陳徳寿さんの証言
 1937年日本兵が南京を占領した時、私はやっと6歳になったばかりでした。当時私の家には、祖父、祖母、父親、母親と私、そして叔母とその娘と息子の8人で住んでいました。家は城南天青街古鉢営4号にあり、服装店を営んでいました。父親は一着の服を請け負っており、お金は材料費に使っておりましたし、加えて、母は身ごもっており、臨月を迎えていましたので、どうしようもなくて南京を離れて逃げることはできませんでした。

 1213日の朝、日本兵が城内に入ってきました。すぐに街角に放火したので、隣近所の人は消火にでかけました。私の父も出かけましたが、日本兵に捕まって連れて行かれ、帰ってこなかったのです。父の名は陳懐仁といい当時28歳でした。

  その日の午前89時頃一人の日本兵が銃剣をもって家に入ってきました。家族はなにも準備をしていなかったので、接待をすればいいのだと思い、祖父母は煙草や飴菓子を差し出しましたが、彼は要らない、娘を出せといいました。当時私の叔母は一方の手で2歳の女の子を抱え、もう一方の手で4歳の男の子の手を引いていました。日本兵は彼女を見つけると彼女に近寄り引っ張っていこうとしました。叔母は文化的な家庭婦人です。死んでも従わないという態度だったので、もみ合い、この部屋から次の部屋へと押しやられ、この時叔母はかかえていた娘を祖母に渡し、日本兵と応酬しました。日本兵は恥ずかしさの余り怒り出し、銃剣で彼女を続けて6回も刺して帰って行きました。

 私は、叔母が地面に倒れて血を流しているのを見ました。彼女は祖母に、お母さん、砂糖水が飲みたくて堪らないといいましたが、祖母が砂糖水を持って来たときには、すでに意識がありませんでした。かわいそうな叔母は母親がもってきた砂糖水を飲む間もなく死んでしまったのです。叔母の名前は陳宝珠といい当時26歳でした。叔母の死体は戸板の上に載せられ家の前に置かれていました。お金が無いので安らかに埋葬することができなかったのです。

この時、私の母親は妹を生みました。彼女はベッドの上に横たわり、生まれた子供の胎盤や羊水をベッドの上に散らかしたままでした。毎日日本兵が来て、時には掛け布団をはいでそれを見ました。

 日本兵が城内に入って6日目、家では食べるものは何一つなくなりました。この時一人の日本人らしい軍官が入ってきました。腰にはピストルをぶら下げています。祖父が手まねで家の状況を説明すると、彼は祖父を連れて出ていきました。まず、叔母のために一つの棺桶を捜し出し、そして私たちのために僅かばかりの食糧を探してくれました。私はこのような同情心のある日本人を忘れることができません。

 母親は家にいても落ちつきませんでした。家族の安全のために、私の伯父はある夜、私たちを難民区の近くの親戚の家に避難させました。この日は大雪でした。道々私たちは常に死体に足をすくわれながら、よちよちと進みました。ここに私たちは40数日いてから、家に戻りました。

 父といっしょに連れて行かれた近所の人が家に来て、私の祖父に父親は日本人に殺されたと伝えました。その詳細な経過は以下のようなものです。父親は消火に出かけた時に日本兵に捕まり連れて行かれそうになりました。父親は、家には老人から子どもまでいて、妻は出産を控えている、行くわけにはいかないと懇願しま
したが、その結果、日本兵にこめかみと首を刀で刺されました。そのほか一緒に捕まった
2人も行きたがらなかったので、一人は刺し殺され、一人は首を刎ねられました。後に父の死体は三山街の承恩寺で知り合いが発見し、彼は木綿の掛け布団を戸板の上に掛けて防空壕のなかに入れてきたのですが、40数日過ぎて祖父と伯父がそこに行って死体をきちんと埋葬しました。

