WOMEN'S DEMOCRATIC JOURNAL femin

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インタビュー

女川原発に反対する町議

阿部美紀子さん

  • 2015.4.5
  • 聞き手…清水さつき
  • 撮影…石田貴美恵

阿部美紀子さん

今が原発を廃炉にするチャンス

 
  • 宮城県の牡鹿半島は、リアス式海岸に囲まれ、豊かな自然を誇る。そこに、東北電力が女川原発を建設、1984年に運転を開始した。東日本大震災により女川原発は5系統の外部電源のうち4系統を喪失。火災も発生したが、かろうじて福島のような破滅的危機は回避された。
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  • 女川で原発建設と再稼働に反対を続けている阿部美紀子さんに、仙台市で開かれていた国連防災世界会議の会場で会った。  美紀子さんは、3・11の地震が起きたとき女川町の隣、石巻にいた。どうにか車で戻ったが、建物が流され、変わり果てた町の姿におののく余裕はなく、家族を探すことしか考えられなかったと言う。幸い山に避難して家族は無事だった。一時、高齢の両親と町外に避難したが、女川に戻れば役に立つこともあるだろうと4月に戻り、その後仮設住宅に入居した。
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  • 71年、東京で大学に入学。女川では前年に原子炉設置が許可され、反対運動が激しくなっていた。東京にいてできることを思案し、環境学者・宇井純さんの「公害原論」を東京大学で聴講。その冬、水俣病被害者が加害企業チッソと「自主交渉」をすると聞き、出かけていった。そしてそのまま1年半、東京のチッソ本社前テントでの抗議活動に携わることになる。
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  • もともと父の故・阿部宗悦さんが女川原発反対運動の中心的存在だった。東北電力が建設準備を進める中、女川町や雄勝町などの漁協が反対し、「女川原発反対三町期成同盟会」(以下、反対同盟)を結成。反対同盟が繰り返しデモを行うなど、70年代は反対側と推進側が激しく対立した。81年、女川原発差し止め訴訟を仙台地裁に提訴。父や美紀子さんのほか、夫や娘も原告になった(2000年に最高裁が原告の訴えを棄却)。  父には反発しつつも、原発反対を訴え続けた姿を見ていた。東京にいても女川が気になった。大学卒業後は留学の話に心が動いたが、最終的に女川原発反対運動のためにふるさとに戻る決断をした。
  • 続きは本紙で...


    あべ みきこ

    1952年、宮城県女川町生まれ。「女川から未来を考える会」代表。2011年11月から女川町議(無所属)。趣味の油絵は震災で画材を流出したため、今は水彩画を描く。避難所になった小学校で飼われていたウサギを自身の仮設住宅で育て、癒やされている。

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