WOMEN'S DEMOCRATIC JOURNAL femin

  • HOME
  • >
  • インタビュー

インタビュー

『白線流し それからの私たち』を撮った

浅見 裕子さん

  • 2010.05.05
  • 聞き手:室田元美
  • 撮 影:落合由利子

浅見 裕子さん

親の戦争、を知る世代だから

 還暦を機に、浅見裕子さんは故郷の岐阜県飛騨地方を訪れ、高校時代の同級生たち12人を2年かけてレンズに収めた。
 「同級生を撮りたいと思ったのは、毎日の食事や子育て、お姑さんの世話をしながら、生まれ育った土地でみんながしっかり生きているから。都会(名古屋)に核家族で暮らす私なんかが忘れてしまった生活を大事にしていることに、感動がありました」
 そうして生まれた写真集が、『白線流し それからの私たち』だ。戦争によってつくられた「団塊」は受験戦争、就職難、時代の波をもろにかぶった世代。流動する世の中を還暦まで生きてきた重みが、レンズ越しに見えてきたという。
 白線流しは、浅見さんの母校、飛騨地方の岐阜県立斐太高校の伝統行事。卒業式の後、そばを流れる大八賀川に男子生徒は学帽の白線を、女子生徒はセーラー服の白いリボンを結んで1本につなげ、流す。始まりは1930年代後半。一人の男子学生が、学帽を川に捨て授業をボイコットしたことに始まる。戦争が始まり、予科練などに志願した学生たちは、学舎にひっそりと別れを告げに来た。それが歌になり、今でも白線流しの時に歌い継がれているそうだ。
 「もちろん私も白線流しをやりましたが、謂われを知ったのは最近のことです。学帽もセーラー服も、軍服がモデルだったと聞きます。それを川に流したのは、精一杯の抵抗だったのかもしれませんね。ドラマにもなったので避けていたタイトルでしたが、謂われを聞いて、もうこれしかない!(笑)」

 がんばる同級生を励ますつもりの写真集だったが、途中で「親たちの戦争」が加わった。取材を重ねていたのが参議院選挙の前だったせいか、「戦争だけはダメよね」と口にする同級生が何人もいることに驚いた。親たちの背中を見てきたからではないか、と浅見さんは考えた。
 「私の父もニューギニアからの帰還兵ですが、子どもたちに話してくれたのはバナナやパパイヤがたわわに実る話、ダイナマイトを仕掛けて魚を捕った面白い話ばかりでした」
 日本兵の約9割が飢餓で亡くなったことも話さなかった父親だが、亡くなる前に病院で出された流動食を拒んだ。なぜ?と尋ねた浅見さんに「空爆で死んだ動物をドロドロに煮込んで食べた。器にしていたヘルメットから、可愛がっていた現地の少年の腕輪が出てきて、思わず吐いてしまった。思い出すと食べられない」と話した。
 「ショッキングな話でしたが、生きている間に本当のことを聞けたのはありがたいと、父に感謝しましたね」
 だから同級生たちにも、一言、「親の戦争のことを書いてほしい」と頼んだ。彼女たちからの返事を短い文章で載せた。

続きは本誌で...

あさみ ゆうこ

1947年岐阜県生まれ。県立斐太高校卒業後、岐阜市の国立療養所事務官を務め、結婚後は名古屋に。名古屋市現業職員に再就職。写真集に『沖縄戦世・美ら海を守る』ほか。写真展「美ら海を守る人びと」を、全国50カ所余で開催中。
【 新聞代 】(送料込み)
 1カ月750円、3カ月2,250円
 6カ月4,500円、1年9,000円
【 振込先 】
 郵便振替:00180-6-196455
 加入者名:婦人民主クラブ
このページのTOPへ