 父が死んでから、家のなかの主要な労働力はなくなりました。生活はじり貧になり、母親は乳母をしていいましたのでものもらいをしました。私が9歳になった時、南京では俗に『進口痢』とよばれた(急性の細菌性の下痢)流行病が大流行しました。私の妹と祖母はこの病に罹り、医者に掛かるお金が無く相次いでこの世を去りました。彼女たちを安らかに埋葬する費用のために、私の母は改めて嫁がざるをえませんでした。この時、我が家は70数歳の祖父と私たち3人の子どもが残され、祖父は3人の子どもを養わないわけにはいかないので、近所の助けのもと、従弟を孤児院に入れ、小さな従妹を別の人に預けました。後になって、祖父は彼らを捜しにいきましたが、捜し出せませんでした。聞くところでは皆病死したそうです。

 1945年私は14歳になりました。生活のために丁稚に行きました。1948年継父がかつて日本兵に傷つけられたところが再発して、母親と8ヶ月の弟を残して、血を吐いて死んだので生活は非常に困難でした。祖父も私には扶養する力がなかったので養老院に入りました。1949年私は18歳になり、工場で働くようになり、母親のもとに戻ってきました。生活は徐々によくなりました。

  そして我が家はまた8人になりました。家族は娘、娘の婿、息子、息子の嫁、孫娘です。みんないい仕事をしており、私たち夫婦も年金があるので健康で幸せな生活を送っています。私たちが幸せな生活を送れるようになったのは、我が国が永い間戦争をせずに経済建設に邁進しているからです。そして人民の生活環境を改善しようとしているからです。こういう平和な時代ですから、私はみなさんに言いたい。むかしの悲惨な歴史を忘れてはなりません。去年私は長崎の原爆資料館を訪問しました。そして日本人もまた被害者だとわかりました。平和と友好が私たちの未来の幸せで安定した生活を守る基盤です。私たちには、平和と友好しかいりません。戦争はいりません。戦争はだめ、平和が大事、友好が大事。私の話は以上です。

 

 

 2015129日、東京水道橋の全水道会館で開催した「南京大虐殺78か年 東京証言集会」には予想を超えるたくさんのみなさんが参加し、熱心に証言を聞きました。一昨年も大盛況でしたが、今年も集会開始前からぞくぞくと参加者が集まり、すべての椅子を出しても足りない、ついに会場のドアを開け放し、通路に座ったり、会場の外で立って話を聞いてもらうという事態になりました。それでも参加者はみな熱心に話に聞き入り、またメモを取る人もたくさんいました。参加者は230名にものぼりました。
 安倍政権によって戦争法案が強行され、日本の自衛隊が戦場に出かけていくということが現実のものになりつつあるという状況のなかで、集会は、「もうくりかえすまい 戦争と虐殺」をサブテーマとしてかかげました。
 集会の最初にノーモア南京の会代表の田中宏さんが、名古屋市と南京市の姉妹都市提携やユネスコ世界記憶遺産登録にふまえて、集会の意義についての挨拶をし、続いて南京大虐殺紀念館の陳慧さんが、張建軍新館長の挨拶を代読しました。生存者陳徳寿さんの証言には、みんなが一言も聞き漏らすまいと真剣に耳を傾けました。
孫娘陳雨さんは「祖父のことばを引き継いで語れるようになりたい」と話しました。
休憩のあと、笠原十九司さんが「南京大虐殺を否定しようとする安倍自民党政権」と題して講演しました。笠原十九司さんはユネスコ世界記憶遺産に登録された「南京大虐殺の記録」について詳細に話されました。
 昨2015814日、安倍首相は「戦後70年談話」を発表しましたが、それは日本による暴虐の限りを尽くしたアジア侵略と植民地支配の歴史を直視しようとせず、その加害責任を頬かぶりし、なんら真摯に反省しようとするものではありませんでした。それどころか、韓国併合への一歩でもあった日露戦争を賛美し、日本が西欧諸国のアジア植民地支配とたたかいアジア・アフリカの人々を勇気づけたとしていう、とんでもない歴史の歪曲をしています。
 それでいて、「戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と述べています。どうして「謝罪が宿命」といえるのでしょう。口先の「謝罪」は被害者の胸に響かないというだけの話しです。侵略と抑圧、人権蹂躙の歴史の居直りにはいつまでも謝罪の要求が続くでしょう。
 安倍首相の「謝罪」なき「反省」は全くの欺瞞であり、現在やっきとなっている「中国の脅威」キャンペーンと「積極的平和主義」という名の戦争政策、「戦争のできる国」作りの裏返しでしかありません。
 今戦争体制作りが強行され、これに歩調をあわせるように、ヘイトスピーチは地方にまで広がり、また各地で加害の歴史を反省する、施設や掲示板の撤去が進められています。社会全体に排外主義が強められる危険な情勢といわざるをえません。あまつさえ日本の報道の自由度は世界72位と言われています。政権による情報統制がますます進められているのです。
 集会の最後に事務局長の細工藤から今後の集会に関する説明を行い、証言者はみな高齢となり、生存者証言としては今年が最後になるのではないかという話も出ましたが、形は変わっても証言集会を必ず続けていきたいと述べました。
 集会後、参加者からは、陳徳寿さんの証言に感謝するという声がたくさん寄せられました。また若い学生からはぜひ大学で宣伝していきたいという声もありました。多くの人から、ぜひ南京を訪ねてみたい、ツアーを組んでもらいたいという声がありました。
講演に関しては、勉強になった、講演だけでも続けてほしい、本を読みたい、というアンケートが寄せられました。

