沖縄知事選挙報告

地位協定の見直しを求め、

新たな基地建設を許さないつどい

(主催:沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック)

講演記録

新崎盛暉(一坪反戦地主会代表世話人・沖縄大学教授)

1998年12月1日


 与えられた時間、私が感じていること、知っていることを皆さんの議論の材料にしていただく形で、お話をさせていただきます。

 この選挙の結果をどう見るかということについては、15日に投開票があって、開票の翌日の16日に二つほど文章を書きました。一つは共同通信社から配信された記事です。あちらこちらの地方紙に載っていると思いますが、沖縄では翌日の17日に琉球新報に、沖縄タイムスが二日ほどおいて19日に掲載しました。それを資料に加えるようにお願いしてあったのですが、配付された資料では、17日の琉球新報と27日の沖縄タイムスの記事が入れ違っているようです。27日の沖縄タイムスの記事も選挙と関係なくはないのですが、共同配信の記事は入っていません。そのかわり、同じ日に書いた『週刊金曜日』の記事が1ページに載っています。力点の置き方などに差はありますが、筋としてはそう違わないので参考にしてください。

 今日は関東一坪主催の集会で、私も同じ一坪反戦地主ですから、いってみれば身内です。そういう集会ですし、ここにお集まりのほとんどすべての方は大田か稲嶺かという相対的選択の中では間違いなく大田という選択をされる方々だと思います。また、私は今回の選挙においては大田昌秀の推薦者でした。今回の選挙ではというのは、前の2回の選挙では私は推薦者ではなかったということです。 推薦者になってっくれと依頼されたこともありませんでした。その必要もないと思われていたのでしょうが、今回は沖教祖の委員長の石川元平さんからぜひ推薦人にと話があったので、「僕にまで声をかけてくるというのはよっぽど追いつめられているんだなあ」と冗談を言いました。まあ、半分は冗談でしたが、半分は実感でした。

 この集会が一坪主催の集会であるということ、参加者のほとんどの方は大田支持の立場に立っているであろうということ、私自身が大田推薦者であったという三つのことを前提にしながら、話をしたいと思います。それは共同通信社をとおして一般的な新聞に原稿を書く場合とは違うし、また、『週刊金曜日』というのは読者はある意味では限られていますから、一坪とそうは違わないかも知れませんが、それとも違う形でざっくばらんに、系統的にではなくなるかも知れませんが、私が考えていることをお話ししてみたいと思います。

 それから司会者からは裏話も含めてと言われましたが、私は裏話などはあまり知っているわけではありません。

 資料の1ページにコピーがある『週刊金曜日』にも書いてありますが、この選挙は日本政府と沖縄の闘いであったと考えています。そして選挙の結果は大田知事の求心力が衰えていたことを如実に示しています。そこを巧みに日本政府や稲嶺陣営につけ込まれたということになりますが、つけ込まれるにはつけ込まれるだけの問題点があったわけです。私たちがきちっと確認して置かなければならないことは、求心力の欠如という問題は、大田知事または大田県政の問題であったということです。

 大田県政は90年、湾岸戦争の時に成立するわけで、今回の選挙は3度目ですが、総力戦になった選挙は今回が初めてだと思います。私自身すでに書いていることですが、第1回のときには自民党内部に反西銘感情というべきものが充満していて、西銘知事の求心力が著しく落ちていたという、ある意味での敵失みたいなものがあったのは間違いないわけです。2回目の選挙のときには、いわゆる保守陣営に戦う意欲がほとんどなくて、当時の新生党すら自由投票という選択をしていた。そして日本新党は大田支持の立場でした。そういう意味では今回の選挙は日本政府としても負けられない選挙という認識があって、その中で組み立てられものですから、相手陣営としても総力戦であったとことは間違いありません。

