サイモン・ウィゼンタール 嘘の連続、「人間石鹸」のデマ

ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために ― 論証と資料

サイモン・ウィゼンタール ~いかさま「ナチ・ハンター」~ 3

嘘の連続、「人間石鹸」のデマゴギー

メンゲレに関する間違い

 ウィゼンタール神話の多くは、戦争中のアウシュヴィッツで「死の天使」という呼び名が付けられた物理学者、メンゲレの追跡に基づいている。

 何度も何度もウィゼンタールは、メンゲレを追い詰めたと主張していた。ウィゼンタールは、彼への情報提供者がペルー、チリ、ブラジル、スペイン、ギリシャ、またはパラグアイの様々な場所で、巧みに逃げ続ける物理学者を「見た」とか「惜しくも捕らえ損なった」とか報告していた。

 すれすれまでの追跡の一例は、1960年の夏に起きたという。ウィゼンタールは、メンゲレがギリシャのちいさな島に隠れていたのだが、ほんの数時間の差で取り逃がしたと報告していた。彼は、自分がその裏付け調査のために雇った情報員から、この話が始めから終わりまで間違いだったという報告を受けてからも、細部の尾ひれまで仕上げた話にして広め続けた。

 メンゲレはパラグアイの首都、アスンシオンの、いちばん立派なレストランで食事をする習慣だと、ウィゼンタールは1977年に語った。彼の想像によれば、メンゲレは一群の武装したボディガードとともに黒いメルセデス・ベンツで市内を乗りまわしていた。

 1986年になるとウィゼンタールは、メンゲレが少なくとも1984年 6月までパラグアイに潜んでいたことは「 100パーセント確実だ」と発表し、西ドイツにいるメンゲレの家族が正確な居場所を知っているはずだと告発した。しかし、事実が判明してみると、ウィゼンタールは完全に誤っていた。その後に決定的な立証がなされたが、メンゲレはブラジルで長い間、人に知られることなく貧乏暮らしをした末、1979年に死んでいた。

 実際のところ、ウィーンのウィゼンタール「記録センター」に溢れていたメンゲレ・ファイルの数々は、まったく役に立たない情報の寄せ集めにしかすぎず、ロンドンのタイムズ紙の表現を借りれば、それらは「彼の自己満足的な神話を維持するだけで、本当にメンゲレの消息について決定的な回答を得たい人々にとってはほとんど無意味なものばかりだった」。

 イスラエルの元パラグアイ大使、ベンジャミン・ヴァロンでさえも、1983年に、この詐欺的なメンゲレ・キャンペーンについて次のように慎重な批判をしている。

「ウィゼンタールは彼がメンゲレを追い詰めたという声明を周期的に出すが、それは多分、彼の活動の資金集めのためであって、メンゲレの名前は常に格好の宣伝材料なのだ」

「人間石鹸」

 ウィゼンタールは、数あるホロコースト物語の中でも最も下品な部類に属するデマゴギー、すなわち、殺したユダヤ人の死体から石鹸を製造したという罪をドイツ人に負わせる作り話を広め、それに権威を与える役割を果たした。

この作り話によると、ドイツ製の石鹸に浮き彫りされている「 RIF」という文字が、「純粋のユダヤ人の脂肪」の略称だというのである。これは実際には「国営工業用脂肪供給センター」の頭文字だった。

 ウィゼンタールは、1946年に発行されたオーストリアのユダヤ人社会の新聞、「新しい道」の一連の記事を使って、この「人間石鹸」伝説を売り込んだ。彼は「 RIF」と題する記事で、こう書いている。

「『石鹸のための輸送』という残酷な言葉が初めて聞こえてきたのは1942年の暮れだった。[ナチス・ドイツ支配下の](ポーランド)総督府政府内からの情報だが、工場はベウツェックのガリシアにあるということだった。1942年 4月から43年 5月までの間に、90万人のユダヤ人が工場の原材料として使われた」。死体が様々な目的の原材料に仕分けされたのち、ウィゼンタールによれば、「そのあとに残った脂肪の残留物が石鹸の製造に用いられた」。彼はさらに続ける。

