ブラジル音楽について

ブラジル音楽といえば、Pixinginha に始まり、サンバ、ボサノバ、MPBと豊かな流れがあるし、それぞれにこだわればいくらでもこだわれるほどの豊かさがあります。ここでは最近のブラジル音楽を考える上で避けては通れない影響を与えている”ファンキ”をとりあげます。

”ファンキ”が社会を変える

 ブラジルにおける現在のファンクの隆盛を考える時、やはりその中で無視できないのは、ファベラ(スラム)の若者の存在だろう。ファンクの最初のコンサートそのものは1970年代初期、豊かな中流階級の住むリオ市南部のカネカンで開かれたが、その後、カネカンはもっぱらMPBのスペースとなり、長く近年にいたるまで、黒人の比率が極めて高い市北部の労働者地域でもっぱらこの音楽はその支持者を見い出すことになる。

 おりしも軍事独裁政権のもと、外国の、しかも大レコード会社が宣伝しているようなものではない米国のファンクの曲などブラジルのテレビやラジオは流しはしない。外国製品の輸入には高い関税がかけられるので、国際的に有名でないレコードをブラジルで売るのは極めてリスクの高い仕事であったはずだ。こっそりと関税を抜けてリオーニューヨーク便で即日トンボ帰りするアンダーグラウンドなレコード売りがブラジルでは名前も知られないアーティストのレコードに運をかけて買い込んで、リオのコパカバーナのレコード店に売り込むのだ。

 ここで買い付けるのがリオ北部で週末のファンク(ブラジルの発音ではファンキ)のディスコのDJ。彼らにしてもそのアーティストの風評などほとんど情報らしい情報などない時代だ。彼らのほとんどは英語を解さないし、米国の音楽誌を買うことなど彼らの収入からは考えられないことだ。彼らは彼らの本能、インスピレーションでディスクを選ぶ。

 リオの中流階級がロックに酔いしれている間、リオの北部の労働者の町では米国のファンクが根を降ろしていったのだ。

武器を手にする子ども
武器を手にするスラムの子ども
(c)Nando Neves/
Imagens da Terra

 リオは北部と南部で極めて強いコントラストを見せる。かつての高級住宅街、コパカバーナからイパネマ、レブロン、バーハ・ダ・チジューカとつながる海岸に面した地域は常に海からの涼しげな風が注ぎこみ、夏でも比較的快適で、なにより美しい海に近い優雅な生活圏である。その中に点在する切り立った岩山にはファベラがはりつくように広がり、富めるものと貧しいものとの混在もまたリオの特徴といえるが、リオ南部の中産階級の生活は日本の上流階級にも見られぬ優雅さをもっている。

 その一方、アベニーダ・ブラジルから北部の街に足を踏みいれると同じリオ市内でもまったく様相を異にするようになる。海からの風はとどかず、しかも市の南部に保存されているような美しい森もここにはない。北部湾岸地域に密集する工場地帯の大気汚染が直撃し、近年は石油精製所からの排煙が広範な地域を覆い、空気が澱む。

 かつて低湿地地帯にバイア州やミナスジェライス州からの黒人が移住して作られたこの地こそ、あの偉大なサンバを作り出した場なのだが、その現実は資本間の国際的競争にブラジル国内経済が直接さらされる現在、さらに厳しくなってきている。失業が蔓延し、さらに麻薬組織の抗争による暴力が一層悪化している。

 ブラジルの社会格差は日本周辺のアジアの国々の類推からはまったく理解できないだろう。ブラジルの最低賃金は現在1月約1万円にすぎない(数年前まで5000円程度だった)。これはフィリピンやタイの水準をはるかに下回るが、ブラジルの物価ははるかに高い。たとえば100円あればタイなら十分食事ができるが、リオではホットドックさえ買えない。最低賃金では3人家族ならば1日1個のホットドックしか買えないのだ。