 大田知事は選挙の最終段階では、非常にはっきりと基地問題を表に出してきたし、沖縄人としての誇りだとか、わずかな金と引き替えに志を売ってはいけないとかいうことを強調していました。それが8年間一貫してなされていたら、決して負けることはなかったし、圧倒的勝利は間違いなかったであろうと私は思います。これはべつに過ぎ去ったことをどうこう言おうということではありません。今日の資料の表紙の裏に関東ブロックの「選挙結果について」という声明がありますが、この総括文書の中に「私たちは知事に導かれて運動してきたのではありません。逆に私たちの運動が時期を得て知事を前面に押し出し、その後退を押しとどめた部分も相当あったと思います」と書かれていますが、まさにそういうことであっただろうと思います。

 大田県政をいくつかの時期に分けて考えてみると、その成立当初から95年の秋までの段階、95年9月から96年9月までの段階、つまり代理署名拒否から公告縦覧代行応諾までの時期、そして96年秋から98年の2月まで、つまり海上基地反対を明言するまでの段階、そしてそれ以後、と少なくとも4つの時期には分けられるわけです。

 大田知事が民衆とともにあった時期というのは、ある意味では95年の秋から96年の秋の1年間であったといえるでしょう。もちろん98年の2月に、名護市民投票の結果を得て、彼は海上基地反対という意思表示をするわけですから、その段階ではあるべき立場に戻ったということが、かろうじて言えるわけです。

 しかし、大田知事を担いで一生懸命選挙をやった人たちにとっては、非常につらい闘いであったことは間違いないわけです。ある意味では、基本的姿勢の中に問題点を抱えながら、いわゆる革新県政が運営されてきたのです。その革新県政をどうやって、突き上げる、あるいは押し上げるかという形で民衆の運動が形成されてきたと言うことができると思います。求心力がそういう原則的なというか、基本的な問題の流れの中で主体的に欠如していたということとの関連で、様々な、例えば人事政策の偏りとか、いろんな審議会の人選が偏りすぎることによって、人間関係がおかしくなって行くなどといった副次的要素もいろいろあったと思います。例えば稲嶺陣営の後援会長、仲井真沖縄電力社長は大田県政の初代の副知事ですし、女性副知事登用として脚光を浴びた尚弘子さんもまた稲嶺陣営という配置でした。経済界総結集という立場上、仲井真氏がそういう地位につかねばならなかったということもあるでしょうが、「あと何日かすれば、さようなら大田さん、こんにちは稲嶺さんという日がやってくる」 と叫んでいた仲井真氏などの熱の入れ方は、やはり尋常ではなかったという感じがします。

 皆さんの資料の5ページに屋嘉比収と比嘉良彦の文章が対置される形で載っています。屋嘉比収は私たちの『けーし風』の編集運営委員の重要なメンバーのひとりですが、比嘉良彦氏は最初の大田知事担ぎだしのときにきわめて重要な役割を担いました。確か当時、社会大衆党書記長でした。この文章はあとでゆっくり読んでいただければと思いますが、ここで彼は明確に、大田知事の言っていることとやっていることが違うじゃないかと批判しています。これらの人たちの主体性こそが第1の問題ではあ>りますが、人の使い方もあまりうまくなかったとはいえそうです。

 それとはちょっとニュアンスが違いますが、知事選向けにと言ってもいいようなタイミングで、3人の人たちが『沖縄の自己検証』という本を出しました。それには「情念から論理へ」というサブタイトルが付いているんですが、これは結構、朝日新聞などが「新しい現実主義的な思想潮流の台頭」「守旧派的な反基地論とは違った新しい動き」みたいなニュアンスで取り上げたりしたものです。これを私の周辺では「沖縄における自由主義史観の台頭だ」などと言った人もいますが、私はそれほど過大評価はしていませんが、そちらに流れる危険性は非常に強いものだとは思います。その執筆者のひとりに直接私が言ったことですが「大田を批判したいというあなた方の気持ちはよくわかる。大田知事が主張している、例えば、沖縄の歴史は一貫して非武の思想に貫かれていたという歴史認識は僕もおかしいと思っている。しかし、ここにはあなたたちの具体的な事実に基づいた大田批判はなくて、ここから伝わってくるのは、大田人事から疎外された者たちの情念だけであって、論理ではない」 という指摘をしたことがあります。