たちは少し変わるかもしれませんが、どのような形であれ、私たちは、これからもこのような証言集会を粘り強く続けていきたいと思います。
 

ノーモア南京の会・東京

[English Version]

 最終更新:2016年11月15日
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南京大虐殺79カ年 東京証言集会
12月15日(木)6時半開始(6時開場)
韓国YMCA9階(JR水道橋下車5分)

■ビデオ:幸存者証言(侯占清さん、石秀英さん

■講演:南京大虐殺紀念館館長として務めた23年間をふり返って    前館長朱成山 さん

 南京大虐殺78カ年東京証言集会
230名の市民が熱心に証言に耳を傾けた この熱気を2016年以降も続けよう

生存者証言:陳徳寿さん




















 




























































































南京大虐殺77カ年 証言を聞く2014年東京集会
--教科書問題の現在と歴史認識
--
大盛況でした。

日時:12月10日
【幸存者証言】艾義英さん(当時9歳、南京市)
【講演】高嶋伸欣さん(琉球大学名誉教授)
    「教科書問題の現在と歴史認識」



私は艾義英と申します。今年
86歳です。南京大虐殺の生存者です。

 私は10歳まで南京城外の許巷村に住んでいました。

 南京大虐殺の時、私は自分の目で日本軍が人を殺したのを見ました。〔陰暦1114日(陽暦1216日)〕日本軍が2人の人を殺したのを見たのですぐ家に逃げました。私は家に帰って、「日本軍が村に来た」と両親に伝えました。おじさん二人と従兄弟二人がいっしょに逃げました。〔陰暦1117日(陽暦1219日)〕父は私たちを連れて〔東流鎮の〕おばさんの家に逃げ込みました。昼間は家を出ることが出来ず、夜になってやっと家を出ることができました。おばさんの家で食事をして家に帰ろうとしたときに、おばさんが外を見て日本軍が村に入ったかどうか確認してから家に帰った方がいいといいました。

 おばさんが外を見て、やっぱり日本軍が村に入ってきたと急いで知らせて来ました。そこで父たちは急いで山に逃げました。

 私の母はちょうど妊娠していたので逃げませんでした。私は父と逃げて牛小屋に隠れました。その時、部屋の中に鶏二羽を連れていましたが、鶏が鳴いたので、その声を聞いて日本軍が戸を破って中に入ってきました。父は捕らえられ連行されました。その時私は父の服の裾を引っ張って「行かないで、私は怖いから、弟の面倒を見られないから、行かないで」と頼みましたが、父は「大丈夫、すぐにもどるから心配しないで」と言いました。

 父の叔母たち女性たちも日本軍がまた来るから、すぐに逃げた方がいいとすすめられました。私よりも3つ上のいとこのお姉さんが日本軍に捉まえられて強姦されました。私はそれを見て泣き家に帰ろうとしました。いとこのお姉さんは「帰るならいっしょに帰ろう、だけどこのことは誰にも言わないで」といわれたので、私は「誰にも絶対に言わない」といいました。夜の7時、8時頃裏の山に逃げ込みました。一晩裏山で隠れましたが、空が明るくなって日本軍が帰ったので、村人が私たちをさがして裏山に来ました。