 ブラジルの最低賃金とはまったく普通の人間としての生活を保障する金額には設定されていない。ある研究によると必要経費から計算するとブラジルの最低賃金は月7万円になるという。これでは日本と変わりないではないか? 豊かな階層は日本よりはるかに豊かで(社長クラスを比較するとブラジル人の社長は日本の3倍の収入になるという話しもある)、貧しい人間はまったく想像もつかぬほど貧しいのがブラジルなのだ。所得税は日本に比べればないに等しく、その分間接税に税収がひどく片寄っているというのも貧しい人間にとっては大きな負担となる。日常生活品にかかる間接税は2割近い。僕は3年以上ブラジルで生活したが、今なお最低賃金でどう飢えずに過ごせるのか、まったく見当もつかない。

 典型的な港町であるリオは急激にそそりたつ丘陵部と美しい海岸のきわめて細い地域にそって長く延びている。市中心部への経路は自ずと限られ、日中は慢性的な交通渋滞に巻き込まれる。当然クーラーはない。朝5時に家を出て、夜11時に帰宅する労働者は少なくない。しかも多くの場合、雇い主は交通費を支給しない。さらに人種差別の存在。

リオのスラム

 ブラジルには人種差別はないなどという説がまことしやかに流れた背景は単純だ。そういう説を流す人びとの中に黒人がいなかっただけのことだ。ブラジルの黒人でブラジルの人種差別を否定する人に僕は出会ったことがない(もっとも、ブラジルはその人種差別を克服する可能性を世界でもっとも有している国の1つであることには同意できるし、それこそがブラジル文化のすばらしさの源だと確信しているが、ブラジルに現に存在する人種差別を否定することはできない)

 ブラジルの人種主義、社会格差の根源をたどれば1888年にやっと廃止された奴隷制度の問題にゆきあたる。奴隷廃止前に生まれた人がまだ生存している国がブラジルなのだ。奴隷貿易が早くに衰退した米国に比べ、ブラジルの奴隷貿易は長く続いた。その点、ブラジルの文化はアフリカの文化的遺産をはるかに色濃く持つようになるのだが、黒人の政治的、経済的地位は米国に比べてもはるかに低いのが現状である。

 こうした厳しい社会条件の中でリオの北部の若者が北米の黒人が作り出したファンクに自らの欲求の実現を見出したのは自然なことかもしれない。瞬く間にファンクはリオ市北部の町のモードとなっていった。週末の金曜日の真夜中近くになって、音楽は始まる。終わるのは明け方の4時だ。延々とフェスタは続く。

 当初、米国の黒人音楽の政治性に触発されて、ブラジルの黒人の政治的グループはこのファンクにブラジルの黒人の意識化の可能性を見出した。それ以来、政治運動の中ではこの「ファンキ」をどう見るかをめぐる論争が起きた。サンバがいわば抗議よりは融和を、怒りよりも喜びを基調とするのに対して、ファンキは抗議と怒りを表わすとしてファンキの意義を高く認める主張に対して、サンバがブラジルの伝統だが、ファンキは米国の文化のまねでしかない、文化帝国主義への従属だ云々などの応酬がなされた。確かに80年代のブラジルの「ファンキ」は米国の直(密)輸入のレコードをそのまま写していたようだ。もっともほとんど英語を解す人はいないのでたとえば "(You) talk too mach"と "Taca tomate (ターカ・トマーチ、あんたはトマトを投げる)"というように音をまねてポルトガル語で歌っていただけという。この論争とは無縁にリオ、サンパウロの都市周辺の貧しい地帯ではファンキが定着していった。

 ファンキはそれまでのブラジルの文化とかなり異なる要素を持っているように思える。サンバは黒人の街からうまれつつも、白人を巻き込み、ブラジル社会の融合の重要な要素となっているし、その寛容さはあたかもブラジルの性格をあらわしているように思える。その寛容さに比べ、ファンキは戦闘的だ。ファンキのクラブはなかなかよそものを受け付けようとしない。ファンキを通い詰める若者もたいていは友人とグループで集まり、グループで行動する。メッセージも激烈なものが多い。

 かつてサンバが生まれた時期は労働者たちは警察の制止から逃げながらもサンバを歌い、踊り続けたという。サンバはファベラ(スラム)住民の生きがいであり、誇りだが、現在、サンバは外国人観光客を招く道具にされ、サンボドロモという労働者の月収に等しい金を一夜に使わなければ見れないという金持ちの見るショーにされてしまった。現在もファベラの一角にあるエスコーラ・ジ・サンバはカーナバルの直前の週末になっても閑散としている。一方、ファンキのバイリ(ディスコ)は超満員である。リオ北部の若者は外国人が眺めている中で見世物のように踊ることにはもはや関心はないのだ。北部のファンキのクラブには外国人はおろかリオ南部の金持ち白人さえほとんどこない。

