わたしの雑記帳

2002/2/25 「子どもは性被害によっていかに深い傷を受けるか
 〜二次被害を引き起こさないために〜」/吉田タカコ さんの話しから

2月23日、横浜で開催された国際子ども権利センターのセミナーに参加した。
講師の吉田タカコさんの話しを聞いて、それまで私がバラバラに学んできたこと、学校の中の問題、児童養護施設、子どもの虐待、メキシコのストリートチルドレンのこと、沖縄のことなど、それらを結ぶための大きなジグソーパズルのピースがポンッとはまった気がした。
当日の話しの内容と、吉田さんの著作物 「子どもと性被害」(吉田タカコ著/集英社新書)、私自身が得た情報や考えなどを織り交ぜながら、ここに報告したい。

子どもへの性的虐待は家庭内ばかりではありません。あらゆる日常的な場所で、あらゆる人から受けているのです。」この言葉に、やはりそうだったと思った。
私が知りうるいくつかの事情を話すと、多くの人たちから、「それは特殊な例」という反論が帰ってくる。「けっして一般的なことではないのに、まるで身近にあるかのように、不安を煽りたてないでくれ」と批判される。「大部分の職員はまじめに一生懸命やっている。マスコミで事件が報道されると、まるでほとんどの職員がそのようなことをやっているように思われて可哀想だ」と言われる。

ほんとうにそうだろうか?逆ではないか?常に疑問に思ってきた。ほんとうは、マスコミ報道されるものは氷山の一角でしかなく、その水面下で、何十倍、何百倍もの子どもたちが傷つけられてきたのではないかと。報道されるいじめ事件がごくわずかであるように、さらに口に出して言いにくい、被害を口にすることが自分への周囲の評価を貶めてしまうような今の社会のなかで、もっとも、もっと身近に起きている問題なのではないかと感じていた。

メキシコの少女たちが、家庭で実の親に、実の兄に、義理の父にレイプされて路上にストリートチルドレンとして飛び出し、そこでもまた、おとなたちによる商業的性的搾取にあったり、警官や仲間の少年からレイプにあったりする(me001218 me010214)のと同じようなことが、この日本でも、数こそ違え、いくつかの事情こそ違え、あるのではないかと思っていた。海外では少女と同じように、少年も性的被害を受けることは、今の日本社会でもある程度、常識になりつつあるが、国内でも同じように、少年たちがおとなたちや子どもたちからワイセツ行為を強いられたり、レイプされるということがあるのではないか。そして、それは日本の社会のなかでは少女以上に口に出しにくいことなのではないかと思っていた。
職員がかわいそう?大人には、自分たちの仕事に対する責任がある。自分たちの環境のなかに、被害者を生み出す要因があるのなら、それを是正する責任がある。ほんとうにかわいそうなのは犠牲にされた、そして今も無防備に危険にさらされている子どもたちのほうではないか?

しかし、私にはそれを立証できる手だてがなかった。せいぜい、過去に報道された学校事件のなかで、思っていた以上に多い教師からのわいせつ行為、強姦事件の事例を一つひとつ掘り起こすしかなかった。
そんな中で、吉田タカコさんは、日本で、子どもの時代に性的虐待を受けたことのある女性、男性にインタビューしている。そして、子ども時代に受けた心の傷が、そのひとの一生を左右しかねないほど深刻なものであることを検証している。「殺されなくてよかったね」ではなく、常に死への時限爆弾を抱え込まされてしまうほどの傷を負わされたのだということを検証している。

そして、1998年、「子どもと家族の心と健康」調査委員会が実施した調査では、
18歳までになんらかの性的虐待の被害を受けたと回答したのは、女性39.4%で、男性10.0%だった。これは海外と比較しても、けっして低い数字ではないという。

この数字について、私自身はけっして大げさな数字ではないと、自分自身の体験からも実感している。
小学校で教師が、「○○は、胸が大きいなあ」などとみんなの前で言うのを聞いたことがあるし、中学の同級生が、「担任の先生が、わたしの制服スカートのポケットに手を入れてくる」と話すのを聞いたことがある。
家族で地方の温泉に行ったときには、大浴場で男性2人が男風呂から覗いているのを目撃した。男性2人は、こちらが睨み付けても平気だったし、その温泉そのものが、男風呂から女風呂がのぞき見できる構造になっていた。また、初老ではあるが従業員の男性が、大勢の女性が入浴中に、ブラシをもってタイル磨きをしていた。その従業員は、男性たちがのぞき見していることを知ったが何も言わなかった。母親に言っても、「いやね」と言うだけで具体的な行動は何もとられなかった。それから何年も、私は大浴場が嫌いで、修学旅行などでもけっして入らなかった。
また、私自身は、電車の中のチカン行為に、言葉では出せなくても、パッと大げさに振り向くなどの行動はとれるほうだったが、中学から社会人に至るまで何度となく電車でお尻などさわられたり、職場で上司からすれ違いざまにお尻をなでられたり、飲み会の席で膝に手をやられたりしたことがある。職場の健康診断では、男性の医者が乳ガンの触診をしながらニヤニヤしたり、「君は色が黒いねえ」などと話しかけたりしていた。
このように、日本でも女性であるということだけで、日常的に性的被害にさらされる。一度もこのようなことがない女性など、むしろほとんどいないのではないかとさえ思えてくる。