 母から聞いた話では、隣の村の1213人が殺されたということです。私の家族は5人が殺されました。従兄弟2人、おじさん2人と父です。1人の従兄弟は重傷で死を免れました。父が殺されてその死体がそのままになって、この死体をどうすればいいかわからなくて困惑して死体の前で泣きました。死体を運んでいくことも出来ずに、その時、殺された人が多かったのであちこち死体だらけで、どうすることもできず、そのままにしていました。

 私たちは1週間ほど山に逃げ込んでいました。その間に母は子どもを産みました。私の弟もまだ2歳なので、生活できずにどうしようもなくて、生まれた子供を人にあげようとしましたが、結局人にあげることもできずそのまま山に置き去りにしました。10日間ほど山にこもりました。

 昼は山に隠れ、夜は家に帰りました。こうした生活は20日以上かかりました。おじが山に来て母親と相談しました。このままずっと山で生活するのは食料品もなくない子どもたちも生活できないので、難民区に逃げようといいました。私たちは〔セメント工場〕難民区に逃げ込みました。日本軍は中に入り込むことができませんでした。難民区に逃げ込んでもちゃんと泊まるところもなく、草を敷いてその上に寝ました。周りの人が私たちの様子を見て、いろんな話しをしました。昼間ここで生活するのも大変だから、夜家にこっそり帰って生活用品を持ってきた方がいいと勧められました。結婚したばかりで従兄弟が亡くなった従兄弟の嫁さんが毎晩のように家に帰って食料品とか布団などを持ってきました。食料品を持ってきたので、地面に穴を掘って火をおこして、お粥などの簡単な食事を作りました。3月位になるとそろそろ春になるので食料品もなくなるし、家に帰って何かつくらなければならないと母がいいました。家に帰って畑を耕して物をつくろうと思ったのですが、まだ日本軍が時々村にくるので、夜は畑仕事をし、昼間は山に逃げました。

 4月になると日本軍があまり村に来なくなりました。日本軍のちゃんとした駐屯地に泊まるようになったのです。日本軍は村人に草をその駐屯地に送るようにいいました。日本軍が保長(村長)に100キロの草を駐屯地に送るように強要しました。いい草だとそのまま受け取りますが、草がよくないと殴られました。母の送った草はあまりよくなかったので殴られました。母が草を負ぶって帰り、歩き方がおかしく、足が怪我したようなので、どうしたのかと聞くと母は日本軍に殴られたといいました。各家は100キロの草を送らなければならないという要求ですが、私の家ではどうしてもできません。母はこのままでは命が確保できなくなります。殴られて怪我をして生きていけませんと言いました。すると保長があなたの体調がよくないのでしばらく休んで、体調がよくなったら100キロを駐屯地に送らなければなりませんといいました。そのうち、母は怪我が良くなったので草を送りますという約束をしました。

 日本軍が1年ぐらいそこに駐屯したので、その間ずっと草を強要され、提供し続けました。

 中国人に対して日本軍が犯した罪は決して忘れてはいけません。苦難に満ちた歴史を忘れてはいけません。

 私は日本に来てこの話を紹介して聞いていただきましたが、もし私がここで話しをしなければ、皆さんは当時の事実を分からないでしょう。歴史を忘れてはいけません。そして歴史を知らない人もたくさんいますのでこの話をずっと続けていきたいと思います。特に若い人たちがたぶん余り歴史を知らない人が多いかと思いますが、ここで私が今日紹介させていただいたこの歴史的事実をぜひ覚えて、この歴史をくりかえさないように頑張っていただきたいと思います。中国政府は、今年の1213日を国の公式記念日、南京大虐殺記念日と定め、その日警報を鳴らして記念します。皆さんにもぜひこの苦難に満ちたこの日を覚えて欲しいと思います。

 平和が欲しい、戦争は欲しくない。ぜひ平和な生活が営まれますように。

 このような歴史を忘れないで、二度とこういうことにならないように皆さんにがんばってほしいと思います。

 私は字も知らないし、うまい話もできませんから、知っていることだけをお話ししました。


南京大虐殺76カ年 証言を聞く2013年東京集会
-- もう二度と虐殺をくりかえさないために --

日時:12月14日(土)午後1時半から5時半
幸存者証言:王津さん(82歳、女性、南京市)