 そういうごちゃごちゃしたものを、さき程の紆余曲折の中でたくさん生み出したというのも事実でした。この本を書いた3人は、新聞記者などによると稲嶺陣営のブレーンだそうですが、彼らが今後、立場を変えて与党として、どういう動きを示すか非常に注目されるところではあります。私はこれを沖縄における自由主義史観云々とまでは思いませんが、新しい同化主義の流れの台頭であるとは思っています。私の「居酒屋独立論」などという言葉にヒステリックな反応をする人たちに、こういう同化主義的な思想傾向の台頭をどう感じているか聞いてみたい気がしています。まあ、しかし、それはちょっと余計な話です。

 もうひとつ、今回の選挙で目立ったのは、マスコミにたいする攻撃というか、締め付けというようなものです。それを反映して、新聞社などの神経過敏な対応があったと私は思っています。11月12日の沖縄タイムスの夕刊の2版だけに、「外国人兵士によるものと見られる強姦事件」という記事が小さく載りました。2版に一回だけ載りました。琉球新報には載ったかどうか確認できていませんが、こういう記事が載ったときに、これは反基地陣営つまり革新陣営を利するものだという抗議もあった様です。その事件がごく小さく取り上げられたことだけで。とすると、沖縄では選挙ということになれば、基地が争点になりますから、選挙期間中には私たちはもしかすると、基地問題に関する的確な情報が得られなくなる可能性すら出てきます。従来は革新側から「おかしいじゃないか」というのはたくさんあったみたいですが、その何倍かが今回は稲嶺陣営から殺到して、中には不買運動とか、広告出稿の停止だとかいろいろなことをほのめかしたこともあったようです。そういうことがマスコミを非常に神経過敏にしているところがあったと思います。

 この米兵犯罪の記事とは別ですけれども、新聞で両陣営のクロス討論みたいなものがありました。お互いが相手陣営に質問をしてそれに答えさせるという記事ですが、その中に普通に読んではわからない記事がありました。どういうことかというと、大田陣営から稲嶺陣営に対して、「県会議員18人があなたに出した公開質問状をどう考えるか」ということに対して、「そんなものは事実に反するから答える必要はない。中傷だ」というような答えが載っているわけです。ところが一体何が問題なってこういう応答がなされているかは、一切事実関係が報道されていないので、普通に読んだ人にはわからない。それは「赤旗」が大きく取り上げた問題ですが、その中味というのは、那覇にある小さな自由貿易地域に稲嶺恵一を取締役とする会社があって、そこが県への家賃を4000万円とか滞納していたということを18人の革新系県議が公開質問状の形で稲嶺に突きつけたということです。もちろん記者会見をやっていますが、記事にはなっていない。つまりこういうことを取り上げることが 、選挙の際の両陣営に中立的であるという立場上どうなるかという神経の使い方をしている。結局そういうことで、この問題は訳が分からなくなってしまいました。ただし、そのことに関するビラはだいぶ出回りました。言うまでもなく、それは大田陣営が出したのですが、一方そういういわば戦術的レベルに関わりすぎて、最大の争点を見失ってはいなかったか、という内部からの自己批判的な声もあがっているようです。

 稲嶺陣営のやり方というのは、明らかに一種のデマゴギーというか、様々なデマを先制攻撃として仕掛けていた。その最大のものがいわゆる「県政不況」などというキャッチコピーでした。それについては資料に載っている筑紫哲也が書いた文章が参考になると思います。これはなかなか的確な記事であると私は思っています。

 「県政不況」と言われたときに、大田陣営は、その弁明を一生懸命やっているようなところが目立ちました。当たり前の話ですが、県政不況などということはあり得ない話で、不況というのは全国的なものです。ところが、大田陣営は、弁明にこれ努めて、これこれの政策をやっているとか、9.2%の失業率と言うけれども、9月は8.7%に下がったとか、全国的に見て景気は下降し先行きは暗いけれども、沖縄だけは観光が順調に推移したことに支えられて先行きは明るいと経済企画庁が発表しているとか、そういういわば相手の土俵に乗ってしまった面があったように思います。

