福沢諭吉のアジア認識

安川 寿之輔


 2001年5月21日、亀戸文化センターで開催されたノーモア南京の会第四回総会において、安川寿之輔名古屋大学名誉教授による掲題の特別講演が行われました。南京大虐殺のような悲劇的事件が起きた原因として、日本軍の非人間的な体質、大義のない開戦、司令官の独断による無計画な進軍、軍紀の乱れ、などが指摘されています。このような軍隊に関わる諸要因に加えて、いわれのない中国人への蔑視感が日本人の意識に根強くあったことが、数々の残虐行為を可能にしたことも指摘されています。安川先生は近著『福沢諭吉のアジア認識 近代史像をとらえ返す』(2000年、高文研)で日本のアジア侵略に福沢諭吉が果たした先導的な役割を実証的に明らかにしました。本講演は既存の福沢諭吉のイメージを覆し、南京大虐殺に繋がる日本人のアジア蔑視観の形成と特質を理解する上で大変貴重なお話でありました。(なお本講演全体の記録は『ノーモア南京 2000年東京集会 報告集』に収載されます。)


1.戦後福沢諭吉研究のいい加減さ−「民主主義の先駆者」の虚像

 1万円札の肖像、慶應義塾の創設者、『学問のすすめ』の著者、福沢諭吉は前向きのイメージで見られ、国民作家、司馬遼太郎の「明るい明治」の歴史観とも重ね合わせて、偉大な啓蒙思想家として教えられています。しかし、アジア諸国からは侵略主義者とみられ、たとえば台湾では「最も憎むべき民族の敵」と呼ばれているのも事実です。実は、民主的啓蒙思想家のイメージは、丸山眞男ら戦後の民主主義を追求をした学者たちが、福沢諭吉全集から自説に都合のいいところを、福沢の文脈とは無関係に抜き出して作り上げた虚像なのです。たとえば、丸山さんは福沢の天皇制論を「天皇は政治に関与してはならないと主張し、生涯それを貫いた」と述べましたが、福沢は朝鮮の甲申政変の時は天皇の「御親征」を主張、日清戦争の時は大本営を旅順に移し天皇の「海外出陣」さえ要求したのです。天皇は「正宗の銘刀」であるから「深く鞘に収め」と言ったのは、抜きっぱなしでは効用がないから日常的には政治に関与すべきでないという意味でした。また、『学問のすすめ』の「一身独立して一国独立する」は、「個人の自由が確立しなければ国の独立はない」と解釈されましたが、これは福沢研究史上最大の誤読です。理想はそうだが、国の独立が最優先課題であるから民衆の自由の確立は「他日為す所あらん」、すぐにはできないと言ったのであり、やがて「自由民権運動」に出合うと「一身独立」は放り投げ、逆に封建的な制度を擁護する側に回ったのです。さらに、福沢は無神論者でしたが、民衆に対する啓蒙を放棄するや、「馬鹿と片輪に宗教、丁度良き取り合わせ」、すなわち民衆の支配には宗教が有効だとして、「経世の要具」としての宗教の必要性を100編以上の論説で主張したのです。丸山さんは福沢を「原理原則がある哲学をもった思想家」と最大限に持ち上げましたが、上の例から福沢は原理原則に筋を通す思想家などではないことがわかります。
 なぜこのようないい加減な福沢研究が学問の名の下にまかり通ったのか。それは戦後の研究者たちが、民主主義の追求に目を奪われて、昨日まで続いていた日本の侵略戦争、植民地支配の責任を放置し、日本にも「明るい明治」期には福沢のような先駆者がいたのだと、福沢を民主主義のチャンピオンに仕立てたのです。戦後の学問のいいかげんさは戦争責任を忘却したことの結果であり、その罪は重いと言わねばなりません。