王津さんは1931912日生まれ。その当時からずっと南京中華門外南珍珠巷676号、堀から歩いて23分の所に住んでいる。

19371213日、日本兵が雨花台の方からやって来た。翌日の朝目覚めたら、辺りの様子がすっかり変わっていた。隣近所のおじさんたちが服は焼かれ裸に近い状態で、数人亡くなっているのが見えた。14日の10時ごろ日本軍が再びやって来て、父親と劉志峰おじさんの二人が連行された。後に、劉おじさんから父親が殺された話しを聞いた。一回日本兵に見つかった。強姦の噂もあるから怖かった。まだ30代だった母は私を抱っこして逃げた。肩越しに後ろを見ている私に「日本兵はまだ来ているか?」と聞きながら走って逃げた。その当時中華門では兵隊もたくさんの普通の人も殺されていて、家の近くに在った防空壕も死体がいっぱい詰まっていで、死体収集の時には凄い腐敗の臭いがした。……


講演:山田昭次さん(「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」共同代表)
    『関東大震災時朝鮮人虐殺とその後90年−虐殺の国家責任と民衆責任をめぐって−』
 今年は南京大虐殺から76年目になります。同時に関東大震災から90年目でもあります。
 中国の古都南京を蹂躙した南京大虐殺は、「人類と文明に対する冒涜(ぼうとく)」といわれるすさまじいものでした。南京住民に対する無差別の大虐殺、捕虜の大量虐殺、女性への強姦、略奪と放火、阿鼻叫喚の地獄図が現出したと言われました。
 しかし、日本の歴史における大虐殺は、戦場に出た兵士によってだけではありませんでした。1923年9月、関東大震災時には6000人以上の朝鮮人、700人以上の中国人、そして社会主義者たちが、警察、軍隊、自警団などによって虐殺されました。この日本国内の関東において、民衆の直接の関与による虐殺です。
 明治維新以来の日本の歴史は他民族に対する侵略と虐殺の歴史でした。朝鮮、中国大陸、台湾で万余の虐殺、略奪をくり返しました。また朝鮮植民地支配に対する民衆抗争への血の弾圧がありました。関東大震災のあとには、南京大虐殺を初めとする泥沼の中国侵略戦争です。
 今、安倍政権のもとで、かつての「侵略の歴史」が否定され、「美しい日本」「誇りうる国家」がやたら押し出されています。「平和憲法と基本的人権」もないがしろにされ、憲法改悪・解釈改憲による軍事大国化の動き、教科書への不当な介入、また街頭のヘイトスピーチのような排外主義が強められています。
 関東大震災から90年を迎える今日、もう二度とこのような虐殺をくりかえさないために、南京大虐殺の幸存者から生々しい証言を聞き、関東大震災時の大虐殺に眼を向け、その国家責任、民衆責任を考えることは、ぜひとも必要なことではないでしょうか。


南京大虐殺75カ年 証言を聞く2012年東京集会 --日本はアジアとどう向き合ってきたか
日時:12月16日(日)午後/場所:東京都内 カメリアプラザ(亀戸駅下車すぐ)
映画:「南京−−引き裂かれた記憶」(88分)
証言:夏淑琴さん(当時8歳。9人の家族のうち7人が虐殺された。「まぼろし」派に「ウソ証言」呼ばわりされ、名誉毀損裁判で勝訴。)
講演:「南京大虐殺、そしてサンフランシスコ条約体制--日中国交正常化40周年に考える」田中宏(一橋大学名誉教授・ノーモア南京の会代表)

日中国交回復40周年と妄言-南京大虐殺はなかったという河村名古屋市長発言に思う−(内田雅敏)
ノーモア南京の会 河村たかし名古屋市長の発言に強く抗議し、直ちに撤回を求める
石原都知事の河村発言擁護の妄言(2012年2月24日)に強く抗議する
駐日中国大使館が河村発言に抗議(2012年2月23日)
南京市、名古屋市との交流停止(2012年2月21日)
南京大虐殺遇難同胞記念館の朱成山館長の公開抗議書
日本国愛知県名古屋市長 河村隆之先生:
私は侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館、侵華日軍南京大屠殺史研究会、南京大屠殺幸存者援助協会、南京社会科学院国際和平研究所を代表し、あなたが公職の身でありながら、一度ならずも、二度、三度となく公然と南京大虐殺という歴史事実を否認することに強烈な抗議を表します。


