発信しないと「無い」ことになる
「原発事故が起きて一番悲しかったのは、おばあちゃんがつくってくれた野菜を食べられなかったことですね。私も泣いちゃったし、おばあちゃんもつらそうだった。おばあちゃんにとって野菜作りは『生きる』根っこだから」。福島県郡山市で生まれ育った日塔マキさんは、放射線量が比較的低い猪苗代町に「女子の暮らしの研究所」を立ち上げた。「子ども」と「妊婦」の隙間で配慮からすっぽり抜け落ちた「若い女性たち」が本音をつぶやき、正しい情報を得て、暮らしに向きあえるように。
震災前、日塔さんは、制作会社でイベントの企画やコミュニティーラジオのパーソナリティーをしながら、祖母に教えてもらって家庭菜園で無農薬の野菜をつくり「エコな女の子」生活をしていた。一方で仕事のあとは夜の町に繰り出して、クラブで飲んだり、しゃべったりの楽しい毎日。社会問題にはまったく関心がなかった。
東日本大震災・原発事故で生活は一変した。知り合いの自然食カフェのオーナーや子育てママたちは子どもを連れてどんどん避難して行った。27歳の日塔さんも、喉が痛みだし、明らかに体調が崩れた。「体の中に放射能がいっぱい入っちゃったらどうなるの。将来子どもを産めるの。あたしが病気になったら子どもはどうなるの」。不安を分かってくれる人は少なかった。「『テレビで安全だって言っているのに、気にしすぎだよ』って言われて、周りとの温度差が悲しかったですね。何を信用するか、どう行動するか、それぞれが判断しなくちゃいけなかったのもつらかった」
毎日悩んで泣き暮らし、ストレスから円形脱毛症にもなったが、抱えている仕事を途中で投げ出して避難することはできなかった。皮肉にも当時の仕事は福島での節電キャンペーンだった。福島の仕事が一段落したころ、取引先の東京の制作会社から仕事の誘いがあった。事故から8カ月後、ようやく自分の体を守ることができそうだった。
しかし東京での初仕事は原発関連メーカーの復興イベントだった。「ポップでキャッチーなイメージでイベントやりたいんだよね」という発注側との打ち合わせはつらかった。
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にっとう まき
1983年生まれ。キャンペーンガール、ミス郡山を経て制作会社に勤める。震災後、千葉に移住して東京の制作会社に一時勤務。福島女子による「ピーチハート」メンバー。2012年12月「女子の暮らしの研究所」設立。girls-life-labo.com