いまこそ「砂川闘争」から学ぼう
基地の町、東京・立川で育った加藤克子さんは、常に戦争と基地を肌で感じてきた。
敗戦は小学校2年生の時。疎開先の高尾から見た、八王子大空襲で焼ける真っ赤な空を忘れることができないと言う。
戦後、立川基地の主は日本軍から米軍に替わり、立川は文字通り「基地の町」になった。朝鮮戦争の帰休兵の持ち帰る戦場の雰囲気が町を染め、自宅前のビアホールは白人兵専用で、黒人差別も激しかった。
「お使いでコロッケを買いに行き肉屋に並んでいると、私といくつも違わない米兵相手の女性が店の奥でステーキ肉を切ってもらいながら『あした堕ろす子どもに食べさせるの』と話したりしていました」
米軍基地拡張をめぐる農民らの抵抗、「砂川闘争」が始まった1955年は高校生。社会党市議だった母親は足しげく現場に通った。57年に大学に進学し、ケガ人続出、逮捕者も出た砂川事件で救護活動もした。
「砂川闘争はいまも続いている。その闘いを検証し受け継ぐことが大事だと感じています」
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かとう かつこ
1937年、東京都立川市生まれ。大正デモクラシーを体験したリベラルな両親のもと、大勢の人が出入りする家庭で育った。趣味は、読書と猛勉強中の二胡。著書に『日中戦争・哀しい兵隊―父の記憶をたどる旅』(れんが書房新社)『父たちの“戦場”に暮らす人びと』(第三書館)