「南京大虐殺、そしてサンフランシスコ条約体制

――日中国交正常化40周年に考える」  田中宏

 

 

「南京大虐殺、そしてサンフランシスコ条約体制」、何でこんな並びになったんだろうと思われるかもしれませんが、南京大虐殺の問題、そしてその後の戦後処理の問題を考えたらどうしてもサンフランシスコ講和条約という日本の戦争の後始末、戦争が終わると条約で戦後処理をする、この戦後処理の基本条約がサンフランシスコで調印されたサンフランシスコ講和条約、正確には「日本国との平和条約」ですが、その条約がいろんな問題とくに歴史の問題を今日に引き起こしているのではないか、そこに大きな原点がある、というわけで「そしてサンフランシスコ条約」としました。

 

まず一つは、レジュメの冒頭に「ポツダム宣言受諾の意味」と書いておきましたが、ご案内のように「日本がポツダム宣言を受諾する」ということでこの前の戦争が終わる、そのことは何を意味していたのかをもう一回振り返ってみる必要があるのではないか。

資料B(34ページ)のところに、「ポツダム宣言」があります。その冒頭に「吾等合衆国大統領ルーズベルト、中華民国政府主席蒋介石及グレートブリテン国総理大臣チャーチル」この3人がポツダムに集まって、「日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ」。日本に今次の戦争を止めさせることについて議論をして、この宣言を出した。日本が受け入れれば戦争が終わる、という仕組みになって、これを日本が受け入れたわけですね。

 

資料の35ページのところにちょっと下線を引いておきましたけれども、第8項のところに「カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルベク」「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」

これがポツダム宣言受諾の意味を考えるときに結構大事なところになるのですね。

カイロ宣言Aは3334ページの上に載っています。34ページに下線を引いた箇所が2カ所あります。上の方は

「満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコト」これが戦争をやっていることの目的の一つとしてある。下の方にもう一カ所下線を引いたカ所があります。

「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムル」

これがカイロ宣言の一部で、これらの条項がきちんと守るということを日本が約束したことになるわけです。

レジュメに5年戦争、15年戦争、50年戦争」という妙なことを書いておきましたが、実は1945815日に終わった戦争は、いつ始まったのか、意外ときちんと議論してこなかったのではないかと私は思います。

15年戦争」という言い方がありますが、「15年戦争」というのは、満州事変が始まった1931年から1945年までということですね。もし「15年戦争」が「815日」に終わったのであれば、台湾も朝鮮も日本の領土のままと言うことになりますね。満州事変より前に日本の領土になったのですから。

わたしは「50年戦争」というあまり聞き慣れない言葉を使ったのですが、これはわたしが新説を唱えているのではなくて、歴史の事実を客観的に考えると、こう考えるしかないと思うのです。

今読み上げたカイロ宣言に、台湾等日本が中国から奪った地域を中国に返還すると謳われています。台湾というのは日清戦争の結果、日本の領土になった地域ですね。日韓併合条約については有効か無効かという議論が賑やかにあるようですが、どうでしょうね。石原慎太郎といえども台湾は下関条約という国際条約によって日本が正当に手に入れた領土だから、今も日本の領土のはずだ、米国如きに原爆を落とされたからと言ってそんなことを遠慮する必要はない、とは言わないですね、なぜか。

 

1894年から半世紀にわたり……」(周恩来挨拶)これは日中共同声明がなされる1972925日に、日本の総理大臣として初めて北京を訪れた田中角栄首相を迎えた、中国の周恩来総理の歓迎レセプションでの挨拶の中の一節です。周恩来総理は1894年から半世紀にわたって日本軍国主義の侵略により中国人民は甚大な被害を被った、こういう挨拶をされたのです。1894年というのは日清戦争が始まった年です。ですからカイロ宣言、ポツダム宣言の認識と周恩来総理の挨拶はぴたっと合ってますね。ですから、数字の語呂合わせのようですが、年数でいえば、「50年戦争」と考えた方が史実にあっているのではないか。

5年戦争」もそこに並べていますが、「5年戦争」というのは、最後の太平洋戦争、最近はアジア太平洋戦争、昔は大東亜戦争と呼ばれましたが、1941128日に、正確にはマレー半島のコタバルに上陸した2時間後に、ハワイ真珠湾に突っ込む、米国及び英国に宣戦布告をするわけです。当時マレーシアは英国の植民地ですから。その戦争がちょうど5年になるので、なんか数字あわせのようですが、50年、15年、5年というふうにおさえておいたほうがいいのではないか。