「1942年以後、総督政府内部の人々は、 RIF石鹸が何を意味するかを非常によく知っていた。この石鹸について考えることにナチと全国政府部内の彼らの情婦たちが覚えた喜びは、文明化された世界では信じがたいものであった。彼らは石鹸の一つ一つに、魔法の力でそこに閉じ込められたユダヤ人を見出だし、第 2のフロイド、エールリッヒ、アインシュタインに成長するのを妨げえたと感じていた」

 もう一つ、1946年に発表した「ベウツェックの石鹸工場」という題の想像力溢れる記事では、ウィゼンタールは次のように、大量のユダヤ人が死刑用電流のシャワーを浴びて抹殺されたと申し立てていた。

 親衛隊員に突き飛ばされ、駆り立てられたラトヴィア人やウクライナ人は、開かれたドアを通って「浴場」に入った。一度に 500人が収容可能だった。「浴場部屋」の床は金属性で、上からはシャワーの栓が垂れ下がっていた。部屋が一杯になると、親衛隊員は床の金属板に5000ヴォルトの電流を流す。それと同時にシャワーの栓から水が注がれる。短い悲鳴が上がって、処刑は終了する。シュミットという名の親衛隊主任物理学者が、のぞき窓から犠牲者たちの死を確認する。第 2のドアが開いて「死体運搬隊」が入り、素早く死者たちを移動させる。これで次の 500人の受け入れ準備完了となる。

 今日では名のある歴史家で、ユダヤ人の死体が石鹸の材料になったとか、ベルツェックであろうとどこであろうとユダヤ人が電気処刑されたなどという物語を受け入れるものは、皆無である。

食い違う身の上話

 ウィゼンタールのことを書いた文章は山ほどあるが、彼が戦争中にドイツの支配下で何をしていたのかについては、いまだに明確になっていない。彼は 3つの別々の記事で、戦争中の自分の活動について、どうしようもないほどに相矛盾する身の上話を語っている。

ソ連の技術者か、工場の機械工か

 1948年に行われた尋問でウィゼンタールは宣誓の上、「1939年から41年の間」、彼が「ソ連の主任技術者としてリヴォフとオデッサで働いていた」と断言した。しかし、1967年に出た彼の自伝『我々の中の殺人者』では、1939年 9月半ばから41年 6月までの間、ソ連支配下のリヴォフにいて、そこで「ベッドのスプリングを製造する工場の機械工として」働いていたと主張している。

 1941年 6月にドイツがガリシア地方を掌握したのち、ウィゼンタールは一時期、リヴォフの近くのヤノフスカ収容所に収容され、そこから数ヵ月後にドイツ支配下のポーランドの東方鉄道の修理作業部門と提携関係にあるリヴォフの収容所に移送された。

パルチザンの戦士?

 ウィゼンタールの生涯の次の断片、1943年10月から44年 6月までは、最も漠然としており、彼自身のこの時期に関する記述は相互に矛盾している。1948年の尋問でウィゼンタールは、リヴォフの収容所から脱走して「タルノポル=カメノポドルスク地区で作戦中のパルチザン集団」に加わったと語っていた。彼は、「1943年 6月から44年 2月半ばまではパルチザンだった」と語り、彼の部隊は親衛隊の「ガリシア」師団や独立のパルチザン部隊などのウクライナ軍と戦っていたと言明していた。

 ウィゼンタールは中尉、その後に少佐になり、掩蔽壕や要塞線の建設に責任を負っていたと語った。彼は、このゲリラ(と思われる)部隊を、ソ連によって創設され、その管理下にあったポーランド共産党の軍隊、人民軍の一部だとほのめかしていた。

 彼は、彼とその他のパルチザンが1944年 2月にリヴォフに潜入し、そこで「人民軍グループの友人に匿われた」と語った。彼のグループは1944年 6月、ドイツの秘密軍事警察に逮捕されたという。

