(c)落合由利子
「おもしろい人でしたねえ、俊先生は」 原爆の図 丸木美術館の一角にある「流々庵」で、丸木ひさ子さんが想い出を語ってくれた。俊先生とは、丸木位里さんと合作で「原爆の図」を描いた丸木俊さんのこと。ひさ子さんは俊さんの姪にあたる。 いまから45年前、札幌で公務員をしていた20歳のひさ子さんを、俊さんが呼び出した。
「うちにこない?と言われて。おさんどんです」 冒険したい年頃。しかも住まいは丸木美術館。自身も絵が好きだったひさ子さんは、喜び勇んでやってきた。 「俊先生は60代半ばで脂の乗っていた時期です。最初は怖かった。体全体からびりびり出ていました」 創作に忙しくても丸木家の暮らしはゆっくり。お客さんも絶えなかった。ひさ子さんは仕込まれた。だしは煮干しとかつお節。毎日かんなで削る。俊さんは味噌を仕込み、牛乳からチーズを作り、手仕事を惜しまなかった。絵を描く合間には畑を耕した。位里さんは目前の都幾川で網を打ち、鮎を捕った。
「俊先生は水道で野菜を洗ったあと、自分も裸になって水浴びするのね。へっちゃらなんだわ。美術館に来た方はびっくり。目のやり場に困りますね」 若い頃に出かけた南洋群島では、腰蓑ひとつで過ごしたこともあるからか、豪放だった。 「食事の時には、なぜかウンチの話になる。話しながら俊先生はよく食べるんですよね(笑)」
耕して食べるものを作るのが生きることの基本。食べて、出して、野菜が育って、そのなかで人間も生きる。 俊さんは化学調味料や洗剤も使わなかった。当時、ベトナム戦争に枯葉剤=除草剤が使われた。微生物を殺したら土はできない。化学のものはだめ。循環して回ってなきゃだめなんだ。いのちの循環を断ち切る、最たるものが原子力だった。俊さん自身、1945年8月に広島でひと月ばかり過ごしたあと、体調不良に苦しんだ。核の怖さは、わが身で知っている。
続きは本紙で...