 もう1つ、書いておくべきことは、ファンキをめぐる暴力であろう。もともとブラジルは社会的暴力の厳しい国だが、とりわけ80年代以降、ブラジル社会における経済格差が一段と開くにつれて、暴力はさらに深刻になってきた。しかし、決して貧しい人間が豊かな人間を襲っているというわけではないのだ。

 とりわけ米国とコロンビアの麻薬組織との戦争以来、中米経路に代わり、アマゾンからリオに流れるルートは麻薬の重要な流通経路となり、リオの麻薬組織の抗争は近年その激しさを増している。リオ市だけで、1時間にほぼ1人か殺されている計算になる。しかし、その圧倒的多数は貧しい黒人や混血の労働者である。中産、上流階級がその暴力の犠牲になる割合はきわめて少ないのだが、黒人の労働者が殺されてもまったくマスコミは報道しないし、ひとたび中上流の白人が殺されればマスコミは大きく取り上げられる。こうした報道が中上流の貧しいものに対する恐怖感を作り上げ、警察や自警団による貧しいものへの暴力が正当化されていく。ストリートチルドレンが毎日のように殺されるのもこうした組織的暴力によってである。湾岸戦争よりも多い死者が出ている「冷たい戦争」が毎日進行しているのがリオの現実なのだ。そしてファンキの流行がこの暴力と重なって印象づけられる。

 ファンキに通う若者たちをリオではフンケイロと呼ぶ。数年前まではきわめて偏見に満ちた言葉であった。週末、突如として北部の若者(といっても10代前半の子どもが大半だったが)突然、バスの天井や窓枠につかまって数百人の集団になってイパネマの海岸になだれ込んだ。世界一美しい海のそばに住みながら、100円近いバス賃のせいでなかなか海岸にもいけない。グループになって突然海岸に遊びにきた。

本の表紙

“O MUNDO FUNK CARIOCA”
リオっ子のファンキの世界
Hermano Vianna著
Jorge Zahar Editor, 1988
ファンキの動向を分析した本

ファンキで踊るように列車のように列を作って叫びながら踊りまくる。それに海岸に優雅に寝そべる白人たちは驚き、警官が威嚇射撃をした。翌日、リオの左派と見なされている社会民主党の市長はさっそく労働者街のこどもたちがイパネマになだれ込まないようプールを北部に作るという滑稽な談話を発表した。イパネマの住民は市長に北部の労働者街からイパネマに来るバスを廃止するよう圧力をかけている。

 このファンキがこうした偏見の目とは違った目を受けるようになったのは極めて最近の現象であろう。ポルトガル語で明確なメッセージを持つ曲がヒットし始め、その中には強い政治的メッセージを持ったグループも少なくない。麻薬と暴力という状況の中で、そうした政治的メッセージが持つ教育的効果に多くの人びとが気付き出し、そうしたファンキのグループが報道番組の対象となりだした。また音楽としての支持を南部の中産階級の若者にも広げていった。こうした動きにようやくリオ南部の音楽市場がめざめたこと、南部にもいくつものファンキのディスコが生まれ、リオ南部の中流階級にも行ける環境ができたことがその流行の背景にあるといえるだろう。またこれまでほとんどファンキを放映もしてこなかったブラジル最大のテレビネットワーク、グローボが作り出した南米のスター、シューシャという女性までもがファンキの曲をリリース(その質は問わないことにしておこう)。昨年からはコマーシャルでフェルナンダ・アブリウの曲によるコマーシャルが流れ、ブラジル中にブームを引き起こすなど、白人の「洗練」されたファンキも登場してきた。しかし、マスコミにはおそらく現れることのないであろう無数のグループが週末を数万の若者をひきつけて夜を明かして歌い続けているのである。

印鑰 智哉
1996.5記
元原稿は『Music Magazine』特集ブラジル音楽の新しい世界1996・5月号

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