白石さんは大学卒業後、テレビ朝日系列のプロダクションに入社。国会担当として働いている時、「椿発言問題」が起きた。非自民政権が誕生した93年、テレビ朝日の椿貞良取締役報道局長(当時)が「非自民政権が生まれるよう報道せよ、と指示した」と発言したとされ、偏向報道の疑いでテレビ朝日への放送免許取消処分が真剣に検討された。白石さんはあっという間に萎縮する局の姿勢を目の当たりにして、メディアの役割、あり方に疑問を抱いた。
その後、東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)に転職。TOKYO MXは当初、記者クラブに頼らず継続取材をモットーにし、地域や歴史を丁寧に追うニュースチャンネルだった。ビデオジャーナリストとして日米地位協定の見直し、フランス核実験、虐待問題、水俣など取り組みたい仕事が思い切りできた。ふぇみん50周年の特集も組んだ。「好き放題やって、幸せな数年でした」
だが、高い志にスポンサーはつかない。ニュースを減らし、ショッピングやアニメの番組を徐々に増やしていく。並行するように、組合つぶしで名の知れた上司たちを前に、同僚とともに労働組合結成に尽力。放送する番組内容が経営者の都合で左右される体質や、不透明な部分を正そうと団結した。
馬車馬のごとく働きづめだったが、ニュース番組から外れた時「今しかない!」と2人の子を出産。子どもと公園に出かけるなど、以前と180度違う環境に身を置き、「生活に根付いた情報を得られた」と言う。
また、第一子のハンディキャップが、白石さん自身に大きな変化をもたらした。優生保護法から「改正」された母体保護法や、出生前診断の取材をする中で、声を上げる女性たちから薫陶を受け、頭で理解していたことと、現実がつながった。
「エリート街道で来ちゃったんですよ(笑)。運動の取材をしていても、どこか頭でっかちだった。子どものおかげで、本当の意味で理解できた」