南京大虐殺74ヵ年 証言を聞く東京集会 −3・11後の「日本再生」と南京−
■証言:潘巧英さん(女性・当時8歳、南京市湯山) 「父が殺され、妹も死に至り、伯母、15歳の息子も殺された…」
 講演:費仲興さん(南京大屠殺史研究会理事)「南京陥落直前の湯山での村民虐殺」
■映画:ドキュメンタリー『南京の松村伍長』
■講演:増子義久さん(花巻市議、元朝日新聞記者)「花巻から見える『日本再生』」

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「ノーモア南京」として
 日本帝国主義の中国侵略によって、犠牲になった中国人は2000万人をくだらない。日本軍は中国全土を踏みにじり、中国人民に筆舌に尽くしがたい苦しみをもたらした。1945年の日本の敗戦までに中国全土で日本軍によって組織的に行われた虐殺・暴行事件(惨案)は2300件を超え、そのうち100名以上の犠牲者が出た惨案は390件を超える。その多くは数百名から数千名単位のものである。離散家族は何百万世帯を超え、行方不明になった人の数は計り知れない。「戦争中のことで仕方がない」とは決して言えない。ことは中国で日本軍が起こしたことであり、「ある夜、平和な暮らしをしていた中国人の枕元に日本兵が立っていた」というような事態なのである。南京大虐殺といわれるものはこうした無数の惨案の中のほんの一つの事件でしかない。中国各地に、中国人にとっては,自分自身と家族に関わる、忘れることのできない惨案がたくさんある。中国人にとってはそれらを含めた象徴としての「南京大虐殺」である。私たちは、この歴史に踏まえた時、被害者としての「ノーモアヒロシマ」の前に、上の世代が語らず、私たちが知ろうとして来なかった歴史をとらえかし、「ノーモア南京」を自覚することが必要でしょう。



1.1937〜8年冬、南京で何があったか

1)南京占領まで
 日清戦争(1894年)に始まる日本の中国侵略は、 1937年からの日中戦争で全面的な拡大局面に入った。 7月7日北京郊外ではじまった戦闘(「盧溝橋事件」)を契機にして、日本軍は8月13日には上海へと戦線を拡大した。8月15日には、近衛文麿内閣は「暴支膺懲(暴れる中国を懲らしめる)」声明を出して全面戦争を宣言する。しかし、「簡単に片付く」と思っていた上海では、中国軍の頑強な抵抗に遭遇した。日本軍は予想外の苦戦を強いられたので、新たに、11月杭州湾上陸をもって攻撃を強めた。挟み撃ちにあった中国軍は退却を開始。 これを追って日本の「中支那方面軍」は二度にわたって、軍中央で決定された「制令線」(追撃停止線)を独断で突破し、 首都南京へと追撃を続けた。 中央政府もまた11月20日に宣戦布告もないままに「大本営」 (天皇の下におかれた戦争指揮本部)を設置し、本格的な戦争態勢を固め、12月1日には正式に南京攻略を発令した。8月15日以来、海軍航空隊は南京に無差別爆撃を繰り返し、多数の市民を殺傷した。 これは僅か半年前のゲルニカ空爆にならい、 戦略爆撃の思想を大々的に実行した世界最初の例となった。

地図:上海から南京へ(南京攻略戦経過要図) 無錫許巷惨案
証言:上海市宝山区における被害(1)(2)上海市金山衛における被害

2)南京陥落
 当時の中華民国の首都南京は、城壁に囲まれた美しい古都で、 人口は百万人を超えていた。 日本軍が近づくにつれて首都は重慶に移り、一部の人々は西に避難したが、逃げ遅れた人、 行き場のないひとが、まだ四五十万人残っていた。上海からの避難民もいた。中国軍は南京死守を叫んで十数万人が立てこもるが、 日本軍が城門を突破した12月12日夜には、すでに防衛軍司令部は離脱し、中国軍は完全に抵抗を停止していた。日本軍は南京城を包囲するように南京市街地に攻め込んだ。逃げ場を失った中国軍、中国民衆は揚子江岸に殺到し、その人々に向かって日本軍は対岸から容赦ない機銃掃射を行った。
地図:南京市攻略図

