2. 私たちの求める「森林社会」とは
1) 公共空間としての森林
近年、森林の取り扱いについては、いわゆる林業の不振から、木材生産に代わって森林の多面的な機能とか森林の総合利用という表現がよく使われる。
また、最近グリーンツーリズムやエコツーリズム、あるいはエコミュージアムというものが関心を呼び始めた。これらは、従来の森林を利用した観光のように森林を景観として外から見るというよりは、森林という自然環境あるいは生態系そのものに価値を見いだしたものといえよう。
さらに、森林の生態系としての捉え方においても、単に森林の持つ自然環境としての位置付けだけでなく、人と森林との関わり方そのものへの関心が高まっている。最近林野庁が使い始めた森林環境教育というような視点は、森林の文化的・教育的な活用においては、その対象が自然環境としての森林であっても、そこでの位置付けは社会的なものであり、従来の自然的な森林空間利用から社会的な森林空間利用へと変わりつつあることを示している。
このように、最近の森林の捉え方は、公共的なものとして、あるいは社会的なものとしての性格が強くなってきている。
中でも注目すべきは、森林の持つ二酸化炭素の吸着固定という新しい視点である。これは、市場経済として扱われてきた木材産業それ自体を、地球温暖化防止対策の一環という公共的な性格のものに変えてしまう可能性を持っていることが重要である。
なぜならば、今まで市場経済として扱われてきた木材に公共的な意味付けがなされれば、その他の森林の持つ公益的な機能はすでに公共的なものとして扱われていたことから、森林そのものが公共的な性格のものとして扱われることを容易にするからである。つまり、この時点で、森林という物理的・社会的空間は公共的な空間として位置付けることが可能になり、林業を含め、森林の取り扱い方はまさしく公共空間を構築することを意味するようになるのである。すなわち、森林政策は公共政策そのものになるといえる。
しかしながら、この森林という公共空間は、水源かん養機能とか二酸化炭素の吸着固定といった様々な種類の公共サービスで構成されることになり、それら個別の公共サービスごとに、固有の社会関係が成立する。その社会関係は、森林を仲立ちにして成立する人の生活、権利、義務などといったもので構成されることから、一般的にいわれる「コミュニティ」という社会関係と同様のものを形成しているといえる。すなわち「森林コミュニティ」というべき社会的な関係が成立すると考えられる。
このとき様々な森林の提供する公共サービス(以下「森林公共サービス」という)ごとに形成される様々な「森林コミュニティ」を、その媒体である森林という視点で総体的に捉えた社会を「森林社会」と呼ぼう。私たちは、この「森林社会」という公共空間を、森林所有者、林業関係者、行政、そして市民という様々な人々との協働のもとに再構築しなければならないと考えている。
2) 「森林コミュニティ」の再生
森林の価値は、次の3点に集約することができる。@人間を含むすべての生物にとって欠かすことのできない自然環境。A環境に負担をかけない人間の暮らしを実現する上で重要な木材資源の利用を可能にする基盤。B人間の暮らしに不可欠な文化的装置。そして、これらの価値は、一つの森林が同時に持っていることである。
森林の価値のひとつとして記した文化的装置としての森林とは、何を意味しているのであろうか。私たちはそれを、人間にとって必要な暮らしの文化の源泉という視点からとらえている。すなわちそれは、第一に木に触れ、生活のなかに木を取り入れることによって創造される文化のことであり、第二に森林があることによって実現されている森と川と流域と海の文化のことであり、第三に森林に触れることによって獲得される文化のことである。さらに第四に森林があることによって確立されている山村を中心にする地域の文化があり、第五に、森林を活用するために生まれた技術の文化、第六に、森林のなかで働き、森林にかかわることによって自らの生活を文化的に再確立しようとする、森林ボランティアをはじめとする都市住民の文化もある。これからの時代を考えるならば、第七に、森林を軸にして拡がっていく国際交流の文化も、大きな領域を形成していくことになるだろう。私たちは、このような生活、労働、精神、交流を文化的なものとして創出していくうえでの、欠かすことのできない装置として森林を見ている。この様々な社会的、文化的な関係である「森林コミュニティ」をいかに再生し維持していくのかが問われている。
