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福島第一原発事故により、福島県の農業が被った被害は計り知れない。二本松市東和地区は有機農業が盛んだった。菅野瑞穂さんは原発事故後も東和に踏みとどまり、農業を続け、若い仲間を作っていった。逡巡もあっただろう。その決意と悩みを、東和に訪ねて聞いた。
菅野さんは高校卒業後、東京の体育系大学に進学。はじめは教員になろうと考えていた。大学のキャリアセンターの先生から、「リーダーに向いているんだからもっと自信を持って堂々と生きなさい」とアドバイスを受け、考えた末、ものを作る現場にこだわりたいと、見知った農業を選択した。
両親が農業をしており、農業が厳しい仕事であることは理解していた。でも東京に住んだからこそ、生まれ育った土地の良さも知った。土地があり、教えてくれる人がいることも大きかった。卒業後地元に戻り就農。1年目から県の派遣でニュージーランドへ農業研修に。ところが翌年春、福島第一原発で事故が起きた。
「それまで、チェルノブイリのことにも放射能にも関心がなく生きていました。事故後はどの情報を信じていいのかわからず、不安でした。でもハウスの野菜には毎日水をやらなくてはいけない。マスクや帽子でできる限り防護していました。2011年3月20日から葉物の出荷制限が始まり、続いて作付け制限もされ、汚染度を測らなくては農業ができなくなった。だんだん大変な状況が分かり、どうしようかと…」。東和地区の事故直後の空間線量は約10μSv(現在は約0・2μSv)だった。
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