 そのことによって、最大の政治的争点である基地問題があまり論議されなかったと言われています。どの程度基地問題を押し出していこうとしたのかは、問われなければいけないところだろうと思います。さっきも言ったように、最終段階になったところで、大田さんはかなり基地の問題を出して、不況がどうしたなどの弁解はなくなって、沖縄人としての誇りの問題であったり、志をわずかな金と引き替えるのかという訴えであったりしましたが、最終段階でそうなったというのは、何か追いつめられてそうなったような感じが出てくるわけです。そのこと自体を初めから一貫して言うべきであったと私は思っています。そういう点では名護市長選挙と似ている点がありました。名護市長選挙でも海上基地の問題というのは争点から意図的にはずされていったところがありますし、今回もまさにそうでした。

 それでどうなのかということですが、私は今回の選挙それ自体が敗北したことには、それほど落胆していません。ちょっと語弊があるかも知れませんが、比較的さばさばした感じであるということです。つまり、運動としては敗北感はないということです。そういうことを言ってしまっていいかどうかわかりませんが、先ほど3つの前提を置いていますから、身内の中でしゃべっているつもりです。よく「弱卒を率いて戦う」などという言葉がありますが、私は「沖縄の闘いは弱将を担いで強兵が闘っている」のだという言い方をどこかでしたことがありますが、ちょっと死者にむち打つようで気が引けますが、「弱将は落馬しても強兵は残った」という感じが私はしています 。

 ということは、一つは33万票という得票です。選挙態勢が全くなっていないと言われました。烏合の衆の集まりであるとか、どこに司令塔があるかわからないとか、そのほかに相手側が非常に巧みな先制攻撃を広告代理店と組んで仕掛けてきたとか、それでこっちは右往左往したとか、いろいろでしたが、それでも33万票あったのです。実は参議院選挙で島袋宗康さんが勝つと思っていた人は余りいなかったのに、島袋さんは勝ったわけです。その時に私は「愚直な有権者が、愚直な候補者を選んだ」と言って、本人を苦笑いさせたことがあります。最近は愚直という言葉がはやっていますが、これはもともとは私が言ったのではなくて、沖縄の歴史家比嘉春潮さんが、「沖縄人の県民性とは何か、それは愚直である」と言ったことから来ているのです。資料の中の屋嘉比君の文章も愚直の大切さを説いています。結局、参議院選挙と知事選の違いはどこにあったかというと、基礎票にはほとんど変わりがなくて、むしろ知事選の方が増えているけれども、相手側の方がそれ以上に必死で、投票率が上がった分、選挙に行かない連中を選挙に駆り出した部分で、負けている。これは名護市長選挙と似たような部分がある、つまり、3万7千票という差のなかで2万票をひっくり返せば、――オセロゲームではありませんけど――勝敗は変わったわけです。そこのところを我々はやり切れなかったわけですけれど。

 しかし逆に、この選挙で勝ってどうなるかと言うことを稲嶺陣営から考えてみると、稲嶺恵一新知事は、まともに公約を守ろうとすれば窮地に立たざるをえない。絶対不可能な公約をしているからです。たとえば、基地問題で言えば、15年期限付き、北部に陸上の軍民共用施設を作ると公約した。とりあえず、自分も海上基地には反対だったと言いだした。元から反対だったと。ある新聞は、彼は大田知事とともに、10.21県民集会の壇上にいた人物だから、大田の分身であると説明していますが、しかし、日本政府と大田知事の間で問題になったのは、海上基地です。海上基地が新しい基地の象徴として存在していたわけです。象徴としての新しい基地を争点からはずさなければ選挙には勝てないと言う認識は稲嶺氏あるいは稲嶺陣営の中にあった。それは裏返して言えば、楽観的すぎるのかもしれないけれど、民衆の闘いの成果であったと私は考えています。