 次に4つの宣戦布告(日清、日露、第1次/第2次)と国際法遵守」についてですが、33ページの最初の資料@として「4つの宣戦布告」があります。

 戦前の大日本帝国憲法は、第一条が「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」となっていますから、国家主権は天皇が持っている。戦争は天皇しかできない。大日本帝国として公式に戦争するとなると、天皇が「開戦の詔勅」というものを発表して、新聞には枠付きで必ず最後に「御名御璽」となっているものが載る。

 全文はもっと長いのですけれども、資料にはさわりの部分を載せています。日清、日露は明治天皇、第一次世界大戦は大正天皇、第二次世界大戦は昭和天皇ということになります。

 日清戦争のところを見てみますと、えらく堅苦しい文章になっていますが、

「天佑ヲ保全シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国皇帝ハ、忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス 。朕茲ニ清国ニ対シテ戦ヲ宣ス」。いまの学生は「朕(チン)」と言っても誰か分からない。こういうかたちで中国に対して、当時は清国ですが、戦いを宣すわけです。これで日清戦争が始まる。しかし、それに続いて「朕カ百僚有司ハ、宜ク朕カ意ヲ体シ陸上ニ海面ニ清国ニ対シテ交戦ノ事ニ従ヒ、以テ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ 苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ、必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ」

一つだけ条件があるよ、国際法だけはちゃんと守って、それを守る限りにおいて、あとはあらゆる手段方法を尽くして戦争の目的を達成するようにお前ら頑張れよ、と天皇が檄を飛ばすわけですね。そして日本帝国軍は戦争に参加していくという構造になっている。

あとはもう読みませんが、日露戦争は露国に対して、第一次世界大戦は独国に対して宣戦布告する、(2)日露戦争、(3)第一次世界大戦、はいずれも国際法遵守というのを天皇がちゃんと謳っているのです。

ところが昭和天皇の場合は、さきほどコタバル上陸と真珠湾攻撃の話しをしましたが、その宣戦の布告では「米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス」というもので「米国及英国に宣戦布告」ということは書かれていますが、「国際法遵守」という言葉はない。この文章はとても重要な文章で、いくらなんでも、入れるのをちょっと忘れたというようなものではないですね。昭和天皇の宣戦布告にはどこにも「国際法遵守」と書いてないのです。これは非常に重要な意味があるはずです。

 

次にレジュメでは、「満州事変(1931年)、上海事変(1932年)、国際連盟脱退(1933)、支那事変(1937年)、南京大虐殺(1937)」となります。

日本の近代史によると戦争は日清戦争とか日露戦争とかはありますが、あとは「事変」となっています。「満州事変」「支那事変」「上海事変」とかありますが、「事変」とは何でしょうか。なんで「戦争」といわないのか。

その種明かしというか、ごまかしの手口の暴露が資料集の48ページにあります。これは東京裁判の長い判決文のなかの一部ですけれども、

「奉天事件(満洲事変のこと)の勃発から戦争の終りまで、日本の歴代内閣は、中国における敵対行為が戦争であるということを認めるのを拒んだ。かれらは執拗にこれを「事変」と呼んだ。それを口実として、戦争法規はこの敵対行為の遂行には適用されないと軍当局は主張した。」
 これは、東条英機といっしょに死刑になった、陸軍の軍務局長をしていた武藤章が東京裁判の法廷で証言しているのですが、中国との戦争は「戦争」ではない、「事変」だと主張している。戦争になると捕虜を保護するとか、戦争にともなういくつかの約束事を守らなければならない。例えば、闇討ちはいけない、戦争をする時は必ず宣戦布告を公式に相手に伝えなければならない。日清、日露戦争はそうですね。ところが、中国に対しては15年戦争期間、東京裁判は大体15年戦争、1928年位からを対象にしていますが、この期間、一度も宣戦布告をしていない。そして100万からの軍隊を送り込んでいる。ここに大きな問題がある。やや形式的ですが「事変」と「戦争」を日本はきちっと使い分けている。

また「事変」に関して、次のようにも書いています。

「日本政府が中日戦争を公式には「事変」と名づけ、満洲における中国兵を「匪賊」と見做したから、戦闘で捕虜となったものに、捕虜としての資格と権利を与えることを陸軍は拒否した。」

「戦争をしていないから捕虜はいない」、なかなか形式的には理屈は通っている。

ところが、実は、第二次世界大戦になって、「白人の捕虜」をたくさん捕まえて、日本に連れてきて強制労働をさせたりしました。三井炭鉱でアメリカ人の捕虜を酷使したということで、捕虜虐待で戦犯で死刑になった。これが横浜BC級戦犯の第1号です。天皇がヨーロッパに行った時に卵を投げつけられたりいろいろあったのは、白人の捕虜をものすごく虐待したという問題があったからです。それでも一応日本は捕虜については捕虜収容所を作った。ところが途中で東条がただ飯食わすのはもったいないから使おうじゃないか、ということであちこちでこき使って、それが後で問題になるわけです。

