大阪で暮らしていたMASAが、サックスを抱えて一人ニューヨークへと旅立ったのは、1987年。28歳の時だった。
「私ってホンマに寂しがりなんですよ。渡米のきっかけもレズビアンの恋人との大失恋。10キロもやせた。いまよりしんどいことはないだろうとアメリカ行くの、決めたんです」
本場のジャズを浴びるほど聴きたいと飛び込んだニューヨーク。しかし、友人たちからのカンパもすぐに底をつく。家賃も払えず、ホームレス寸前のボロボロの生活。
こらえきれないほどの寂しさと不安と貧困の中で、カウンセリングを受け始める。
「自分というものを徹底的に見つめる初めての作業でした。自分に興味を持つほど面白いことはないですね」。自分がこけるパターンを知り、自分をハンドリングしていく方法を獲得していく中で、「プロのジャズプレーヤーになる」という自己実現の光が見えてきたという。
30歳過ぎからニューヨークの大学に行き直しジャズを学んだ。
小学生時代、太っていたMASAは、「ブタ! ブタ!」といじめられ、一人閉じこもって図書館の本を完読する少女だった。そんなMASAに、ファイトバック(反撃)のきっかけを与えたのは、5、6年の担任教師。「児童会会長に立候補しないか?」との誘いに、ダメモトで立候補したMASAは、学校始まって以来の選挙運動を展開。下級生の圧倒的な支持を集めて当選した。
「ウーマンリブの影響もあったと思うんですよ。当選した役員4人は全員女子でしたから」
同じころ姉の影響で、小林多喜二を描いた映画を見て、子ども心に「民衆を押さえつけ、虐殺までする権力」の存在を胸に刻んだ。
サックスとの出合いは、中学校の吹奏楽部。コンクールで賞をもらうような学校で、朝、昼、晩と練習に明け暮れた。「公立高校は私立より学費が安いから、公立に受かったら、頑張った褒美にサックスを買って」と父親にかけ合った。そのとき父親に買ってもらったサックスを今も吹き続けている。