2.福沢諭吉の国際関係認識−侵略路線への逸脱

 福沢の幕末維新期の国際関係認識は「国家平等観」に立脚していたというのが定説ですが、これは丸山さんらが、福沢が建て前論として言った部分のみを取り上げて導いた結論です。福沢は国際関係を「傍若無人」、「切り捨て御免」、「無情残酷」、「パワーイズライト」と認識していました。また同じ時期の、「台湾出兵」について「こんなにお祝いすべきことはない」、「そもそも戦争は国の栄辱の関する所、国権の由て盛衰の致す所」と述べ、「江華島事件」では「小野蛮国」の朝鮮が「来朝し、我が属国になるも我の悦ぶに足らず」と述べました。先行の研究者たちは、こういった不都合な記述を全く取り上げることなく「国家平等論者」だと結論したのです。
 福沢は国際帝国主義の時代状況を「弱肉強食」の関係だと認識すると、『文明論之概略』の中で、自国の独立確保を至上最優先の課題に設定し、『学問のすすめ』の中では「一国独立」は「国の為には財を失うのみならず、一命を擲ても惜しむに足ら」ない「報国の大義」だと書きました。上述したように丸山さんらは「一身独立して一国独立する」を読み間違えたのです。さらに国の独立確保を最優先するためには「…、君臣の義、先祖の由緒、上下の名分、本末の差別のごとき…文明の方便」であるから積極的に活用しなければならないと、日本の近代が封建的なさまざまなものを取り組んでいく道を提示したことも極めて重要です。
 中期以降、先進資本主義国が社会主義や労働運動に直面し、「狼狽して方向に迷う」という現実認識が加わると、「富国強兵」ではだめで「強兵富国」でなければならないと唱え、「軍備拡大」、「対外侵略」路線へと踏み出して行きました。そして歴史的現実主義という名の「清濁併呑」路線、すなわち「世の中そんなに急に変わらないから、民衆があほなら民衆のあほに依拠してやっていく」、また「権謀術数」的な「内危外競」路線へと傾斜していきました。何よりも見事なのは、天皇制を「愚民を籠絡する詐術」、馬鹿な国民をたぶらかす政治装置だ、と見抜いたことです。その一方で、軽率にも日本人は「完全な文明開化人」になったという宣言をし、「文明史観」の下での対外侵略の合理化を行い、同時代人から「法螺を福沢、嘘を諭吉」と非難されました。元外交官の吉岡弘毅からは、「我が日本をして強盗国に変ぜしめんと謀る」道のりは「不可救の災禍を将来に遺せん事必せり」と厳しくも適切な批判を受けたのです。

3.日清戦争と福沢諭吉

 この時期、朝鮮の背後には中国がいるという理由で、一気に北京攻略まで要求し、あまりに激烈な開戦論のために、『時事新報』の福沢の社説は2度検閲で削除され、さらに『時事』は発行停止処分まで受けました。リベラルなイメージから良識派と考えられがちですが、実像は明治政府を戦争へと誘導、先導する立場だったのです。
 「日本は日清戦争を経ずに近代化の路線を歩むことはできなかったか?」というのは大変に重要なテーマです。実は、当時の権力中枢、山縣有朋や井上毀らは、直接朝鮮半島を支配する野望は持っていたけれども、国際関係等からいきなりは無理であろうから、暴力的にではあってもスイスのように「永世中立国」にすれば、朝鮮を中国の支配からは離脱させられるという考え方をもっていました。日清戦争開戦1ヶ月前の閣議まで、日本が選びうる3つの選択肢の中には「朝鮮の中立化」は存在していたのです。ところが福沢は日中両国が違いに連携することなど「空想」だと切り捨て、終始一貫、対支強硬論と軍備拡大要求を続けていました。明治政府よりも右よりで開戦へと誘導・先導する立場だったのです。

4.丸ごとのアジア蔑視と『暴虐のすすめ』

 福沢は侵略合理化のために「文明」という言葉を論説で乱舞させました。すなわち他国の「国事を改革」したり「国務の実権」を握ることは内政干渉ではない、「あいつらはばかだから、がつんとやらないとわからないのだ」という厚顔無恥そのものの論理です。同時にアジアへの蔑視・侮蔑・マイナスの評価はこの時期から悪化の一途をたどりました。初期にもアジア蔑視観は出ていますが、たとえば中国の民族的英雄林則除を「アヘンを焼き捨てた、思慮のない短気者」と侮辱したように、個々の政策を批判するだけだったのです。ところがこの時期になると、中国は、朝鮮はと、丸ごと総体的に侮蔑する言葉を垂れ流すようになりました。「朝鮮人…上流は腐儒の巣窟、下流は奴隷の群衆」、「朝鮮は国にして国に非ず」、「朝鮮…人民は牛馬豚犬に異ならず」、「朝鮮人 南洋の土人に譲らず」、朝鮮人は豚や犬だというのです。「支那兵…豚狩りのつもりにて」、「チャンチャン…皆殺しにするは造作もなきこと」、中国人をやっつけることなど簡単なことだとはっきり書いています。後に日本軍はその通りのことをやったわけです。中国人を「チャンコロ」呼ばわりすることを、彼は4回書いています。このような聞くに堪えない侮蔑の言葉を垂れ流すさまは痛々しいとすらいえます。『時事』の『漫言』では兵士に向けて「…目に付く物は分捕り品の他なし、何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚え…一儲け」と戦時国際法が禁止する私有物略奪を呼びかけました。「三光作戦」の勧めです。
 この時期、広島にあった大本営で90回におよぶ御前会議に立った明治天皇を賞賛し、福沢は海外出陣の可能性を提言しました。史実はその4ヶ月後に陸軍内で大本営を旅順に移す案が出て、明治天皇も了解したのですが、知恵者の伊藤博文の反対で流産しました。また「靖国」の思想も先駈けて打ち出していました。「死を鴻毛より軽しと覚悟」する「軍人勅諭」の「大精神」が勝利の「本源」であり、「…益々この精神を養うことこそ護国の要務にして、これを養うには及ぶ限りの栄光を戦死者並びにその遺族に与えて、もって戦場に倒るるの幸福なるを感じせしめるべからず」と書きました。
 「朝鮮王宮占領事件」、「旅順虐殺事件」、「閔后殺害事件」、「台湾征服戦争」など日清戦争の不義・暴虐を象徴する事件について、ジャーナリストとしての福沢は終始隠蔽・擁護・合理化・激励する最悪の戦争報道を行いました。私たち「南京大虐殺」を追求する者にとって重大な意味をもつ「旅順虐殺事件」はアメリカやイギリスの新聞に大きく報道され、何よりも『時事』の特派員報告でも出たのでした。しかし、日本が「文明の戦争」ということで世界に登場しようとしていた時期に、市民を含む2万人近い無抵抗の中国人を殺害したことは、伊藤首相と陸奥外相の判断で不問に付すことになったのです、福沢は虐殺を「実に跡形も無き誤報・虚言」と切り捨て事実隠蔽のお先棒を担いだのです。その「結果、日本軍の軍紀には覆うべからざる汚点を生じ、残虐行為に対する罪悪感は失われ、その後この種の事件を続発させることに」なったと『日清戦争』の藤村道夫は述べています。すなわち「南京大虐殺」にいたる道が敷かれたわけです。