 15年の期限付きなどと言うことは、ある意味では「基地返還アクションプログラム」に縛られている。もともと、「基地返還アクションプログラム」はそんなに詰めて提起されたものではなくて、県の思いつき的なこともあったし、民衆の運動の側から積み上げられて出てきたものではない。きちんと練れた案ではありません。特にあれが出てきたときには、20年も基地を容認するのかという意見もあった訳ですし……。ただはっきりしていることは、少なくとも2015年までには基地をなくすという合意と、そこに向かってのプロセスとしての基地の整理・縮小という考え方は、今回の投票の上で、大田・稲嶺陣営を越える広がりを持って存在していたとい>うことです。そのことを受けて、15年と言い、海上基地を否定して県内と言うには陸上という他はない。陸上と言って通用するわけがないから、軍民共用という。しかもその後で、民に主体を置いた軍民共用と言っておりますけれど、これはもう不可能な公約といわざるをえない。ただ不可能でも、これをペテンで覆えば不可能ではない。皆さんも気がついたかもしれませんが、1月16日の1面で稲嶺知事当選を報道している朝日新聞の2面にいろいろ解説が載っている。そこに、防衛庁の高官が次のようにいったという記事がありました。「15年ではなくて10年でもいい。つくってしまえばこっちのもんだ」これならあり得る話ですね。延期とか更新とかいうのは後でその時考えればいい。稲嶺県政が10年続くわけではない。日本政府も10年続くかどうかもわからないけれど……。まともにいえば、ここで15年などと言う期限を付けることは絶対不可能なことである。だが、今いったようなペテン的手法を使えばできるのかもしれない。

 しかし、この間、選挙の争点としてはぼやかされているけれども、日本政府と沖縄の、いいかえれば安保体制の矛盾というものは、その本質が非常によくが見えてきている。特に、いわゆる振興策と基地問題は別だというこれまでの建前が、名護の市民投票の直前くらいからはっきりと崩れてきている。そして海上基地に反対する大田知事に対する日本政府の対応、そして、稲嶺が当選するとすぐの日本政府の対応というものが、我々全体に、ここに集まった人を越えた広がりで、認識させているのは何かというと、基地と振興策は抱き合わせであるという露骨な政策であろうと思います。そういうことをある意味では、次々と暴露してきている側面、それはやはり、全体としての運動の前進ではないかと、私は思っています。ですから、稲嶺と日本政府の最初の接触の段階からを見ていますと、稲嶺は、普天間代替施設の問題をどうやって先送りにするか、と言うことに力点をおいているということです。記者たちが、基地に質問を持っていこうとすると、いやそれよりも、急がなければならないのは経済振興だという。日本政府に対しても、新聞などを見ますと確かそういっている。しかし、日本政府は必ずしも彼の言う県民党的立場を認めているとは思えない。これはやがて日本政府と稲嶺県政との、矛盾として出てくる可能性がある。完全に稲嶺が日本政府の走狗としての役割を自覚的に果たすということになれば、変わってきますけれど、彼が主観的にではあれ、自分は県民党の立場に立つつもりであるとすれば 、これは日本政府と稲嶺県政の矛盾点として出てくる大きな問題ではないかと思います。

 そういう状況を受けてなにをなすべきなのか。先ほど司会者は、これまでヤマトの運動が沖縄に励まされてきたけれど、これからは沖縄を励ます番だとおっしゃったのですが、是非そうあってほしいのですが、やはり、基地問題・安保問題をどのようにして全国化するのかということが、私は、基本的に大きな課題であると思っています。これは知事選挙の前に書いた文書の中でも書いてありますが、安保とか基地問題といった国政上の問題が、国政選挙の争点にならないで、地方選挙、知事選挙の争点になるのはだいたいおかしな状況だといわなければなりません。そういう状況を当たり前のように感じられては困るのです。

