WOMEN'S DEMOCRATIC JOURNAL femin

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インタビュー

激動の半生を書き上げた

長谷川暁子さん

  • 2012.06.25
  • 聞き手…室田元美
  • 撮影…谷口紀子

長谷川暁子

私を育ててくれた、祖国・中国へ

 今年は日中国交回復40年にあたる。節目の年に長谷川暁子さんは『二つの祖国の狭間に生きる 長谷川テルの遺児暁子の半生』(同時代社)を出版した。1972年、新しい東アジアの幕開けを告げたこの年は、まだ文化大革命の最中だったので、大っぴらには喜べなかった。  「夫とふたり、ひっそり家で乾杯しました」  その6年後、日中平和条約締結を機に、日本からエスペランチスト(国際人工言語を話す人)たちが来て、暁子さんを捜し出した。中国はエスペラントをいち早く受け入れ、国交回復以前から日中のエスペランチストは交流があったという。暁子さんは、母親が「エスペランチストで平和活動家の長谷川テル」であったことを初めて聞いた。  長谷川テルは日中戦争時に日本で知り合った夫の劉仁とともに中国へ渡り、日本の侵略戦争を思い留まらせようと、前線の日本兵たちにラジオで停戦を呼びかけた行動で知られる。  「そんな勇気があり尊敬できる女性が母だったのですから、びっくりしましたよ。けれども私が1歳の時に亡くなったので、血のつながりはあまり感じない。私がもっと驚いたのは、日本のエスペランチストたちが中国政府にごちそうを振る舞われたことでした。それまで日本人といえば、戦争中の殺人鬼かスパイか。仲良くテーブルを囲む姿は夢のようでした」  両親は戦後、相次いで病で亡くなり、2歳上の兄とも引き離されて孤児として保育園で育てられた暁子さんだった。両親は国のために尽くした「烈士」だと、小さなころから聞かされた。烈士の遺児は、中国では特別な待遇を受ける。経済的に不自由なく、また教育も存分に受けることができた。時折、けんかをした友だちから「小日本人(シャオリーベン)!」と侮蔑されることはあったが。 続きは本誌で...


はせがわ あきこ

1946年中国・瀋陽生まれ。ハルビンで育ち、大学卒業後は中学・高校の数学教師、大学の電力工学部に務めた。78年、母・長谷川テルの生涯を知り、85年より日本に留学。大阪府在住。同志社大学などで中国語非常勤講師として勤務。

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