牧師であった父親が、生後半年の沢さんを連れて青松園を訪れたのは1971年。子どもを持つことを許されなかった人たちが代わる代わる赤ちゃんだった沢さんを抱いた。25年たって、沢さんが再び園を訪問した時、入所者たちは涙を流して再会を喜んだ。
「私は、ハンセン病の施設に子どもを連れてくる人などいなかった時代にやってきた赤ちゃんだったんですね。私を覚えていてくれたことに感激し、お返しをしなくてはと思いました」 元患者たちとかかわりながらもこの問題に取り組めなかった、亡き父親が残した宿題を引き継いだ。コンサートではカンパを募っているが、毎年かなりの額が持ち出しになる。それでも続けるのは、ハンセン病の問題が終わっていないからだ。
コンサート元年は、くしくもハンセン病違憲国賠訴訟が勝利した年だった。ハンセン病のことは当時こそマスコミで取り上げられたが、その後はあまり報道されない。ハンセン病への偏見をなくし、元患者たちが安心して最後まで暮らせるようにすることなど、問題はたくさん残っているにもかかわらず…。
「当事者に寄り添い、〝忘れてないよ〟ということは言い続けたい。気にかけてくれる人がいれば人は生きていけるんです。続けようか正直迷ったこともありましたが、問題が忘れられつつある今こそ、やろうと。ポジティブな気持ちになったら周りももっと力を貸してくれるようになりました。私にとっても大切なものを教えられる大事なコンサートです」
沢さんは、日本人の父と韓国人の母との間に生まれた。幼いころから日本、韓国、米国に住み、民族的アイデンティティーより、クリスチャンという意識のほうが強かったという沢さんは、母親の子守歌や教会の賛美歌を聞きながら育った。3歳からピアノを始めた沢さんに大きな影響を与えたのは2回の米国生活。ジャズなどに生で触れ、高校時代は友達とバンドをつくった。卒業後は東京芸術大学音楽部楽理科に入学。その2年前に父親が病気で他界し、学費は自分で稼いだ。在学中に音楽事務所からスカウトされ、91年、歌手としてデビューした。
沢さんの歌には、ほとばしるエネルギーと強いスピリットが宿る。身動き一つできなくなるほど、魂にずしんと響く歌。