 どうやってそういう問題を全国化していくのか。最近関東一坪でも議論されているのに、本土移設を全面的に打ち出していこうという意見があります。96年の5月頃、山内徳信を中心とする中部市町村会が本土移設ということを初めて公の立場でいったことがあります。まだ県民投票以前、太田がつっぱている段階でしたが、そのときにぼくは、本土移設など不可能ではあるが、安保を全国化する手段になりうるなら私は賛成だと、『ACT』という小さな新聞かなんかに書いてだいぶ物議を醸しましたことがあります。その後、いろいろ推移をみていると、本土移設といっても、本土の一地域の問題にしかなりそうもないなという感じがしてきている。それは王城寺原の問題になったり、矢臼別の問題になったり、日出生台の問題になったりしてしまう。どうも沖縄からみると本土なのだけれど、こっちでは沖縄の問題ではなくなった代わりに、矢臼別の問題になったり、王城寺原の問題になったりしてしまって、日本の問題で俺たちが問われているという受け止め方はできないんではないか、という気がしてきました。

 最近、わたしは、むしろそれよりも、安保・基地を国民投票に問うほうが、ほんとに安保を認めるんですか、沖縄に75%の基地を集中させることを認めるのですかという問いを発することの方が、よりやりやすい方法、あるいは、より安保なり基地問題なりを全国的な問題として、日本の問題として考えさせるきっかけになるのではという気がしていま>す。まあ、そんなに確固とした信念を持っていっているわけではありませんけれど、私はやはり、基地の問題を、沖縄に閉じこめて置いて、そして、沖縄県民が振興策をとるのか、基地をとるのかなどといった高みの見物をやるのをやめさせなければ問題の解決はいつまでたってもできるわけはない、ということだけは間違いないと思っている。

 ちょうど50分ぐらいですが、今回、特に稲嶺陣営は、自民党色というものを目立たないようにしただけではなくて、この筑紫哲也が書いているように、電通の社員が50名から沖縄入りをしていて、いわばアメリカ型選挙、広告代理店と金が支配する選挙、いままでも金は飛び交っていましたけれど、キャッチコピーの使い方とか、そういう面での世論操作の巧みさみたいなのをみると、そういう面からのものすごいてこ入れが始まっている気がする。

 もう一つだけ付け加えた資料のことをいっておきますと、6ページに沖縄タイムスの記事が載っています。沖縄タイムスが使っている資料のいわば原板をこちらの事務局が入手して、左手に載せてあります。これはどういう選挙が行われたかの実相を示す資料の一つだと思います。なぜ医師会がこれだけ懸命になったのかという背景は、たぶん、自由連合、徳州会が太田側に付いたということが一つあるのかと思われます。そういう猛烈な利害が絡む選挙でもあったわけですね。沖縄タイムスのこの記事も、沖縄タイムスが攻撃される大きな材料になったわけです。その後がおもしろいので、おもしろいといっては何ですが、県の医師会の政治組織は、琉球新報に二回全面広告を載せます。普通、選挙のために全面広告を載せるのなら、両紙に一回ずつ載せるはずだけれども、まあ、一種の嫌がらせとも思えるような、そういうことをやって見せてもいます。そういう中で、今後の沖縄の新聞の立場もいろいろ問われてくる 。しかし、繰り返しますけれど、33万票は、つまり半分弱の票は、そういう一時的な幻惑にも惑わされないで、確固として存在し続けていることを私たちはきちんと評価して、そこに依拠しながら、しかし、この問題を沖縄の問題にすることなく、沖縄の県知事選挙に関心を持ったすべての人たちが、もう一度この問題を日本の問題として取り戻すきっかけにしていただかなくてはならないと思います。

 とりあえず私の感じていることを、時間の許される範囲内で、みなさんの前に、考えていただく、あるいは議論していただく材料として提供しました。何か質疑があれば補足したいと思います。


 1998年12月1日に沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック主催で行われた「沖縄県知事選報告集会」での新崎盛暉氏の講演を主催者が文章化したもの。文章化及び校正の責任は沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックにあります。


 質疑応答(抄)


選挙結果について(沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック 1998年11月)


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