上田さんは3歳で詩作を始めた。詩人の母のもとで、うながされるままに日記とも手紙ともつかない「詩」をつくり、書けない時には母がつぶやきを録音してくれた。妹も同じく詩作をし、母やその仲間とともに、年に4度、詩集を発行していた。幼稚園の時にはすでに締め切りがあり、刷り上がったものを折り、封筒に入れ、宛名を書き、切手を貼った。
「表現したいという思いがある時、人に手渡すための〝作業〟が必要だということを、小さいながらに感じていたのね」
詩は、妹のほうが上手だった。「私のは〝なんで人は生きるの〟みたいなことばかりで作品としてはおもしろくなかった。私にとって生きることは、ずっと〝問いかけ〟やった」
高校生の時、神秘的な体験をする。古典の参考書を持って裏山に上がり、木に向かって漢詩の朗読をしていると、自分の声が〝見えた〟のだ。
「声がシャボン玉みたいにしゅわしゅわしゅわ~って広がっていったの。後に〝世界に見つけられた感じ〟って、名付けたんです」
この体験は、上田さんが詩の朗読をする原点になっている。そして、「声を出す」ことをパフォーマンスとして立ち上げようと思うに至る。22歳の時、初めて大きな企画を立てた。京都で培ったネットワークで、四条河原町のビルのこけら落としで7日間毎夜、表現の訓練をしていない50人が、それぞれの思いを、生きているということを、自分の言葉にし、声に出して表現するイベントだった。
「興味持ってるのが、結局ずっとそれなんよね。自分の気持ちを表現すること。他者とかかわること。声にならない声はないものとして制度が作られ、構造化されていく。抑圧された人たちが、気持ちを語っていくこと・届けること。それが大事やと思う