すなわち私たちは今日、欠かすことのできない環境として、同時に環境に負担をかけない持続可能な資源として、さらに貴重な文化的装置として、また実質的な社会関係として森林をとらえているのである。
この「森林コミュニティ」の形成においては、通常のコミュニティ形成と同様な組織と構成員の関係が求められる。例えば、河川の上下流間における共通課題である水源林の取り扱いについて、森林所有者や上流側のみに決定権や責任があるのではなく、森林を持たない下流側の構成員にもなんらかの関与が認められることが必要であろう。
つまり、下流側の構成員であっても「森林コミュニティ」の一員として山村側と同等の立場で森林の取り扱いの決定の場へ参加できるようにすることが重要であり、それと同時に森林の維持のために応分の責任を負うことが求められる。これにより「森林コミュニティ」への帰属意識が生まれやすくなる。
現実に、都市住民と山村住民が共通のテーマ活動をしている事例や上流域の森林を下流側が所有する事例においては、そのような傾向が見られるものの、コミュニティとしての意識はまだまだ希薄である。
特に、水源地としての森林を下流側が所有することには大きな意味があるが、コミュニティ形成の視点からは、下流側の森林の所有はそれにより森林の整備が推進されることに意味があるのではなく、これにより下流側が「森林コミュニティ」の構成員となることによって初めて意味があると言えよう。
このような見方からすると、最近の不在村森林所有者の増加やその世代交代による森林への関心の低下は山村における「森林コミュニティ」が崩壊しはじめていることを意味しており、これに対して森林組合が不在村森林所有者へ森林施業の働きかけを行っていることは、いわば「森林コミュニティ」の維持作業であると位置付けられる。
本来の「森林コミュニティ」の維持には、森林に興味のない人は手放し、森林に価値を見いだす人が所有するという状況が望ましいが、実際には財産相続により森林への関心の有無にかかわらず所有されることがそれを拒んでいる。今後の方針としては、下流側を含めて、森林に関心のある者への所有の移動を容易にするような取り組みと、その意味での不在村森林所有者への働き掛け、すなわち「森林コミュニティ」への帰属意識の醸成が必要であろう。
また、今後、森林の所有だけでなく、「森林コミュニティ」を構成する要素としての各種のコミュニティ資源としての森林や各種のコミュニティ形成のための様々な手法による取り組みを通して、たとえ下流側の構成員であっても「森林コミュニティ」の一員として山村側と同等の立場で森林の取り扱いの決定の場へ参加できるようにすることが必要であり、上下流の住民による共同作業により森林という公共空間を創造していかなければならない。
3) 森林における地方主権
林業という木材生産活動の低迷を語るときに外材輸入に原因を見つけるのは容易い。外材の輸入が自由化された後は、日本の木材市場は世界の木材市場と直結しており、木材価格だけに注目するのであれば、諸外国の資源状況のみならず、為替レートなどにも大きく影響され、不確実な要素を多く抱え、ほとんど制御不可能であるといわざるを得ない。すなわち、日本の林業は常に世界マーケットに開かれていて、経済としての国境はもはや存在しないのである。そこでの国の役割は大きく減少しているのは明らかである。地域は地域の判断に基づいて行動しなければならない状況になっているのである。
また、林業を含め、森林の取り扱い方はまさしく公共空間を構築することを意味するようになっていることから、森林政策は公共政策そのものになっているといったように、今まで市場経済行為とされてきた林業が公共的な性格も持ってくることからも、公共部門と民間部門が地域レベルにおける森林公共サービスの供給システムにおいて、どういう連携をしなければならないかという視点が重要になってきている。つまり森林公共の供給サービスにおける公共と民間の役割分担が重要になってきているのであり、その際、その担い手を考えるときには、実質的な供給の担い手だけではなく、その制度設計をする専門的な能力をどのように開発し、どのような人々と協力して、どう取り組むかということが、まさに重要になってきているのである。地域のレベルで考えると、住民が主人公であるから、この住民との関係を制度設計を含めて、どう捉えていくかが重要になっていると言える。ここで重要なのは、各地域、各種の森林公共サービスごとに「森林コミュニティ」を形成する上で、住民がその「森林コミュニティ」においてガバナンスの視点をどこまで共有し得ているかというところであり、それにどこまで参加しているかという点であろう。