被害者は被害を口にできない。吉田さんは、子どもたちが被害を打ち明けられない理由として、次のことをあげている。

(1) 加害者の巧みな操作
「他の父親もやっている」「二人だけの秘密にしておくこと」などとウソの情報で子どもを洗脳する
「お母さんが知ったら自殺する」「他人に知られたら、友だちがいなくなる」など、秘密にしなければ愛する人を失うと脅迫する
「誰かに話したら、誰もお前を信用しなくなる」と脅かすことで、他人が事情を知ったり、子ども他人から情報を得ることから遠ざける
睡眠中や就寝直前など子どもの意識や判断力が低下しているときに行われるために、被害を受けた子どもは夢と現実の境がわからなくなる
「しゃべったら殺すぞ」と脅され、恐怖を植え付けられる。(実際に首を絞められたり、暴力を振るわれることもある。直接は口に出さなくとも、加害者の態度や言動から「殺される」恐怖を受ける)
(2) 親が子どもを語らせない状況に追い込んでいる
親が日頃の態度の中で、性を恥ずかしいこと、口に出すべきではないことと示しているため、子どもは、親に話しても信じてもらえないと思っている。また、話したところで、「そんな目にあったお前は恥ずかしい存在だ」とか、被害にあった自分の落ち度として責められると思っている(実際に親や周囲のおとなから、被害者が責められることも多い)
話すことで、愛する親をパニックに陥らせたり、嘆き悲しませるのを恐れて、沈黙を守り続ける
(3) 加害者をかばおうとしている
加害者が親など、子どもにとって信頼と愛情を寄せている存在であれば、子どもは加害者をかばおうとする。加害者が責められたり、罰を受けたりする可能性があると知れば、子どもは自ら「そんなことはなかった」とウソの証言をすることもある。
また、加害者から性的虐待を愛情だと思いこまされてることがある。
(4) 自分への罪悪感
多くの子どもたちは、性的被害にあったのは自分に原因があったのではないかと思いこんだり、思いこまされたりしている。拒否できなかった、抵抗できなかった自分への罪悪感。自分がいい子でなかったからこのような目にあったのではないかという自責の念。性的虐待を受けて快感を得た場合の罪悪感など。
(5) 被害を語れる言葉を持っていない
子どもは自分がされた行為を「変だな」「嫌だな」と思ってもそれがなんなのか説明できる知識(セックスの意味、性器の名称すら知らない、虐待の意味)がなく言葉をもっていない。

これらは、子どもたちが、いじめを大人に言えない理由と共通する面がある。
そして、実際に、子どもたちが被害を訴えたとしても、それをきちんと受け止めきれない大人社会の問題がここにもある。

吉田さんは指摘する。わいせつ行為、強姦、などを「いたずら」などという言葉に置き換える安易な言い換え。1999年11月24日、葛巻で、小学校2年生の女児が46歳の運転手に首を絞められたうえ、ワイセツ行為に及び、死体を山林に遺棄した事件の判決文にさえ、この重大な犯罪行為を「いたずら」ということばで表現している。この言葉は、被害者の感情に配慮したものという言い訳がある。ほんのちょっと触られたのか、強姦未遂だったのか、性交まで及んだのか、あいまいだからだろう。
しかし、一方で「いたずら」という言葉には、子どもがする程度の軽い行為、遊び心であって悪気はなかったというニュアンスが含まれている。不当に罪が軽い印象を受けるそれは、けっして被害者や遺族の感情に添うものではないだろう。

私自身、このサイトのなかで、言葉の使い方一つひとつに悩むことが多い。「自殺」なのか「自死」なのか。「ワイセツ行為」と書くべきか、「強姦」「レイプ」「集団レイプ」「輪姦」などという言葉を使っていいものかどうか。被害者や遺族の気持ちはどうなのか。
明確な使い分けをしているわけではないが、被害を過小評価するような安易な言い換えはしたくないと思っている。いやな響きの言葉を意図して使うことも多い。それが、私たちが受け止めなければならない現実だと思うからだ。目をそらしたい、きれいごとですませたい、何も見なかったこと、知らなかったことにしよう、そうした私たちの「逃げ」が、重大な被害の小さなサインを見逃し、被害をさらに拡大させていると思うから、批判されることを覚悟のうえで、あえて耳障りの悪い言葉を使用するようにしている。

