Political Criminology

「国民の義務」論

憲法上の「国民の義務」は可能なのか?

アムネスティ・インターナショナル日本内部向「情報定期便」2024(改)


 小中高校と、多くの学校教育の中で、日本国憲法には三つの国民の義務があると習うらしい。らしい、と言っているのはすべての教科書を確認したわけではないし、それがある意味誤った認識だということを憲法の教科書などで補っている授業もあるかもしれないからである。

 そう、この三つの「国民の義務」という存在は、憲法の権利義務論から考えると端的に誤っていると言っても過言ではない。基本原則とされる「基本的人権」「国民主権」「戦争放棄」はそれぞれ意味があって記述されているものだが、「国民の義務」は「おかしい」のである。

 まず、この「国民の義務」の、「国民の」という点が問題である。つまりそもそも「国民の」義務などではない、というより「国民」という概念は明確でなく、しばしば誤って解釈されている。「国民」とは日本の国籍法が定めるような「国籍を持っている人」と同義ではない。そもそも、日本の国内法の中においてでさえ、「国民」の概念は多義的である。「国籍」の有無などという後期近代に発明されたあいまいで政治的な概念で整理できる概念ではない。

 「国籍」にはいわゆる「ナシオン」(「国民」を国民とされる人総体としてとらえる)論や「プープル」(「国民」を個々人の集合体としてとらえる)論の対立などが関係するし、それこそ憲法の基本原則である「国民主権」とは齟齬する概念である。最近のヘイト街宣などが「国籍」主義を振りかざすのに似て、国籍などという政治的に設定された概念と、主権論で登場する「国民」の地位とはまったく一致しない。むしろ「国民主権」は、本来その異質なものを一致させようとする圧力に制度論的に対抗するための概念ですらある。その証拠に、国籍にあたる概念には、ナショナリティだけでなく市民権、公民権、さらに「民族」(これも議論の多い概念だ)の主体性、そして「人民」(国際法上はアフリカ憲章などに明示されている)と、複数の概念が混在する存在となっている。それなら「国民の義務」でいうところの「国民」とは何なのだろうか?たぶん、それだけで大いに様々な議論が巻き起こるだろう。

 だが、ひとまず先を急ごう。国民の義務とは、通常「勤労の義務」「教育の義務」「納税の義務」とされる。かつての旧憲法ではこれらに加えて「徴兵義務」も含まれていた。さて、これらは果たして「国民の」義務だったのだろうか?

徴兵義務

 近代の徴兵義務は、フランス革命を経てプロイセン王国(ドイツ)が採用することで広まった制度である。徴兵義務は国内法上の国籍と連動させて理解する国が多い。しかし、フランスが被保護国住民(チュニスとモロッコ)の英国籍人(主としてマルタ人)にもフランス国籍を認めて徴兵義務を課そうとした1921年の事件で、常設国際司法裁判所は1922年の勧告的意見でフランスの主張を認めない裁定を示した。つまり、戦前でさえ、国籍と徴兵義務とは一致する関係になかった。さらに、戦後は良心的兵役拒否が認められることとなり、むしろ徴兵を拒否できる権利こそが世界的に認められることとなった。つまり国民の義務として徴兵義務を課すことは、権利の侵害を構成することになったのである。現在では非軍事的な代替役務を用意できない兵役義務の強制は、国際的な禁止事項として認識されている。

教育の義務

 教育の義務は、日本国憲法の26条に規定されていることからすれば、保護者の義務であり、学校教育法上では就学義務などのように、あたかも被保護児童に教育を強制する根拠であるかのように用いられることがある。しかし、これは本来、自分たちが教育を受け学習する環境を得ることができる被保護者の権利、および社会教育の分野を含めれば社会の構成員全員が有する権利を基礎としている。これらを実現すべき義務を負っているのは当然のことながら国である。教育の義務は、人びとの持つ教育への権利を保障するものであって、誰かに教育を強制することが求められているわけでもないし、むしろ不登校の子どもに登校を強いる行為は、子どもの権利の侵害として義務違反に問われることになる。また、国や地方公共団体は、多様な教育を実施できる体制を整えることを義務として負っている。少なくとも、「国民の」義務ではない。むしろ国の義務である。

勤労の義務

 勤労の義務は、ほぼ無意味だと言ってもよいだろう。働けない「国民」はどのように範囲を定めても必ず登場してくるし、そうした人びとに勤労の義務を強制することは無茶である。さらに、労働者の権利は基本的人権として明確に認められているので、これを義務で強制することは制度的にも不可能である。これを国民の義務として位置付けるためには、国民総体(ナシオン)の義務として擬制する論理を用いるしかないだろうが、それは実際の個別の権利義務関係には還元し得ない。

