上條さんは、1999年、パレスチナを巡回する、グループ展「東京からの七天使」に参加し、初めて中東を訪れた。
「狭い難民キャンプには何万人もの人たちが暮らしていた。国連の運営する学校はあっても、美術、音楽、体育の授業はなく、満足のいく教育は行われていない。行ってみて理不尽で悲惨なパレスチナの状況が一目で理解できました」
過酷な現実を目の当たりにした上條さんは、帰国してからも「この現状に対し、何をしたらいいのだろう」と悶々とした。
個展会場の片隅に段ボール箱を置き、パレスチナに送る絵の具などを募ったら、新聞に記事が載り、全国から少しずつ画材が集まった。ちょうどそのころ、パレスチナの女医さんから、レバノンの難民キャンプで子どもたちに絵を教えてくれないかと請われ、二つ返事で引き受けた。こうして2001年、再びパレスチナに渡った。
翌年には、パレスチナの子どもたちを日本でホームステイさせ、子どもたちの作品展を実現させた。それ以降も「パレスチナのハート アートプロジェクト」を主宰し、毎年、メンバーと各地の難民キャンプを訪れ、絵画指導を行っている。
上條さんが画家を目指したのは17歳の時。独学で学び、早々に女流展で入賞したが、30代半ばでスランプに陥る。このままではだめになると、同じ画家の夫を誘い、ヨーロッパを6カ月間放浪した。安い中古車を買い、西のスペイン、ポルトガルから、東のトルコまで走行距離2万キロの旅。テント生活をしながら、スケッチをしたり、美術館を巡った。
この旅でたっぷりの栄養をもらったのか、帰国するとエネルギーがわいた。苦労を重ねて描いた絵の一つは、安井賞を受賞する。「玄黄・兆」という、「天地の間に人間の営みは限りがない」ことを表現した作品だ。
初めて女性が安井賞を受けたことで注目された。だが、上條さんは「男たちの眼差しが忘れられない」という。「すれ違いざまに画家仲間から〝安い賞だなあ〟と言われた」と振り返る。
50歳の時は大病を患った。耳の中に腫瘍ができ、脳にまで広がっていたため、頭部を切開する大手術を2度も受けた。
「病気を知った時、これで死んだら悔しくて〝化けて出てやる〟と思った(笑)。死の淵から生還し、生きている喜びを感じました。また絵が描けると分かった時は、神様から助けてもらった命を生かし、精一杯描いていかなきゃと思いましたね」