 

それから「国際連盟の脱退」というのが1933年です。これも脱退の時の詔書Kが49ページに入っています。

49ページの上の方は、南京大虐殺に関連しますが、1213日南京陥落の翌日に天皇がお褒めの言葉を出したものです。「朕ハ深ク満足ニ思フ 此旨将兵ニ申伝ヘヨ」という、敵の都を取ったから余は満足だというものです。その下に「国際連盟脱退」を載せています。「国際連盟離脱」に際して、天皇が、最後に御名御璽となっている「詔書」を出しています。満洲国を認めないということがきっかけで、例の松岡洋右が席を蹴って脱退するということになるわけです。

こうなってくると15年戦争期というのは、基本的には、満州事変が宣戦布告をせずに行われ、その後、支那事変とか続くわけですが、「国際連盟脱退」を機にいろんな問題が出て来ます。満州事変の後につくった満洲国の作られ方が怪しいのではないか、ということで国際連盟がリットン調査団を作ります。今日本は国際連合の常任理事国になろうとしてなかなかうまくいかないわけですが、当時は第一次世界大戦の戦勝国として国際連盟の常任理事国ですから、はぶりがいいわけですが、それでも、満洲国はちょっとおかしいのではないかということになって、リットン調査団が出来て、現地調査し日本にも来て、報告書を出し、日本に撤兵を求めるのですが、日本側がいうことをきかない。

ここで、日本は、欧米とは倶(とも)に天を戴(いただ)かず、という決断をすることになるわけです。ちょうどこの1933年の1月にドイツではヒットラー内閣が発足、3月の選挙でナチ党が第1党になり、ナチドイツが始まります。リットン調査団の報告書が採択されたときは、日本以外は皆賛成ですが、そのうちドイツも国際連盟を脱退して、日独伊三国同盟を作って、われら別世界、我らにこそ正義ありということになって、世界を二分することになります。そうすると英米如きがつくった国際法なんぞは、連中のものではあるかもしれないけれども、我々は別の思想と哲学とビジョンをもっているので、そういうものに従わない、それは国際連盟を出ることによって、日独伊同盟によって、こういう世界観が確立していきます。

そうなってくると南京大虐殺があろうが、フィリピンにおけるバターン死の行進があろうが、クワイ河マーチで有名な死の鉄道Death Railwayといわれた、たくさんの捕虜を使った泰緬鉄道の突貫工事、シンガポールの華僑虐殺等、今いろんなかたちで歴史上の日本側の出来事として国際社会で批判を受けている事柄が、いわゆる国際法とは別の世界のできごととされてしまいます。これらは、国際連盟の脱退したあとの時期になるのです。

 

レジュメのその次に「俘虜処遇の二重基準」と書いておきました。

 捕虜を大切にするということでは、45年前に松平健が主演をした「バルトの楽園」という映画がひと頃話題になりましたが、これは四国の徳島にある板東俘虜収容所の話しで、所長を松平健が演じたのです。そこは第一次世界大戦の時に山東半島で捕獲したドイツ兵捕虜をいかに日本が丁重に扱ったかという映画です。日本においてベートーベンの「第九」が初めて演奏されたのは、実は上野の音楽学校ではなくて、ドイツ兵捕虜が徳島の板東俘虜収容所の中で演奏したのが第一号だというものです、これは事実ですね。「教科書が教えない歴史」とかいう自由主義史観の連中は、「第九の美談」だともちあげる、日本はずっと国際法を守ってやってきた、日本は何も悪いことをしていないというわけです。

日露戦争の時のロシア兵の捕虜については、日本が捕虜を預かっていた間に亡くなった人のお墓が松山にきれいに整備されていて、私は何かの用で行った時に見たことがあります。そこで、日にちは忘れましたが1年に一回、ロシア大使館の人が来てちゃんと慰霊祭をやっています。松山には例の道後温泉がありますから、そこでゆっくり捕虜として厚遇したというものです。『マツヤマの記憶日露戦争100年とロシア兵捕虜』という本も松山大学編で出ています。

これはさきほどの天皇の「開戦の詔勅」がそれなりに守られてきたといえます。自由主義史観の人が「第九の美談」を持ち上げるのはいいのですが、その同じ日本軍がなぜ第二次世界大戦ではそういうことをしなかったのかを言わないのですね。そこがうまいところです。そして板東俘虜収容所の話しだけが美談として持ち上げられる。「ドイツ館」という記念館が鳴門市にあります。バックミュージックに第九が流れ、指揮者の指揮棒が動くジオラマがあります。そしてドイツ兵俘虜の作っためがね橋などの資料が展示され、いかに国際法を守って敵の捕虜を日本は大切にしたかという立派な美談の場としてつくられています。