 勤労の義務には、勤労を経済活動の要として国家の存立基盤として意識させたいという為政者の意図を反映させた可能性はある。その表れの一つが、刑務所で行われている刑務作業の位置づけなどである。受刑者の作業義務を刑の内容として規定した刑法の規定もその一つだったが、懲役刑と禁錮刑が統合され拘禁刑に改正する動きが進行中である。労働を刑の内容とすることは、それ自体、強制労働として不当であると国際的に指摘されている(2013年社会権規約委員会の日本政府報告書審査総括所見パラグラフ14)。日本ではそうした見方を強く押し出す主張は現在必ずしも強いわけではないが、これも受刑者の基本的な人権の侵害である。かくして労働を強制することは、人権侵害の重要な要件と認識されるとともに、義務としての労働は、すでに国際的な禁止事項として成り立っている。

納税の議論

 納税の義務は、最も多くの人が誤解しやすいところである。なぜなら税は経済的な取引に伴って課されるものであり、「国民」という人間の主体に義務として課し得るものではない。そもそも、税とは所得税、関税、さらに消費税などの間接税など、経済的な取引に関連して自動的に関わってくる制度である。巷では国籍と税金が関係しているという俗流の誤解が蔓延っている向きもあるが、納税に関しては国籍はまったく関係がない。国単位での借款などにも税は関連してくる。そこに「国民の義務」を課すこととなると、それこそ第二次世界大戦のような外交的な紛争の端緒になりかねない。これは外交的な問題である。つまり、むしろ国の義務に絡む問題である。国民の義務ではない。

 さらに話を進めてみよう。近年は、納税の形態を利用したリベートという腐敗の態様が問題となっている。企業の社会的責任(CSR)の報告基準を策定したGRI(Global Reporting Initiative)が出している基準に各企業が各国に支払った税金を開示するよう求める項目がある。納税された資金が人権侵害に用いられる政治体制がある場合、納税行為そのものが国連憲章上の制裁措置違反などとして批判される可能性があるからである。このような例は、現実社会では枚挙にいとまがない。

 逆に租税回避地(タックス・ヘイヴン)を用いることで必要な納税を拒否する企業活動もある。制度的な違法は問われないとしても、本来であれば支払うべき租税を各国の法制度の穴を用いることで支払いを逃れ、不当に巨額の収益を上げているケースである。

 これに関連して、租税回避地やそこの銀行が行っている情報秘匿は、最近では重大な腐敗の温床として批判される傾向にある。情報秘匿によって、事実上のリベートを秘匿したり、本来の収益の把握をさせないようにし、本来社会に還元して再配分に回すべき原資を削減するという不公正な行為だと考えられているからである。つまり、従来的な見方で考えれば顧客のプライバシーを確保するという正当な姿を備えた行為が、実際には公正公平な税制を脅かす存在であるとして、不正であると看做されているのである。

 税金の機能には、国家が担う福祉財源の確保、所得再分配の実現による社会への資本の還元、経済的安定化を目指すという三つの目的があると言われる。しかし、租税回避地などの存在は、そうした目的に大規模な機能不全を惹き起こしてしまうという不当性がある。これは、合法、非合法の段階を超えた福祉の中核を担うべき国家、政府の不当性である。納税義務を国民の義務としてしまうことには、本来国が責任を負って構築すべき福祉システム構築の義務を、一方的に国民(それが何を指すのかはあいまいなままではあるが)に転嫁させていることになる。

 このように、国民の義務論は、本来的には「国民の」「義務」ではなく、むしろ基本的人権として国家が保障すべき内容が多く含まれている。国家は、「国民の義務」論を用いることでそれを侵害する論理を提供している。「人権」を政治的に裏返して「義務」に転嫁する手法はしばしば国家が用いる方便である。小中の義務教育の段階から「国民の義務」を教え込む現在の教育には大いに問題があるのではないだろうか。

 生徒からの反論を受け止め切れず、「連帯責任だからな!」と言いおいて生徒からの抗議の場から去っていった昔の中学や高校の教員の姿が重なる。だが、制度が設けられる理由や背景を意識しない、安易な義務論や強制される制度には、厳としてNOを突きつけるべきである。それこそが、法的な議論だし、本来の意味での「正義」の実現だろう。

 法やルールを用いて、人々を支配しようとする試みに敢然と立ち向かう「活動家の気概」こそが現在必要とされているのではないだろうか。


寺中 誠(てらなか まこと)

(東京経済大学客員教授、都留文科大学比較文化学科、法政大学現代福祉学部、立教大学大学院兼任講師、文京学院大学大学院等教員)

1980年代より国際人権NGO「アムネスティ・インターナショナル」の日本の役員や事務局長、さらにアジア太平洋運営委員長などを歴任、また国際平和環境NGOの「グリーンピース・ジャパン」の共同代表、国際子ども権利センターの理事などを歴任。各大学や大学院の教員の他、国際人権法学会理事。専門分野は、犯罪学理論、刑事政策論、国際人権法、国際刑事法など。宮下編「レイシャル・プロファイリング」(大月書店 2022)、監訳書「ヘイトクライムと修復的司法」(明石書店 2018)、編著「国際人権から考える日の丸・君が代の強制」(同時代社 2023)他

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