 ウィゼンタールは1949年 1月、ほとんど同じ供述を宣誓の下に行っている。彼は、1943年10月早々に収容所から脱走し、43年10月 2日から44年 3月までの 8ヵ月間、「森林地帯でパルチザンとしてドイツ軍と戦った」と語っていた。その後、彼は1944年 3月から 6月までリヴォフに「潜伏」していたというのだ。

 ウィゼンタールは1967年の自伝の中で、以上とはまったく異なる物語を展開している。そこでの彼の記述では、1943年10月 2日に東方鉄道の修理作業から逃げたのち、様々な友人の家に隠れて暮らし、44年 6月13日にポーランドとドイツの警察に発見され、収容所に連れ戻されたことになる。彼はまったくパルチザンへの参加や活動に言及していない。

 1948年の尋問および1967年の自伝の双方によれば、彼は1944年 6月15日に手首を切って自殺を図った。ところが驚くべきことに、彼はドイツ親衛隊の医者たちによって死の淵から救い出され、親衛隊の病院で回復したのである。彼はリヴォフの収容所に止まって、しばらくの間は「 2倍の食料配給を受け」、その後、彼の自伝によれば様々な種類の労働収容所に移送された。彼はその後の、戦争の終わるまでの混沌とした残りの期間を、いくつかの収容所を転々として過ごし、最終的にはマウタウゼン(リンツの近郊)収容所で1945年 5月 5日、アメリカ軍によって解放されたという。

 ウィゼンタールはパルチザンとしての英雄的な過去を創作したのだろうか。それとも、のちになって、共産党の兵士としての記録を隠蔽しようと図ったのだろうか。それとも、実際の身の上話はまったく異なっていて、事実を認めるのが恥ずかしいのだろうか。

 ウィゼンタールは自ら進んで戦争中の圧政者たちのために働いたのだろうか。

 この告発は、自らもユダヤ人の家系に生まれ、オーストリアの社会党の長年の指導者であり、オーストリアの首相にもなったブルーノ・クライスキーから放たれたものである。1975年に行われた広範囲な話題にわたる記者会見で、クライスキーは「マフィア的手法」という言葉を使ってウィゼンタールを非難し、「道徳的な権威者」としての彼の仮面を剥ぎ、彼がドイツの権力者たちの手先だったと示唆した。

マウタウゼンの神話

「ナチ・ハンター」以前の彼は破廉恥なデマ宣伝者だった。

 1946年に出版された扇動的な本『マウタウゼン収容所』の中で、ウィゼンタールは、マウタウゼン収容所の司令官だったフランツ・ツィェライスの「死の床での告白」だという噂の文章を広範囲に引用しているが、それによると、ハルトハイム近郊の衛星収容所では一酸化炭素による 400万人のガス殺害が行われたというのである。この主張はまったく馬鹿げており、いまでは、まともなホロコースト歴史家で、これを受け入れているものは皆無である。

 ウィゼンタールが引用しているツィェライスの「告白」によれば、ドイツ人は、その他にもポーランド人、リトアニア人、ラトヴィア人を1000万人も殺したという。実際には、この「告白」はまったくの欺瞞であって、拷問によってえられたものだった。

 その後、何年経ってもウィゼンタールは、マウタウゼンについて嘘をつき続けている。1948年 4月にも日刊紙の USAトゥデイのインタヴューに答えて、彼はマウタウゼンでの経験を次のように語っている。

「私は、そこに収容されていた15万人の内の生き残りの34人の一人だった」

 これは紛れもない偽りである。年月の経過は確実にウィゼンタールの記憶力を低下させている。なぜなら、自分の自伝の中で彼は「1945年 5月 5日にアメリカ軍が我々を解放した後にも、ほぼ3000人の収容者がマウタウゼンで死んだ」と記しているからだ。

『ユダヤ百科事典』によれば、マウタウゼン複合収容所には少なくとも21万2000人の収容者が生き残っていた。

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