性的被害にあった子どもたちもまた、周囲から再び何度も心を傷つけられ、何度も殺されている。
被害にあった子どもたちを傷つける周囲の言動として、吉田さんは次ことをあげられた。
子どもの言うことを真剣に取り合わず、笑った。
見て見ぬ振りをした。子どもを守る行動を取らなかったために虐待が続いた。
「なんで今まで言ってくれなかったの?」「なんでついていったりしたの?」「なんで拒否しなかったの?」などと被害者を責める言葉。
(被害が大きければなおさら)「信じられない」「あの(りっぱな)人が、そんなことをするはずがない」と言う。
(たとえその人を思いやっての言葉だとしても)「犬に噛まれたと思って忘れてしまいない」「触られただけだったら実害がないからよかったじゃない」「殺されなかっただけまし」と被害を過小評価したり、比べたりする。

学校では教師が(961200)、児童養護施設の虐待では自治体が(me010511)が、家庭では親や祖父母がこのような態度を多くとる。また、専門家と言われる養護教諭やカウンセラー、警察官、裁判官、弁護士、人権擁護委員会、電話相談窓口、評論家などでも、そのような言動をとるひとがいることを私自身、残念ながら数多く見てきた。安易なのなぐさめの言葉は、それが悪意でなくとも、かえって被害者を傷つける。(STEP3の被害者や遺族を傷つける言葉 参照)いじめ自殺した小森香澄さんのお母さんは、その手記「優しい心が一番大切だよ」(WAVE出版)の中で、香澄さんからいじめの内容を打ち明けられて思わず、「なんでもっと早く打ち明けてくれなかったの?」と言ってしまった。香澄さんは「言わなかった私が悪いの?」と返したという。

いじめでも、恐喝でも、性的被害でさえも、問題にされるのは被害者の落ち度であり、加害者の罪はあまり問題にされない、日本社会の被害者に厳しく、加害者に甘い風潮が窺われる。それは、司法の世界でも同じで、加害者の罪を軽くするために、言い訳として被害者の落ち度ばかりがクローズアップされ、過失相殺される。

近年でこそ、学校で教師が生徒にわいせつ行為を働いた場合、懲戒免職になることが多くなってきたが、以前は、事実が判明しても、せいぜい1か月程度の停職や、担任からはずす、転任させる、訓告・戒告処分程度ですまされていた。性犯罪は再犯が多いのにかかわらず。そのために、同じ加害者から多くの被害者を学校の中で生み出してきた。ほとんどの加害者は罰せられることなく、すなわち反省することもなく、再び被害生徒の前にあらわれることが許される環境のなかで、被害にあった生徒たちはどんな気持ちでいたろうと思う。

それでは、子どもたちが被害にあわないためには、どうすればいいのか。吉田さんは提案する。
子どもが自分の体のことをきちんと話せるようにする。
(体の正式名称をきちんと言えるようにする)
子ども自身が、自分の性と相手の性を知る。(世の中に氾濫している誤った性情報に汚染される前、3歳頃から年齢に応じた正しい知識を子どもたちに与える)
CAP(子どもの暴力防止プログラム)など、年齢にあわせて、子どもが恐れを抱かずに自分の身を守れるような訓練をする。
子ども自身に人権意識を持たせる。(人権教育を受けていない子どもは被害にあいやすい)
大人の意識改革。子どもをモノとして扱わせない。父親教育。
被害が身近にあること、どれだけ深刻な影響があるかを世の中に啓発していく。
被害者をサポートする機関の必要性。
児童虐待法(児童虐待の加害者を親にのみ限定、性的虐待を狭義にしか捉えていないなど)、児童買春・児童ポルノ処罰法、など法改正と整備。
(再犯率の高い性犯罪)加害者の更正プログラムの実施。

性犯罪は相手を支配することだと私は考える。自分より弱い相手を支配することに喜びを感じる人間は多いのだろう。だからこそ、いじめのなかでも、相手の自尊心をとことん傷つけ貶めるために、男女、同性異性を問わず、性的な辱めをするという手段が使われる。相手を自分と同じ同等の人間だと思っていないから、沖縄で米兵が日本人に、海外で日本男性が女性や子どもに、親や大人が子どもに、教師など優位に立った立場の人間が生徒に、暴力を振るったり、相手が望まないセックスを強要する。人間をモノ扱いする、子どもたちを商品としか考えない社会のなかで、性的虐待は行われている。そして、その被害は深刻で、人間がけっしてモノではないことを教えてくれている。

性的被害がいかに深刻であるか、被害者たちの慟哭がきこえる
 「子どもと性被害」/吉田タカコ著/集英社新書(http://www.shueisha.co.jp/shinsho/)/本体700円+税 この本をぜひ、ひとりでも多くの人に読んでもらいたい。




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