富山さんは、大正デモクラシーの新しい風が吹いていた神戸で生まれた。10歳の時、父親の仕事の都合で満州に渡る。東京の美術学校に入学するまでの6年間をこの地で過ごした。
「満州」で見た光景は「画家となったわたしの原風景」と表現する。日本の植民地であった地での生活は、多感な少女の心を揺さぶった。
女学生になった時、西洋近代アートに感動して画家になろうと決意。しかし、戦争は年ごとに拡大し、ハルビンの女学校では、軍国教育のもと、朝鮮人生徒には創氏改名が強制された。それを拒む級友の悲しみが痛いほど伝わってきた。
極寒の冬の朝、登校中に凍死体に出合う。路上にうずくまる難民の親子、幼い浮浪児の群れ。日本の警官に泥靴で蹴られる苦力(クーリー)(港湾労働者)の姿…。戦争とともに知る植民地の悲惨さが胸に刻みつけられた。
「でも、私の頭は画家になりたい夢でいっぱいでした」
「この時代が出発点」と語る富山さんは、植民地主義を嫌悪し、贖罪の気持ちを抱きながら、日本の戦争責任を問い続ける。
女が画家になるのは難しい時代だった。「大正デモクラシーの息吹を知っている母親は、ひとり娘の私が画家になるための応援団になってくれました」
だが、敗戦で生活は一変。ハルビンにいた父親はソビエト軍に抑留され、難民になって帰国。富山さんは、芸術家同士の結婚が破綻し、2人の幼い子を抱えて飢餓の時代を生きた。
「苦しみは私を鍛えてくれたのでしょう。美術への考えも変わりました。1949年、中国革命が成功、歴史は変わると思いました。私はアジアの視座に立って、現実に根を下ろした絵を描こうと、鉱山や炭鉱をテーマに画家として出発しました」
戦後の米ソ対立の冷戦の中で、日本の美術は抽象画と純芸術(ファインアート)が主流となり、政治的な主張は排除されていく。富山さんは、美術界の異端となった。
60年代は、ラテンアメリカ、中央アジア、第三世界を題材に、70年代からは、痛烈な政治批判の詩を発表して逮捕された金芝河や、日本軍「慰安婦」などをテーマに描いてきた。