以上のような状況判断を踏まえて、良好な森林を未来に残していこうとするとき、私たちは次のような森林管理の思想が定着しなければならないと考える。それは、全市民に広く支持されながらも、具体的な森林管理のあり方は、それぞれの地域・流域の自然的な、歴史的・文化的な特徴を生かした、自律的な地域・流域森林管理として実行されていかなければならないということである。
強引な拡大造林や画一的な林道規格、補助事業、営林指導といった地域・流域の特徴を軽視した森林管理の施策は、森林を弱体化させたばかりでなく、農山村地域の人々と森林の結びつきをも後退させ、また、下流域の都市住民がその地域にふさわしいかたちで森づくりにかかわっていく可能性をも閉じさせた。こうしたことは、今日では次第に明らかになってきている。このような現実をみるなら、今日必要なことは、「森林管理の地方分権」を徹底して押しすすめる視点から、国、都道府県、市町村の役割を調整しなおすことであり、「森林管理の地方分権」の主体となることのできる森林組合の育成や新しい地域森林管理システムを創造することであるように思われる。一定の地方分権が実現した今日において、名ばかりの地方分権ではなく、実質的に地方が地方の森林の取扱をきめることができるという実質的な地方主権を実現していくことが必要である。とともにそれは私たちにも課題として投げかけられていることであり、すなわち都市住民の側もまた、日本全体の森林を守るための農山村から都市を含む全市民的な合意、支援の確立と、都道府県単位での市民の活動のあり方、さらに市町村単位や流域の単位での、地域と結びついた活動を、それぞれ創出していかなければならないことを示している。
それぞれの地域・流域で森林と人間の活動的な関係を創出していくこと、そのために市町村、都道府県が何をし、国が何をして行くべきかを考えるのが、これからの森林管理の発想でなければならず、それに対応した市民の活動も求められているのである。
森林には、絶対的に正しい管理の手法は存在しない。人間が森林に関するすべてのことを認識できない以上、「新しい発見」は次々に生まれてくるし、その時代のなかでは正しいと思われたことが、社会変化によって否定されてしまうこともしばしばある。そうである以上森林管理に、正しい認識、正しい方法、正しい施業を確立すればよいといった楽観的思想をもちこむことはできないのである。とすればどうすればよいのか。それは、具体的な森林とかかわっている人々の蓄積と模索のなかに、森林と人間の関係の「真理」があるという立場に私たちが立つことである。そして、だからこそ、森林管理の主体は地域・流域でなければならず、私たち市民もまた具体的な森林との結びつきを深めていかなければならないのである。
4) 「森林社会」における市民参加
明治以降の日本は、強い行政を確立することによって、近代国家の道をひた走ってきた。それは近代産業の育成や社会資本の一定の整備をすすめるうえでは効率的であったが、国家行政主導型の社会をつくり、国家総動員型戦時体制を形成するなど、いくつもの問題点をも、歴史上では顕在化させてきた。
今日の社会をみても、強い国家行政の力が存在することは、地方自治体などの国家依存体質、自主的企画能力の低下を招き、市民のなかにも重要な問題は国家にまかせておけばよいといった、すなわち自分たちで考え、行動し、社会の創造に参加していく精神の衰退を生んだことは否定できない。
森林問題をみるなら、この傾向はいっそう顕著であった。市町村のなかには森林関係部署さえもっていない自治体が多数あり、近年の森林法の改正により、市町村森林整備計画を策定するようになったものの、自分たちの地域の森林でありながら、実質的には自主的な地域森林計画をもっている自治体はほとんどないといえる。地域の森を守らなければならない森林組合も、国や都道府県からの補助金でやっと息をしているだけのものが、数多く存在する。少し言い過ぎた表現かもしれないが、森林問題では、名ばかりの地方分権のもとで、実質的に国の行政の下請機関と化した自治体や森林組合も多数存在するのである。そればかりか個々の森林所有者のなかにも、自分の所有森林の将来像を描ききれない所有者が生まれ、補助金がなければ何も動けないような体質までが発生するようになってしまった。