その同じ日本軍が何で、満州事変、国際連盟脱退あたりから、連中とは世界が違うというふうにどんどんなっていくのが問題です。

 

レジュメのそのあとに、「華人労務者」か「俘虜」か、と書いています。

これは私もちょっと関わっている花岡関係に関してですが、資料48ページの東京裁判の判決文の最後の方に次のようにあります。

「捕えられた中国人の多数は拷問され、虐殺され、日本軍のために働く労働隊に編入され、または日本によって中国の征服地域に樹立された傀儡政府のために働く軍隊に編制された。
 これらの軍隊に勤めることを拒んだ捕虜のある者は、日本の軍需産業の労働力不足を緩和するために、日本に送られた。本州の西北海岸にある秋田の収容所では、このようにして輸送された中国人の一団九百八十一名のうち、四百十八名が飢餓、拷問または注意の不行届のために死亡した。」

これは花岡事件のことを言っているのですね。ここでも捕虜ではないと言ってごまかしている。ちょっとレジュメに戻ってもらいますが、日本に連れてこられた986人が労務者なのか俘虜なのかということです。この前亡くなられた大隊長の耿諄さんは洛陽戦線で日本兵に捕まった捕虜ですね。ところが日本は中国と戦争をしていないことになっていますから、捕虜を保護することをしないで、日本に連れてきて花岡で労働に供させる。

これを決める東条内閣の閣議決定のタイトルは「華人労務者内地移入ニ関スル件」となっています。「華人労務者」なんですね。

花岡の場合は中国人強制連行の中で数少ないBC級戦犯に問われています。大阪築港の事件とこの秋田花岡だけです。BC級で裁かれて日本側は3人死刑判決が出るんですが、結局減刑されて死刑は執行されなかったのです。その時に、連合国はBC級裁判を続けるために23人を証人として残すわけですが、その中の1人にもう亡くなられましたが、李克金さんという方がいます。裁判は194831日に判決が出て終わり、その後証人として残された人たちは中国に帰るわけですが、その帰る時に連合国が李克金さんのために用意した証明書がたまたま李克金さんの手元に残っていた。秋田の大館にある記念館にはそれが飾ってあります。それには英文と中文で「捕虜」であることが明確に書かれています。 英文ではP.O.Wprisoners of war)、中文では、戦俘(戦争俘

 

虜)です。連合国の方は李克金さんは捕虜だと認めているのです。当時は旅券もなにもありませんから、この人は捕虜なので帰国の時にいろいろ面倒を見て欲しいという身分証明書となります。たまたまご本人がそれを残していてご本人からわれわれがみせてもらって、それを大館に飾ってあります。

日本側は「華人労務者」です。しかし連合国の側は「捕虜」として扱っています。ついでにいうと戦後外務省が「華人労務者就労事情調査報告書」を出します。東条内閣も戦後の外務省も、「華人労務者」という扱いです。「戦争」ではなくて「事変」だ、「捕虜はいない」という考えが戦後まで繋がっているということです。そんなごまかしがあるというのを言いたい。


次にレジュメの第2の「サンフランシスコ平和条約」に入ります。

 195198日にサンフランシスコで調印されたサンフランシスコ講和条約、当事国になったのは48カ国です。あまり知られていないのですが、この時に日本国政府の「宣言」Dというのがあります。これは資料の3738ページです。これは大きな六法全書にも載せていない。これを載せていない六法全書は出来が悪い。なぜかというと、極めて大切なことなのです。

37ページの終わりのところに「本日署名された平和条約に関して,日本国政府は,次の宣言を行う。」とあります。全文は長いのですが、興味のある方はごらんいただきたい。

38ページを見てください。上の方に「2」として次のようにあります。

「2 日本国政府は,実行可能な最短期間内に,且つ,平和条約の最初の効力発生の後一年以内に,次の国際文書に正式に加入する意思を有する。」

 今日平和条約に調印できたので、日本政府はちゃんと次のことを守ります、条約を発効してから、1年以内にこの文書に加入する、しかしそれは国会で批准を得ないとできないことなのです。それを予め国際社会に約束していないとやばいことがいろいろあったのです。そのなかの一つが、 (9)「戦争犠牲者の保護に関するジュネーヴ諸条約」です。この中の非常に重要な条約の一つが「捕虜をきちんと扱う」というものです。