表:南京攻略に参加した日本軍主要部隊
証言:「空爆と機関銃掃射(中華門付近)」「下関での被害」

3)国際安全区
 日本軍の南京攻略が確実になったとき、南京に駐在していた多くの外国人は南京を離れたが、一方とどまった外国人たちは、避難できない貧しい家の女性や子供、その他の市民を保護するために、南京安全区(難民区)国際委員会を結成(委員長ラーベ、合計22人のメンバー)し、11月22日に、「不幸にも戦闘が行われた際の市民の避難場所として安全区」を承認するように申し入れた。安全区は東京の台東区や中央区よりもやや狭い面積に相当する。この地域は、公共の建物が多く、また高級住宅街で住民がすでに避難しており難民を収容するのに便利であるとして選ばれた。安全区への避難のよびかけに、ただちに市民は続々と避難を開始し、金陵大学、金陵女子大学、五台山小学校などの学校施設や政府の建物に(20の難民収容施設に一つの施設に数千から万に近い数が避難)、あるいは留守になった中国人高級官僚たちの邸宅や外国人の邸宅そして空き地や道路に掘っ立て小屋を作って避難した。9日までにすでに十数万人が避難した。最高時には約20万人に達した。しかし、12月13日、日本軍の南京占領以後、安全区内において、莫大な「敗残兵狩り」と称する虐殺、性暴力がくりひろげられた。
地図:南京国際安全区
証言(1)(2)(3)(4)(5)

4)「残敵掃蕩」の実相

 日本軍は南京を占領してから6週間以上にわたり、城内、あるいは城外の農村で、世界に類を見ない野蛮な行為を繰り返した。城内に進撃した日本軍はほとんど組織的な抵抗を受けることはなく、 大量の捕虜を獲得し、これを計画的に殺害した。 また、「便衣兵(制服を着ていない兵隊)狩り」と称して、元兵士や一般市民の男性を無差別に拉致連行して集団虐殺した。 捕虜殺害を戦闘行為であるとしたり、 「便衣兵狩り」を「対ゲリラ戦闘である」というのは、日本軍がもともと「捕虜をとる」という考えのないことの裏返しである。これは 明らかに国際法(ハーグ陸戦法規)違反である。
証言:「日本兵による中国兵の捜索と女性の強姦」「良民検査、虐殺か強制労働か」

5)性暴力
 日本兵は、「便衣兵狩り」や「食糧調達」=財物掠奪の一方で、 「戦利品」探しのように女性を探し、多数の無差別な強姦・殺傷、 あるいはさらにおぞましい変質的性暴力を働いた。被害者の年齢も幼女から老婆に至った。このような行為は戦闘とはなんの関係もなく、 いかにしても正当化できるものではない。 南京安全区国際委員会の報告によれば、12月16日と17日だけで1000人を超える南京の女性が強姦され、さらに全体では2万件以上に達した。性暴力の広汎さと変質性は南京大虐殺を特徴づけるものである。
証言:(1)(2)(3)(4)(5(6)

6)「南京大虐殺」の範囲と規模
 虐殺は南京攻略の途中においてもすでに発生しており、 また翌1938年3月ごろにもまだ続いた。 上海上陸時から放火、虐殺、強姦は始まっているが、南京に限っても場所の広がりは、南京城内だけでなく、近郊農村を含む南京特別区全面にわたっており、 一般市民の被害は郊外の方が甚だしかったともいわれる。南京大虐殺の範囲を、城内だけや陥落後の二三日に限定し、 あるいは旧軍の公式記録だけを数えて、虐殺は少数であったと強弁する説もあるが、 彼等の論理はすでに論破されている。軍関係資料、各兵士の資料は、大部分が敗戦時に証拠隠滅され、 一部はいまも隠匿されている。最近の埋葬記録などの詳細な研究では、 南京大虐殺の犠牲者の数は少なくとも20万あるいは30万とみられる。 しかしながら「30万でなければ大虐殺ではない」かのような議論自体が欺瞞である。1万でも5万でも、非戦闘員である民衆に対する無差別、大量虐殺である。そして、それは三千万人を超える犠牲者を出したアジア太平洋戦争につながる象徴的事件でもあった (ちなみに日本人軍民の死者は約350万人)。