各流域の都市住民もまた同じである。今日では誰もが森林の重要性を語り、その維持を期待しているのに、自分たちの参加によってそれを実現させようとする動きはやっと今日はじまったばかりであり、批判だけしてあとは行政に下駄をあずけるという体質を抜けきっていない。
あえて述べるならば、強い国家行政の存在が、森林問題では、地域の自主的企画、行動力や、人間の創造への参加意欲を空洞化させてしまったのである。
その反省にたって、「森づくり政策市民研究会」は、これまで各地の森林ボランティアや市民の意見を聞き、討論を重ねてきた。この議論をとおして最初に明らかになってきたことは、これからの森林管理として「官・民一体」をめざすといわれながら、その中味は、官とは国家行政のことであり、民は森林所有者や関連業者、地域自治体や森林組合でしかないということであった。農山村住民や都市の住民、すなわち流域市民は、この構造のなかでは幽霊のような存在にされている。しかもここでの「民」の扱いは、明治時代に官(国)有林以外をすべて民有林とした発想が踏襲されている。
すなわち、現在までの「森林社会」は、行政、森林所有者、林業関係者という3者により構成された社会であったといってよいだろう。現在、その社会が行き詰まりを見せており、その構造の大きな「意味」的な改変を求める視点は、森林の持つ公益性、環境としての性格である。
これらの森林の価値はその直接的な受益の範囲を、行政、森林所有者、林業関係者という従来の3者だけでなく、一般市民にまで広げることを意味している。つまり、「森林社会」における「市民(主権者)」を、これまで外に置かれていた一般市民にまで拡大したものとして、改めて「森林社会」を規定しなおすことを意味していると考えるのである。従来は、林業的な森林整備の結果として公共性が担保されるという予定調和の論理により、一般市民はその結果を享受するだけの存在であったわけであるが、今後は森林自体を公共空間として位置付け、その公共空間の構築、維持のために主権者として発言する権利をもつ「市民」となることを意味しているのである。
この視点が市民参加をしていくときの重要な点であろう。おそらく、現実的には、そして具体的には、森林管理へのさまざまな立場の人々の広範な参加手法を開発していくことが必要となるであろうが、その時に、市民側にも決定権があるのかどうか、あるいはそれに近い位置付けを確保できるのかどうか、ということを常にモノサシとしていくことが必要とされる。
そういう意味では、「官・民一体」という発想自体が、すでに時代錯誤なのではないだろうか。これからの森林管理は、「行政・全流域市民」の協力体制のなかで実現すべきことなのではないだろうか。そしてその上で、国家行政、都道府県行政、市町村行政の役割を再構成し、森林を所有する地域住民や森で働く地域住民、あるいは関連産業で働く地域住民、森林の近くで暮らす地域住民などの森林へのかかわり方、協力関係のつくり方(「森林コミュニティ」のあり方)を検討し、あわせて流域市民の役割を定めていくことが必要であるように思われる。
一般的に行政からの公的支援がなされる場合には、その決定過程や実施結果についての市民参加や説明責任が問われてくる。しかしながら、現在の森林政策においては、国民参加の森づくりというフレーズはあるが、その内容は植樹行事などの象徴的な体験行事が主なものであって、募金などへの参加は声高に推進されるものの、森林政策の決定過程への市民参加という視点では満足できるものではない。
最近の森林法の改正により、森林計画の策定において、従前は策定後の計画に対して意見をいえるという仕組みが、策定前に意見をいえるというふうに改善されたが、これにしても当然の仕組みになっただけで、市民参加の手法として大きく評価されるほどのものではない。
また、森林計画への意見も審議会への報告が義務付けられているだけで、その意見に対して回答をすることにはなっているが、あくまでも判断基準は審議会の意見を考慮して決める行政にあるのである。行政計画なのだから当たり前ではあるが、そこには行政サービスの主役は市民であるという意識が希薄である。