日本はさんざんなことをやったので、戦後はもうそういったことはやりません、そのことを約束するために、これらの条約は、講和条約が出来て1年以内に必ず入りますから、戦前のことはともかく、今後はちゃんとまじめにやりますからよろしく、という挨拶です。

 ところが考えてみたら大変なことです。国会で批准を受けないと条約に加入できないんですね。ところが、政府が1年以内にやるということを国際社会に約束しなければならないほどまずいことをやっていたことの証明です。これはあまり国際法の教科書などには書いてないんですが結構大事なことです。

 

レジュメにもどって、問題のサンフランシスコ条約に「中国、朝鮮は招請されていない」のです。1951年段階では、朝鮮半島は実は朝鮮戦争の真っ最中です。506月から537月まではまさに「熱い戦争」が行われているわけです。そして中国については、英国は多分香港の関係もあったんでしょうが、早々と中華人民共和国を承認するのですね。ところが米国は蒋介石をずっと承認し続ける。サンフランシスコに呼ぶということについて英国と米国と意見が真っ向から対立する。いまは英国は斜陽化していますが、当時英国はまだ英連邦を率いていて国際社会に大きな影響力をもっていました。結局、喧嘩両成敗で、米国が呼びたい蒋介石も、英国が呼びたい北京もどっちも呼ばないということで終わった。

その時出した「周恩来の声明」Eというものを3839ページに入れておきましたから、後で見てください。

その39ページの第3パラグラフに、「連合国宣言は、単独で講和してはならないと規定している」とあります。「連合国宣言」というのは、194112月から戦争が始まっているわけですが、その相手国である連合国が19421月に出した連合国宣言というのがあるのです。連合国が束になって戦争しているわけですから、その中でどこかだけで抜き打ち的に相手国と講和を結ぶことをしてはならないとちゃんと規定している。

周恩来は、中国などを除いて講和をするのは、そういう約束に反していると指摘していることを紹介しておきます。これはサンフランシスコ講和条約のもっている非常に大きな欠点、欠陥を見事についた周恩来声明だと思います。

 

そして「サ条約(1951)、日華平和条約(1952)、日ソ共同宣言(1956)、日韓基本条約(1965)」次の行の「/日中共同声明(1972)、日朝平壌宣言(2002)」ということになります。

これは戦後処理に関する重要な条約で、結局サ条約というのは中国、朝鮮を呼びませんでしたので戦後処理が片付かない、それで2国間でやるしかない、それで最初にやったのが日華平和条約、これは台湾とやるわけです。その次が日ソ共同宣言、ソ連は来たけれども講和条約への調印を拒否しましたから。朝鮮半島はまったくそれに入ってないので、日韓基本条約を結びます。その次のところで斜線を引いたのは、ここまでの4つの戦後処理条約には歴史認識に関する文言がまったくありません。しかし日中共同声明ではそれが明確に謳われているからです。

資料の44ページから47ページにかけて、日中共同声明とその関係文書を載せています。44ページに「日中共同声明」があり、下線つきで次の文章があります。

日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」

国際文書のなかにこういう文言がきちっと入ったのは初めてです。それ以前の戦後処理条約のなかには、いっさいこういう歴史認識に関する文言はありません。

資料には入れていませんが、いまから10年前に結ばれた「日朝平壌宣言」のなかにも同じような歴史認識を示す文言がきちっと入っています。

 

さて、レジュメに戻って、右の方に手書きのチャートがあります。

カイロ宣言ポツダム宣言というのは、特に分裂は起きていません。しかし、サ条約になると、中国は外れる、朝鮮半島も外れる。サ条約と繋がる形で、日華平和条約日韓基本条約というのが出来てきます。

例えば、39ページから日華平和条約Fを載せていますが、40ページの一番上に、「日本国は、千九百五十一年九月八日にアメリカ合衆国のサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約(以下「サン・フランシスコ条約」という。)第二条に基き、」とサ条約を受けてこの条約が結ばれているわけです。サ条約を引用しているわけです。

ところが日中共同声明には、「サ条約」という言葉は、まったくありません。

また、賠償問題についても、「日華平和条約」は条約そのもののなかでは何も触れていませんが、「日華平和条約議定書」の中で次のように書いています。

「中華民国は、日本国民に対する寛厚と善意の表徴として、サン・フランシスコ条約第十四条(a)1に基き日本国が提供すべき役務の利益を自発的に放棄する。」何か難しいいいまわしですが、簡単に言えば賠償を放棄するということです。ここでも「サンフランシスコ条約に基づき」となっているのです。