5.「日本の近代化=アジア侵略」の「お師匠様」

 福沢は有名な『自伝』の中で、「明治政府のお師匠様」を自負していましたが、彼は「明治政府」に止まらず、アジア太平洋戦に至る日本の近代化の道の総体にわたる「お師匠様」と位置づけるのが正しいと思います。アジア太平洋戦争の有名なキャッチフレーズ「満蒙は我生命線」は後の外相松岡洋右の演説ですが、その先駈けになったのは福沢の「今、日本島を守るに当たりて最近の防御線は朝鮮地方たるや疑いを入れず」です。これは山縣有朋が同じことを主張するよりも3年早くなされたものでした。日本が大東亜共栄圏の盟主だということも福沢は明確に主張しています。
 家永三郎は名著『太平洋戦争』の中で、「日本の民衆が15年戦争を何故阻止できなかったのか」の重要な要素として「隣接アジア諸民族への謂われのない区別意識」を挙げていますが、この蔑視感の形成の先頭に立ってきたのが福沢だったわけです。そしてこの蔑視感は今の日本の有り様にも繋がっております。自分では「偽りにあらずして何ぞや」と冷静に認識しながら、天皇制を「愚民を籠絡するの詐術」と見抜くと、天皇崇拝は「日本人固有の性」、「一般の臣民…雖も帝室の為とあらば生命を惜しむ者なし」とうそぶくしたたかさを持っていました。その福沢諭吉の力もあって「愚民を籠絡する」天皇制は日の丸・君が代とともに今なお健在です。このしたたかな福沢諭吉にどう対抗し乗り越えるのか、それが私たちの課題として問われています。

6.「一冊の本」が起こした波紋と異例の事件

 私の著書は2000年12月に高文研から第1刷、3500部が出され、2ヶ月後には第2刷が出ることが決まるという好調な売れ行きで、これは出版界でも“事件”だと言われました。多くの新聞・雑誌等がこの本の書評や著者紹介を掲載しましたが、予想もしなかった異例の事件がいくつか起きています。
 まず慶応大学が私を招いて「福沢諭吉の戦争観」のテーマで特別講義を依頼してきました(2000年5月12日、日吉校舎で講義)。慶応は私だけでなく、小田実さんや俵義文さんも招いたのです。また慶応は、創立者である福沢諭吉の信奉者ですら問題だとする「脱亜論」や本題の中で述べた「旅順大虐殺」まで今年の入試に出題したそうで、私は本当に驚きました。慶応は近現代史を重視し、福沢のマイナスの面にもまじめに取り組もうとしているのです。
 新聞の書評・紹介の扱いは概ね冷静に素直な評価をしてくれましたが、予想もしなかったのは『日刊工業新聞』が読書欄の「著者登場」で私の本を紹介したことです。『日刊工業』の記者は私の問いに、「日本の企業もアジアとの和解を考えておかなければならない」と答えました。また保守の大物哲学者でかつての中曽根内閣のブレーン、ものつくり大学の総長である、梅原猛氏が私の本を激賞するという事件もありました。(中日新聞、東京新聞、2000.1.15)。梅原さんは「中国や韓国との友好関係を保つために、福沢の脱亜入欧論は十分に批判されなければならない」と書いています。
「つくる会」教科書の問題に象徴される今の日本の主流の動きに比べれば、これらの事件は異例なのでしょうが、これらは日本に求められる最低限の良識だと思います。これをどこまで拡げていけるかというと、大変厳しい状況ですが、そこにしか日本の未来はないと思います。
  (文責:R.S.)