現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
1998年の発言

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◆目と心が腐るような右派言論から、一瞬遠く離れて

◆第三世界は死んだ、第三世界主義万歳!

◆時評「この国は危ない」と歌う中島みゆきを聞きながら

◆自称現実主義者たちの現実追随

◆伊藤俊也の作品としての『プライド 運命の瞬間』批判

◆98年度上半期読書アンケート

◆書評:市村弘正著『敗北の二十世紀』

◆「自由主義史観」を批判する〈場所〉

◆民族・植民地問題への覚醒

◆国策に奉仕する「〈知〉の技法」

◆「後方支援」は「武力の行使」にほかならない

◆ペルー日本大使公邸占拠事件とは日本にとって何であったか

◆個別と総体――いまの時代の特徴について

◆植民地支配責任を不問に付す「アイヌ文化振興法」の詐術

◆政治・軍事と社会的雰囲気の双方のレベルで、準備される戦争

◆朴慶植さんの事故死と、時代の拘束を解き放った60年代の遺産

◆書評:ガルシア=マルケス著『誘拐』(角川春樹事務所刊)

◆保守派総合雑誌の楽しみ方

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植民地支配責任を不問に付す「アイヌ文化振興法」の詐術
「派兵チェック」66号(98年03月15日)
太田昌国 


 昨年9月、米空母インディペンデンスが北海道・小樽港に入港した際に、僅か数日間で36万人の人びとが「見物」に詰めかけたという報道は、いまも私たちの記憶に生々しい。

もちろん、さまざまな形で入港に反対し抗議する動きがあったことは頭に入れておかなければならないし、36万人がこぞって米軍を歓迎していたわけではないだろうとも思いつつ、それにしてもやはりあの圧倒的な数の人びとが、まるで行楽客のように、大型ハイテク空母を「見物」している光景には、心が震え、萎えるものがあった。

 その小樽にあって入港反対・抗議の活発な運動の一角を担った「米空母に反対する市民の会」は『小樽をふたたび軍港としないために』と題する小冊子を発行するようだが、その予告目次を見ると「アイヌ民族にとっての小樽港」という一章が設けられ「侵略の船が来てから」「強制連行の港、小樽」「小樽港の歴史:アイヌモシリ侵略の起点、漁港、商業港、軍港」などの文章が収められるらしいことが目につく。

 内容的には、出来上がってから熟読することとしても、私はこの問題意識そのものに、入港阻止闘争の敗北をどのような歴史的・思想的射程において総括するかに関わっての明確な視点が感じられて共感を持った。

そして外務省が昨年7月26日に突然小樽市に対して同空母入港受け入れに関する打診を行なうに至った現実を、それ自体として孤立したものと捉えることなく、永い時間を経てきた歴史的過程と関わり/同時に、現在を象徴する物事とも関わるものとして結びつける強烈な意志をそこから感じ取った。

 「永い時間を経てきた歴史的過程と関わる」とは、次のことである。3年前にいわゆる「戦後50年」を迎えた時の論議 の底流には、戦後50年の総括のためにはどこまで歴史を遡って問題を捉えるかをめぐる立場の違いが潜んでいたように思える。

事は、あの衆議院の「不戦」決議すらが「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行なったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し」と(自らの責任を曖昧化する形であったが)述べたように、近代日本による他民族に対する植民地支配と侵略戦争の起源をいつの時代に求めて捉えるかという問題に直結していたからである。

「近代百年」という形で、1894〜95年の日清戦争と台湾の植民地化の時代に遡る考え方はありふれたものであった。

だが、それからわずか30年足らず遡ればよい「明治維新」(1868年)当時に、北方のアイヌモシリも南方の琉球も日本国に組み込まれてはいなかったことを思えば、1869年の「維新政府」による「開拓使」の創設と「北海道」と呼称するとの布告、続いて1879年の「琉球処分」による沖縄県の設置などが行なわれた時代に、近代日本によるあからさまな植民地支配の起源を求めることは、非歴史的なことではなくむしろ理に叶うことだと私たちは主張した。

それは、世界近代の起源をコロンブスの大航海直後に始まる、西欧による他地域の植民地化の時代に求める歴史観に繋がる必然的な方法だった。日本政府が主導したインディペンデンス小樽入港の強行を、このような文脈においた時に、その歴史過程をどう捉えるか。私たちの前には、現在の切実な課題に取り組むうえで避けることのできないこの問いがおかれたように思える。

 「現在を象徴する物事とも関わる」とは、次のことである。

アイヌモシリ植民地支配の事実も責任も自覚しない日本政府は昨年3月「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」を閣議決定した。

政府と変わらぬ水準の国会はこれを通過させた。前年に「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」が報告書を提出して以降この法律案に至るまでの動きと中身を批判してきた私たちにも、法案具体化の道を阻止するまでの力はなかった。

すでに何度も批判してきたように、上に見た歴史の積み重ねを無視し、社会的・政治的現実からも切り離して「文化」を捉えるこの法律の干涸びた方法は、無惨である。そして、この程度の、文化のみに関わる法律の施行によって、19世紀末におけるアイヌモシリ植民地化を象徴していた「旧土人保護法」を廃止できたと考えている政府・国会は無恥であり、背後の仕掛人(直接には北海道庁のキャリア官僚であろう)は狡猾である。

なぜなら、すでにアイヌ民族の中からも抗議の声が挙がっているように、振興法の付則には「旧土人保護法」の廃止をうたう一項があり、「その廃止に伴う経過措置」として「旧土人」の「共有財産」の返還を行なう旨が定められている。

その共有財産とは、日本国家が植民地化の当初に「無主地」と勝手に認定して接収したアイヌモシリ全土を意味しているのではない。

「旧土人保護法」施行(1899年)に関する概説が言うところを引けば、「蒙昧にして管理能力なき、土人族の財産の浪費散逸を防」ぐために「国家の一方的意志を以て当該財産の管理及処分行為を専行するは蓋し已むを得ない」と認定されているところの「共有財産」である。その後道庁が「官報」に公告したところによれば、アイヌの共有財産は総額148万円(!)と「認定」されている。98年9月限りの自己申告をまって、これを措置するというのである。

 旭川アイヌ語教室の相川公司氏は「シサム通信」第80号掲 載の「アイヌ民族の共有財産ってなんだべか?」と題する文章の中で、このような「措置」のまやかし・でたらめを厳しく批判し、この新法が「アイヌ民族共有財産処分法」としての性格を持つことを指摘している。

歴史を遡って、征服や植民地支配や侵略戦争行為を補償・賠償問題として捉えると、世界は収拾のつかない事態に陥るというのは、いつの時代にあっても、征服者側の言い分であった。

その征服者が、植民化以降それこそ「収拾のつかない」運命を強いてきた人びとに対して、勝手な時代の区切り方に基づいて、賠償なく補償なき新たな忍従を強制する。そこに振興法の本質があることを、近代日本の植民地支配に関する新たな視点を確立する作業の中で共有したいものだと思う。

(1998年3月15日記)

 
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