ところが、日中共同声明のなかには、先ほどの周恩来声明の立場がありますからサ条約は出てこない。日中共同声明でもう一つ重要な問題は、第3項に「ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」とあります。ポツダム宣言第八項というのは「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベクですね。日中共同声明ではポツダム宣言は引用されています。それはカイロ宣言−ポツダム宣言という流れです。しかし、日中共同声明はサ条約をまったくスキップしているわけです。

そこで手書きのチャートでは、ポツダム宣言からストレートに日中共同声明が出て来ています。日華平和条約は、サ条約を引用している、サ条約にぶら下がっている、サ条約と一体になっているということです。ここに歴史認識の問題や日米安保問題という問題が出て来ます。

サ条約というのは、今日はここには書きませんでしたが、ご案内のように「日米安保条約」とセットです。サ条約が効力を発する日に日米安保条約が効力を発するわけです。普通だとサ条約が効力を発すると日本は独立国になりますから、外国の軍隊は日本には居られない。何で米軍がいるかというとサ条約とセットで結ばれた日米安保条約がサ条約と同じ日に効力を発するから、米国は引き続き日本に軍隊をおくことができる。

サ条約体制というのは日米安保体制と裏表の関係にあるわけです。そのことはおさえておく必要がある。

 

次に、「3.問われる歴史認識」に関してです。

歴史認識の問題は、いつ頃から、どう考えたらいいのか、いろいろ意見はあると思いますが、私はそこに教科書問題(1982)」と冒頭にもってきましたが、むしろ「中曽根の靖国公式参拝とワイツゼッカー演説(1985」というのが重要な時点になると思います。

さきほど南京記念館の李雪晴さんが、お話しされたので、お気づきになった方もあると思いますが、南京記念館がオープンしたのは1985815日その日です。その日に中曽根首相が靖国に参拝した。日本の外務省がいかにだめかというのは、記念館に行かれた方はよくご存じだと思いますが、記念館というのは小さな祠ではないのですね。

今はとても大きな施設ですが、一番最初に出来た時でさえ小さなものではない。しかも「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」という館名はケ小平の字で書いてあります。当時ケ小平は中国のナンバーワンですから。日本の外務省がどうしてだめかというのは、815日にオープニングをするということは、前から建設が始まっているわけですよ、それが南京大虐殺の問題について出来る記念館だ、南京大虐殺というのは日中関係の中でどういう位置づけになるのか、中曽根首相の靖国参拝の前に考えるべきですよ。だったら、記念館ができたというのは一体いつ日本の外務省が知ったのか。そのことを外務省が官邸に上げたのか、上げたけれども中曽根が無視したのか。

ジャーナリストもなさけない。前に知らなかったとしたら、後で検証したらいい。記念館が出来たとしたら、外務省はいつ知ったのか、官邸にはいつ誰が上げたのか。しかもその前に教科書問題があるのです。

 私は、もう亡くなられた南京大学の高興祖さんと話したことが、印象に残っていますが、それは、南京記念館を何で作ることにしたのかというと、教科書問題があるからだということです。87年に韓国に「独立記念館」ができます。それもどでかい施設です。そこのパンフレットのなかに「日本が歴史の改竄(ざん)をするので、この記念館を作ることにした」とちゃんと書いてあります。日本語だけではなくて英語とフランス語とスペイン語で。

しかも85年は、「過去に目を閉ざすものは、現在を見ることができなくなる」という有名なワイツゼッカー演説があります。これは、58日、当時西ドイツの連邦議会での演説です。中曽根首相が靖国参拝したのは、その後の815日です。ワイツゼッカーが戒めたのは、中曽根のようなことをやってはいけないと、予告したようなものです。「過去に目を閉ざすと、今のことが分からなくなる」、その見本が中曽根首相です。

 

次に歴史認識を考える上で重要な年が1989という年です。正月早々、昭和天皇が死んで、「昭和」から「平成」に代わる。「6・4」に天安門事件。この年の暮れに花岡連誼会の準備会から、謝罪・記念館の建設・補償の3項目を要求する「公開書函」が鹿島建設に送られる。また東西冷戦の象徴である、ベルリンの壁が11月に崩壊し、翌年、東西ドイツが統一されるという年です。

その後に「ソウルでの話(1990)」とありますが、これは個人的な経験ですが、私は908月にソウル龍山の「太平洋戦争犠牲者遺族会」の本部を訪ねたことがあります。韓国のことは余り分かってなかったのですが、多少戦後補償関係に関わっていたので、事務局長の梁順任さんに、この会はいつできたのですかと聞いたら、1973年にできた、しかし自分たちが何か行動を起こそうとすると、必ずKCIAが来て幹部を引っ張っていくとかで一切対外的な活動は認めない、だから内々で戦争の時に連れて行かれて消息不明の父親の情報を集めるとかの活動をずっとやってきた、ということです。

