WOMEN'S DEMOCRATIC JOURNAL femin

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インタビュー

ウクライナの歌姫

ナターシャ・グジーさん

  • 2011.07.25
  • 聞き手:じょうづかさえこ
  • 撮 影:落合由利子

ナターシャ・グジー

生きる勇気と希望を伝えたい

「苦しむのは私たちで最後にしてほしかったのに、大好きな日本で同じことが繰り返されてしまいました。…悔しいです」  6歳の時、チェルノブイリ原発からわずか3・5㌔のところで事故に遭い、ふるさとを失ったナターシャ・グジーさん。その体験を語り、「二度と悲劇を繰り返さないために、チェルノブイリを忘れないで」と、音楽を通して訴え続けてきた。  深い悲しみを越えて、コンサートで歌うナターシャさんの透明感のある美しい歌声に、思わず涙がこぼれた。  チェルノブイリ原発で働く父親と共に、家族でプリピャチの豊かな自然の中で幸せな幼少時代を送っていたナターシャさん。1986年4月26日の原発事故が、その暮らしを奪った。  「夜中に起きると、火事の炎が見えたそうです」  午前1時の事故。夜が明けても何が起こったのかのアナウンスはなく、2人の姉はいつも通り登校した。避難命令が出たのは、事故から丸1日半たってからだった。  「『3日間だけ避難してください。3日後には必ず帰ってきますから、荷物は持たないでください』と言われました」  住民の多くは用意されたバスで避難したが、駅に近い住民は列車で避難することになり、生後1カ月の妹をベビーカーに乗せ、家族は着のみ着のままで列車の駅へと急いだ。  「大勢の人があふれる駅で、おばあさんたちも子どもたちも、のどや目、頭が痛くて、そしてふるさとを離れる悲しみで、泣いていました。私も列車の窓から大好きな森を眺めながらずっと泣いていました。もう戻れないことを感じていました」  祖母の家に避難したのち、最終的にキエフに用意された部屋へと、転々とする避難生活。父親は2週間交代で原発と家族のもとを行き来していた。  「お父さんが帰ってきてうれしくて飛びつこうとすると、いつも止められました。キスもできませんでした。なぜ?と悲しくなって泣いたけれど、お父さんは服や体についた放射能から私たちを守りたかったのです」
続きは本誌で...


ナターシャ グジー

1980年、ウクライナ生まれ。6歳の時、チェルノブイリ原発事故に遭う。8歳からウクライナの民族楽器バンドゥーラを学び、2000年から日本で本格的な音楽活動を始める。著書にCDブック『ふるさと~伝えたい想い』。

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