地図:南京行政区概略図
証言:南京市湯山区における被害(1)(2)(3)、「罪もない赤ん坊、子供、女性に日本兵は何をしたか」(農村部)


2.証言

生存者証言
元日本兵の日記、証言
東史郎日記

3.異常な事件はなぜ起こった

1)国際法無視
 日本は、対中国との戦争において国際法を適用せず、従ってすべて「事変」と称して侵略をすすめた。「捕虜」をとるという考えがなく、彼等を虐待し、虐殺してもよいとしていた。 さらに実際に南京攻略時のように大量の捕虜が発生したときには、 自軍の補給でさえもままならない状況のなかで、まして「捕虜を食わす」考えなどなかった。 「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリコレヲ片付クルコト」 (第16師団長、中島今朝吾の陣中日記)と、捕虜虐殺は組織的に実行された。

2)日本軍のなかの頽廃
 日本の軍隊の内部は、 天皇=上官の命令には絶対服従、苛酷で恣意的な懲罰など、抑圧構造が兵士たちを圧迫していた。 このような抑圧構造の最下層にあった兵士たちが、その憤懣をより弱い者、 無力な捕虜や一般市民に向けることになった。また簡単に制圧できると考えていた上海戦の苦戦と大量の戦死から、日本軍は「戦友の仇」を煽り立てた。

3)食糧などの「現地調達」
 日本軍の作戦には、現実的な兵站(へいたん=弾薬・食糧などの補給)の計画が 軽視されていて、弾薬はともかく、食糧は多くを「現地調達」に頼っていた。従って戦闘の合間に、 小部隊単位で民家に入って食糧を「調達=掠奪」せざるをえなくなり、 これが次第にこうじて食糧以外の金品財産を強奪し、拒まれると虐殺し、 あるいはレイプなどの性暴力に及ぶ過程を生んでいった。(この兵站軽視が、 敗戦の前には「名誉の戦死者」の大部分が餓死であったという、 自滅の道に導くことにもなる。)

4)「神国優越―中国人蔑視」の思想
 南京大虐殺のようなすさまじい暴虐行為の根底には、 自国民優越すなわち他民族蔑視の思想が働いていたことを否定できない。日本軍は、もともと初年兵教育として、捕虜の中国人を「刺突訓練」の対象としており、ゲーム感覚で「首切り」を行った。
明治維新以後いちはやく「脱亜入欧」に走った日本は、 近隣諸国を「遅れた国」であり、帝国主義支配の対象であるとのみ考えた。 江戸時代には文化の源泉として崇拝していた中国を、日清戦争に勝ったあとは一転して侮蔑の目で見るようになり、 国民の間に「神州不滅」の優越思想をすり込んだ。

5)日本軍における虐殺の系譜
 日清戦争のなか旅順陥落のときにおこった虐殺事件は、南京大虐殺の原型であり、 さらに南京以降も日中戦争で中国全土にわたって「三光作戦」として広がっていった。


6)戦争を煽った報道
 歴史に見る戦争報道 南京戦を報じた記者たち
 報道にみる南京1937(喚起の日本列島


4.戦争犯罪に対する態度

極東裁判
日本とドイツ どのように過去と向き合ってきたのか
被害と加害の証言から見えてくるもの
歴史教育 南京大虐殺は教科書にどのように書かれたか
南京大虐殺と日本人の精神構造
日本人にとっての戦争責任−東史郎の場合

          (ノーモア南京事務局:参考『南京絵画展』、パンフ『南京・閉ざされた記憶』展図録集ほか)


これまでの東京(横浜)証言集会


南京大虐殺に関する映画
「南京戦―引き裂かれた記憶」
「松村伍長」
プレスリリース
「南京」
「南京!南京!」(陸川監督)「ジョン・ラーベ」(独仏中共同製作)

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