なんで73年に出来たのですかと聞いたら、日韓条約で無償3億ドルが韓国側に10年の年賦で払われるのに、犠牲者の所にほとんど来ない。浦項製鉄所とか経済建設に使われるだけというのはおかしいのではないかと、クレームを出そうということで作った。しかし、ほとんど動けなかった。私たちが声を挙げることができたのは1987年の「民主化宣言」以後だ、ということです。88年がソウルオリンピックです。

90年には、訪日した盧泰愚大統領を迎える晩餐会で、今の天皇が「わが国によってもたらされたこの不幸な時期に,貴国の人々が味わわれた苦しみを思い,私は痛惜の念を禁じえません」と初めて責任の所在と反省の言葉を使った。その前の昭和天皇の時は、「両国の間に不幸な過去が存した」と降って沸いた出来事のようなことを言っていた。

こうしてみると、90年以前は、中国にしても、韓国にしても、被害者の声を外に向かって発信することはできなかったということです。中国からも前の年の12月に花岡の公開書函が出ています。

人によっては、「日本は最近金持ちになったから、たかりに出ている」という人がいます。90年ぐらいまでは独裁政権が一切声を封印してくれていたのです。90年ぐらいまでは日本に矢が飛んで来なかった。東西冷戦の崩壊以降ようやく当事者が日本に来て訴えることができるようになった。例えば、今日、夏淑琴さんが証言をされましたが、90年まではそんなことはできっこない。

それは、あのサンフランシスコ条約の体制というのが、完全にアジアを外した形で出来ていたからです。日本人の意識も経済成長してどんどん大国意識が出てくる。

尖閣の問題についても、単純なことで忘れてはいけないことは、尖閣の編入の閣議決定というのは日清戦争の最中(1895.1)だということです。竹島の編入は日露戦争の最中(1905.1)です。日清戦争というのは朝鮮半島の覇権を日本と清国のどちらが取るかということで、日本が勝って日本に編入した。そしたら今度はロシアが出てくるから、ロシアと戦争して勝利して竹島を編入する。清国も追っ払った、ロシアも追っ払ったので、あとは心おきなく韓国を日本のものにする、簡単に言えば、そういう筋書きですから。日露戦争の最中に竹島を編入するというのも、ある意味では自然な流れであり、逆に相手側から見ると侵略の一部だと見られるのは避けられない。私は評価は一切しませんが、そのことだけは頭に置いておかなくてはいけない。

 

次は1960年代の変化」です。やや私的なところもありますが、私はあちこちで言ったり書いたりしてきたのですが、「1963.11、千円札に伊藤博文」とあります。私はこの前の年に、今もありますが、東京駒込の「アジア文化会館」というところでアジアの留学生の民間世話団体で仕事を始めました。ここに10年居たんですが、この10年が人生を決めたかなと思います。63年というのは、入ってすぐのことです。

当時韓国とはまだ外交関係ありません。もちろん中国ともありません。当時来ていたアジアの留学生は、台湾、香港、東南アジアです。今と全く違います。東南アジアから来ていた華僑の、華人系の留学生が、「田中さん、日本人は歴史についてどういう勉強をしているの。今度千円札に伊藤博文が出て来たけれど、あの人は朝鮮民族の恨みをかってハルビンで殺された人でしょう。戦前の日本はともかく、これだけ民主主義になった日本で何でそんな人を持ち出すの、しかも日頃から厳しく政府を批判する文化人知識人はあまたいるけれども、誰一人としてこのことを指摘しない。我々と同じように外国人登録証をもって歩かないといけない最大の外国人は朝鮮人でしょう、彼ら毎日の買い物で千円札で買い物をするんじゃない。あなたたちはずいぶん残酷なことを平気でやるのですね」といわれたことがある。

私は何かの時に教科書問題を20年前倒しで経験したと書いたことがある。当時63年です。いわゆる教科書問題は82年ですから。この時に歴史認識、歴史とどう向き合うのか身にしみて感じました。

そういうこともあって、当時のことをちょっと調べてみたことを下に並べています。

毎年815日になると、昔は日比谷公会堂、今は武道館でやっている「全国戦没者追悼式」があります。天皇皇后が出て三権の長が参加して、甲子園で野球をやっていてもサイレンを鳴らして黙祷する、これは実は1963年の815日からです。それ以前はやっていません。それから東京オリンピック(1964)、これに関連して東海道新幹線ができるとか東京モノレールができるとか、東名がちょっと遅れるけれども、名神はもうできていた。そして林房雄の「大東亜戦争肯定論」(中公1963.91965.6)、最近ではあまり珍しくないですが、当時「大東亜戦争」という言葉が出て来たのは驚天動地、天下の『中央公論』に1年以上にわたって連載されるのです。

