすべての責任を亡くなった生徒に背負わせる。開き直っているようにしか思えない。一旦、真実の追及がいい加減になされてしまえば、あとからはいくらでも言い逃れはきく。時間は戻らない。生徒たちの証言も、自分の証言さえ、時間のなかで立証できないとする。民事裁判では、訴える側が相手の不法性を立証しなければならない。いつの間にか、被告側が「自分こそが被害者だ」と主張しはじめる。自分が奪った命に対する贖罪は感じられない。

裁判のなかで、亡くなった子どもの名誉がどれだけ傷つけられるか。いくつもの裁判で私自身もみてきた。事故にしても、いじめにしても、体罰にしても、こんな子どもだったから死んでも、殺されても仕方がなかったと、被害者のマイナス面ばかりがことさら強調される。太っていたから熱中症になりやすかった。水筒をもってこなかった。
太っていようとやせていようと、スポーツをする権利はある。どんな子どもでも安全に参加できなければならないのが、学校のスポーツではないのか。水を持ってきていたら、自分で体調やのどの乾きにあわせて自由に飲める部活であったら、生徒は親が用意しなくとも、自主的に持っていくだろう。逆に、持っていっても飲めないのであれば、持っていかない。練習がきついことはわかっている。水を飲んで横腹が痛くなって走れなかったらどうなるか、子どもたちは経験的に知っていただろう。

責任を追及しているはずの原告が、そのしっぺ返しのように、自分たち家族や亡くなったわが子の誹謗・中傷に甘んじなければならない。かつての教え子、自分が死なせた子どもに対する非情な仕打ち。加害者を擁護する周囲。味方についてくれるはずの人たちまでが敵にまわる。もしかしたら、健斗くんではない別の誰かが死んでいたかもしれない。原告席にいるのは自分だったかもしれない人たちが、冷たい視線を浴びせる。

刑事告訴で、一旦は嫌疑不十分で不起訴になった顧問は、不服申し立ての訴えで再調査した結果、業務上過失致死になった。罰金50万円。子どもの命のなんと安いことかと思う。
それでも、民事の勝訴。顧問教諭個人の責任の認定。教師によるもので、しかもあいまいな点の多い現場再現であっても遺族が立ち会っての現場検証。いずれも異例のことだ。
どれだけ他の被害者と比べたところで、最愛のわが子を亡くした親が納得するはずもないが、せめて今後、学校で事件・事故が起きたときに、川西市でできたことが、ほかでできないはずがないと、最低基準の第一歩としてほしいと思う。

今だ現役の教師であるご両親が、このような赤裸々な内容の本を書かれることの勇気を思う。
私自身、知らないこともいっぱいあった。ずいぶん、辛い思いもされてきたのだなぁと思う。そして、この本が出たことの影響もある程度、想像がつく。それでも、わが子の死をせめて教訓として残すために、次の命を救うために、本書を出された。きっと一生懸命走り抜けた健斗くんに恥じないように、健斗くんから託されたボールをもって夫婦で、家族で走り続ける覚悟なのだろうと思う。次々と向かってくる敵をその強力なパワーではじき飛ばしてほしい。
私はここから声援をおくる。




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