なぜ行政施策において市民参加が必要かという点については、先述したように、森林公共サービスの直接的な受益の範囲が一般市民にまで広がっており、これからの「森林社会」は市民を主権者の一人に加えたものとしていかなければならないことから明白であるが、さらに、行政計画の持っている一般的な性格からその必要性が説明されている。
行政施策は、その執行における透明性を確保するため「行政計画」を策定し、それに基づいて行われるのが普通である。この行政計画は、その「計画目標」とそれを実現する方策としての「事業・規制」を主たる内容とするが、これらに対する市民のコントロール手法としては、法的なものと司法的なものが一般的である。しかし、法律は、計画の根拠、手続、統制手法などを定めるだけで、計画の内容そのものをコントロールすることはできない。また、行政計画は、策定されることそれ自体によって国民に大きな影響を与えることは確かだが、計画自体には具体的な処分性がないため司法審査の対象外とされており、司法審査の対象となるのは、行政がこの計画に基づいて実際に事業や規制を展開し、あるいは計画を変更した場合で、その行為に違法性がある場合に限られる。
つまり、行政計画の内容に対する市民のコントロールは、法的にも司法的にも十分には行えないのである。そのため、行政計画に対する市民のコントロールは、その策定過程への参加により直接的に関与するしかないのである。
また、行政計画はその策定の過程・内容は非常に専門的、技術的な側面を強く持っているが、森林政策においても森林・林業の専門性という特殊性から、森林に関する行政計画は一般市民が計画内容について理解しやすいといえるものではない。そのため、現状では実質的な市民参加の切り口がなく、行政による森林・林業の囲い込みが行われている状況にある。
森林関係の行政計画においては森林計画制度が代表的なものになるが、この制度は基本的な姿勢や数量計画を示すだけで、これにより具体の森林における取り扱いは見えてこない。そのため、たとえこの計画への市民参加の手法が開発されたとしても、それは市民にとっては、基本的な権利保障にすぎず、一番の関心事である目の前の具体的な森林の取り扱い方については意見が反映できないのである。つまり森林計画そのものにおいては具体の森林の取り扱いについての処分性が薄く、これへの参加手法の開発はそれがどのようなものであっても市民にとっては最初から満足のいくものとはならないのである。
このように、今後の森林政策における市民参加の手法開発としては、森林計画の決定過程への市民参加は当然必要ではあるが、それ以上に具体の森林の取り扱いについての市民参加の手法をどのように開発するかということが大きな課題である。
これからの森林を考えるうえで、この問題は解決しなければならない課題である。私たちはすでに「第1・2次提言」において、森林管理の思い切った地方分権を提案したが、それは単なる地方への権限移譲ではなく、地域・流域の森林管理を自主的におこないうるシステムの創造と、地域・流域の森林を所有者と協力してつくりだそうとする創造的な参加型市民の拡大を軸にして、そのとき市町村、都道府県や国は何をすべきなのかを再構成していく変革と結びついていなければならないのである。
地域・流域と森林の関係はつくり変えられなければならない。市町村、都道府県や国の行政のあり方も、地域の自主的な能力を高め、それを支援し、調整する方向で再構成されなければならない。そして森林所有者も、所有者の役割と責務を再創造しなければならない。そして全ての市民もまた、新しい社会的市民とは何かを検討し、参加する市民へと自らを改革していかなければならない。
地方分権の基礎には地方自治がある。地方自治の基礎には、徹底した情報の開示と住民自治がある。そして自治的な社会の基礎には、参加する市民の活動がある。このような社会がつくられないかぎり、森林管理における地方分権は確立されないのである。
森林は、すべての人間たちと生物の共有財産である。そして、そうであるとするなら、その共有の部分を守るにふさわしい市民、住民の参加が、森林の維持管理には必要なのである。
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