そして「日本遺族会の変質」と書いておきました。19645月から、月刊で出ている遺族会の会報の題字の下に囲みで入っている「本会の目的」という中の「戦争の防止、世界恒久平和の確立、全人類の福祉」の3つが消えて、「英霊の顕彰」が登場するのです。そしてその時、1面トップ記事が「靖国神社の国家護持」です。

60年代の高度成長期に、歴史にどう向き合うかということについて、非常に大きな変化が生じ、それがずっと亀裂となり、それがいまだに尾を引いている。

 

戦後補償問題では、日系人強制収容問題(198390)。米国は日本に戦争で勝った方ですが、日系人に関してはちゃんと歴史の清算をしなければならないということで、大統領の謝罪の手紙と2万ドルを出すということを決めた。実はこの2万ドルというのは「慰安婦」の時の200万円、台湾人元日本兵の補償(7488)における200万円になるのです。同じ事はカナダもやりました。

シベリア抑留というのは、すごく頭に来る、憎きソ連という時の象徴だと思いますが、ゴルバチョフ大統領は1991年に来日する時、ハバロフスクで飛行機を降りて日本人抑留者のお墓に献花をしてから来ました。

さて、日本の総理大臣がそういう所に行ったことがありますか。たとえば、ソウルにのパゴダ公園に行って3・1独立運動のレリーフに、あるいはシンガポールに行って血債の塔(日本占領時期死難人民記念碑)に献花したことがありますか。

こういうことを考えると、我々が歴史にどう関わるのかという時、重要な問題を抱えているのではないか、どうもこのサ条約の二つの亀裂がずっと尾を引いているのではないかということを提起したい。

 

もう一つ、日中のことについて追加しておきたい。「中国は賠償放棄したから賠償問題は解決済み」ということはよく言われるわけですが、あまり議論されず、ほとんど知られていないので、その問題についてです。

資料45ページから47ページにかけて、日中共同声明に関係する、日本側、中国側の声明案のやりとりを載せています。

1972926日の第1回外相会談で日本側から中国側に出された案文には、「7 中華人民共和国政府は、日中両国国民の友好のため、日本国に対し、両国間の戦争に関連したいかなる賠償の請求も行わないことを宣言する。」となっていて、わざわざ日本側が「いかなる」を入れたのですが、残念ながらできあがった共同声明文にはこれが入ってないのです。「いかなる」というのは、あれもこれも全部、一切合切これでもう後はないですよという意味で外務省がわざわざ入れたのですが、それが通らなかったということです。

その前に条約局長が中国側に説明する文章がありますが、中国側が出した案を見ながら日本側が用意した案で、わざわざ「いかなる」を入れたのだけれど、できあがったものにはそれが入っていなかった。やっぱり被害国と日本とでは違うのです。

やっぱり「賠償放棄したからみんな終わった」というのはあまりにも乱暴です。

メディアも少しそういうことを書いてくれるといいのですが、公開された外交文書は出ているのだから。

 

質問:賠償問題に関して、日清戦争の時の下関条約の賠償金の返還については。

田中:ポツダム宣言(カイロ宣言)で、下関条約で盗取した領土を返還せよという取り決めはありますが、下関条約の時に日本がとった賠償金を返せという話しは今まで出て来ていないと思います。

 

質問:「日本の独立」について

田中:私は、戦後史のなかで一番重要な日を一日選べと言われると、1952428日を選ぶと思います。この日を沖縄の人は絶対忘れない。この日を限りに「本土」は独立する。沖縄は、この日を限りに、米国の支配下に取り残される。軍事基地の問題も残る。旧植民地出身者の人も忘れないと思います。旧植民地出身者が、外国人として日本国籍がないというふうに最終的に扱われることになった日です。この日に出来た法律が外国人登録法でそこに指紋押捺義務が初めて登場する。

教科書にどう扱われているか知りませんが、もっと重要な日として記憶されるべきだと思います。

質問:最高裁は、2007427日の西松建設の判決で、サ条約の48カ国との対日講和をもって日本は独立したと言っており、日本政府もそう言っているのですが、サ条約の連合国とカイロ宣言の連合国は違う。だから、サ条約では、米国との関係では独立は認められるけれども、中国との関係では認められない、と思います。

田中:そうですね。

 

 

(これは、2012年南京証言集会(20121216日)講演記録です。これに付随する資料編がありますが割愛しております。)