(c)落合由利子
コロナ禍で解雇され、家もお金もないベトナム人技能実習生や留学生たちの「駆け込み寺」となった大恩寺(埼玉県本庄市)。この間2000人もの面倒をみてきた住職のティック・タム・チーさんは、光熱費や食費もかさみ、身も心も限界に近かったという。少し落ち着いたと聞き、訪ねた山あいの寺には門もなく、ノンラー(すげ笠)姿の若者が畑を耕し、柔らかなベトナム語が響いてくる。時の流れも急にゆるやかになる。
とはいえ住職は今日も忙しい。縫製工場の技能実習生が、死産した子の供養のため、面倒見のいい社長や仲間とやって来るかと思えば、近隣の会社員が、少しでも役に立ちたいと日用品や食料を差し入れに来る。 「本当に助かります。買ったら膨大な費用になっちゃうよ。お昼一緒に食べてく?」 その間にも、横目でスマホをちらり。次から次と、いろんな相談が舞い込んでくる。 そこにやって来たのは「おじいちゃん」。ここで静養中の、寺院「日新窟」(東京都港区)の吉水大智住職だ。「日本を大好きにしてくれた先生」との出会いとは―。
「ベトナム戦争が終わって間もない1977年。タム・チーさんは少数民族が住む中部高原の村で、9人きょうだいの末っ子に生まれた。父は地雷が残る地域に働きに行ったきり。母一人で細々と畑を耕した。「少ないお米にサツマイモを混ぜ、塩、胡椒、唐辛子を振りかけては食べていた」
優しい母に連れられ、毎晩お寺参りをし、7歳のときだった。「花祭りの踊りを見て、出家したいと言ったの。今思えば、なぜそれほど強く願ったのか。仏縁としか言いようがない」 寺で修行しながら大学を終えた頃。ベトナム戦争中から何度も現地を訪れ、仏教で人々の役に立とうとしてきた吉水住職に出会う。それが縁で日本へ留学し、日新窟で文化交流の活動を担いながら博士課程を終え、いよいよ帰国、というやさき。 東日本大震災が起きた。
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