現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
1998年の発言

◆北朝鮮「核疑惑騒動」の陰で蠢く者たち

◆目と心が腐るような右派言論から、一瞬遠く離れて

◆第三世界は死んだ、第三世界主義万歳!

◆時評「この国は危ない」と歌う中島みゆきを聞きながら

◆自称現実主義者たちの現実追随

◆伊藤俊也の作品としての『プライド 運命の瞬間』批判

◆98年度上半期読書アンケート

◆書評:市村弘正著『敗北の二十世紀』

◆「自由主義史観」を批判する〈場所〉

◆民族・植民地問題への覚醒

◆国策に奉仕する「〈知〉の技法」

◆「後方支援」は「武力の行使」にほかならない

◆ペルー日本大使公邸占拠事件とは日本にとって何であったか

◆個別と総体――いまの時代の特徴について

◆植民地支配責任を不問に付す「アイヌ文化振興法」の詐術

◆政治・軍事と社会的雰囲気の双方のレベルで、準備される戦争

◆朴慶植さんの事故死と、時代の拘束を解き放った60年代の遺産

◆書評:ガルシア=マルケス著『誘拐』(角川春樹事務所刊)

◆保守派総合雑誌の楽しみ方

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政治・軍事と社会的雰囲気の双方のレベルで、準備される戦争
「派兵チェック」第67号(98年4月15日)
太田昌国 


 米国が戦争に突入した場合には、(それがいかなる戦争であろうとも)日本が一も二もなく「国を挙げて」対米協力を円滑に行なうための法整備がすすむ。そのことを伝える、ごく最近の報道を見聞しながら、思い出したり想像したりするいくつもの情景がある。

 アジア太平洋戦争の期間中に旧日本軍に応召されどこかの「戦地」に赴いた経験をもつ人で、晩年を迎えている人びとのなかに、精神的にいたたまれぬ、辛い日々をおくる人がいると聞いたことがある。数年前のことだ。

「戦地」で、そこの住民や「敵兵」に対して、みずからがなした行為が自分の死を間際にして思い出され、良心の呵責に耐えかねて、のたうちまわるのだという。そういえば、野田正彰が「世界」97年2月号以来 「戦争と罪責:日本兵における“悲しみ”の問題」と題する連載を続けている。軍医、将校、特務、憲兵などとして参戦し、いまなお存命中の人びとのもとを野田が尋ね歩き、戦争中になした行為についての「告白」を聞き取っている。

 いままでにも、このようなことをみずから本に書き著したり全国を講演行脚して、反戦・平和を訴えている人びとなら、いた。その人びとのもとに、「ひとりいい気になるな」とか「死んだ者は犬死にだったというのか」とか、匿名や偽名で嫌がらせの手紙がくることも、聞いていた。野田の連載はいま15回目まできているが、これだけ多くの人びとが、みずからの多様な戦時経験を語るのを、1990年代後半という、この社会に「戦争が露出してきた」状況の下で読んでいるからなのだろう、いままで同種のものを読んでいた時とはちがう感慨をもつことも多い。

かつてなら、「過去についての真摯な捉え返し」と思って済んだことだったが、いまはより「リアリティ」をもって身につまされながら読んでいる、という具合に。

 15回目に登場する、いまは飛騨高山の近くに住む76歳の人の話も心に残る。戦争とは双方の軍隊が華々しく戦闘をまじえ、勝った方がいろいろな要求をして自分の権益を守る確約をさせて終戦になると教え込まれ、自分もそう思い込んでいた。

だが「従事した現実の戦争は、まともに食糧を持たず、部落から部落を襲って歩く強盗、火つけ、強姦集団でしかなかった」。その人は、フィリピンで大隊長の命令で捕虜をひとり射殺したことはあるが、他の兵士がふつうにやっていた虐殺にも強姦にも、中国兵を食人した行為にも加わってはいない。

だからといって「わしに罪がないということにはならない」。そう考える彼は「恩給受給の年数に達しているとは、それだけ悪党の一味であった期間が永い」ということだから、軍人恩給を拒否して、戦後史を生きてきた、という。18歳で入隊し、24歳で敗戦を迎えたという山里の青年が、その後の永い戦後史の中で揺るぎなく貫いてきた原理である。

 戦時には、なぜあんなことができたのだろう、とつくづく述懐する人が多い。それは、うそ偽りのない、心の底からの思いなのだろう。平時に、市井で生きる条件にさえめぐまれていたなら、他者の生を侵すどころか、他者への共感力をもってあたりまえの生を生きることができたはずなのに、という悔いが聞こえる。野田の連載でそのような述懐を読むたびに、ふたつのことを思い浮べる。ひとつは、現在法廷での審理が続くオウム真理教に属していたH医師のことである。出家する以前に彼が勤務していた病院で、彼に関する患者の評判はきわめて良かった。ある精神的な空白を感じて宗教に帰依し、出家までして以降、次第に彼は変わり、医師としての専門技術を本来の医療行為以外の目的で駆使しはじめ、ついには地下鉄サリン事件にも参与する。しかし彼が「マインド・コントロ‐ル」に呪縛されていた時期にみずから行なった行為について悔恨をもってふりかえるには、そう時間はかからなかった。オウム真理教が、自己認識としては「国家に対する戦争」をたたかっていたことはよく知られている。この擬似的な戦争は、信念をもって「戦地」に赴いたH医師を、単なる殺人者にまで変えた。

 もうひとつは、次のことである。他者への共感力といっても個人差があることで、一般論として論ずることは難しい。だが、社会全般の雰囲気の問題としてなら、語ることができる。野田は連載の初回(「世界」97年 2月号)で概括している。現在の日本には「個人を尊重せず、上下の関係にこだわる文化」があり、(学校や企業に関わる)「帰属組織の優劣」があり「そのような価値観を疑う者を不安にさせる圧力がある」。学校や職場での「いじめがあり、私生活を貧しくする会社主義がある」。それは「内務班で初年兵をいじめ、中国人を刺殺することによって戦争の鬼に鍛え、軍隊での出世に突き動かされて、非抑圧者の苦しみに無自覚だった侵略戦争時の日本人の精神と、どれだけ違っているといえるだろうか」。おそらく誰も、違っている、とは言えない現実を知っている。

 インドネシアの社会情勢の不安定化をみて、沖縄駐留の米軍第31海兵遠征軍が1月下旬にインドネシアに派遣され近海で軍事演習を行なったという。さらに一段階進んで、ここに米軍が軍事介入する近未来を想定すると、新指針の下では日本もこの戦争に積極的な関わりをもつことになるのだな、と考えながら行き着く思いは、政治・軍事のレベルでの「戦争準備」が、社会的雰囲気のレベルでのそれに追いついてきたのだという実感である。

(1998年4月15日記)

 
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