『最高裁長官殺人事件』

第三章 極秘計画《すばる》

「ロッポンギー、ロッポンギー……」

 地下鉄の六本木駅でホームに降りてから、智樹はハッとした。《お庭番》チームの打ち合わせで小山田警視からも注意されたように、状況は変化しているのだ。道場寺や角村の存在を考えれば、防衛庁近辺で人目につくのは避けるべきであろう。

 徳田3佐に電話をし、私服の背広姿で駅ビルの喫茶店まで来てもらった。問題のスクランブル電話の話にはいる前に、矢野島菊治郎の調査を頼む。

「忘れるといけないから、先にこれを……」

 徳田は手帳にメモを取るが、いささか上の空の表情である。

「分かりました」特に理由も聞かずに2つ返事。手帳をしまうと同時に、カバンから分厚い大型封筒を取り出し、いきなりせきを切ったように早口でささやき始めた。

「影森さん、大変ですよ。連中はXデイに《すばる》を発動させるクーデターを計画しています。スクランブル・ソフトも《すばる》専用の最新で極秘扱いものを、そのまま使っていました」

 

「そうか。やっぱりな。おれの予感どおりだ」

 そうはいうものの、智樹の胸のうちも穏やかではない。

 徳島はテーブルの上においた大型封筒を智樹の方に押して渡す。

「スクランブル解除の分のヴィデオ・テープは、ご注文どおり2本コピーしました。内容は私から説明しなくても、聞いていただければ分かります。一刻も早く手を打つ必要がありますね」

「ありがとう。なにか分からないことがあったら、また連絡するよ。それじゃ」

 

 智樹は直ぐに秩父冴子に電話をし、《お庭番》チームの緊急招集を求めた。

 六本木駅のホームには事前の約束どおり、風見達哉が待っていた。テープを1本渡し、若干の説明だけして、午後に会う段取りを決めた。

 徳島がいった《すばる》は、自衛隊の国内治安行動用の部外秘マニュアルである。かつて《三矢作戦》として問題にされた《昭和三八年度統合防衛図上研究》以後、さらに整備され、適宜改定されている。

 智樹はすでに、これらの部外秘資料を持参していた。それまでのすべての情報から、大体の予測が立っていたからである。乗っていた地下鉄が霞ヶ関駅に近づく頃には、コンピュータ作業に似た記憶のひらめきが、パチパチと智樹の脳細胞のシナプスを焦がし始めていた。

 実戦さながらの治安出動訓練の記憶もよみがえる。

 

「ただ今から暴徒を鎮圧する。かかれ!」

 連隊長の怒号が高性能スピーカーで轟いた。

 1500名の〈治安出動部隊〉が1000名の〈デモ隊〉目がけて一斉に突進を開始した。智樹は足下の大地が揺らぐのを感じた。検閲台の上に立つ陸幕長さえも、必死に歯をかみしめ、心の中の動揺を押さえつけているように見えた。

 血を同じくする日本人を敵方に想定する訓練には、やはり、異様な緊迫感があった。

 1969年10月4日、北海道は千歳の原野で、陸幕長検閲の治安出動訓練が行なわれた。前日の3日には東富士演習場でもマスコミ向けに公開訓練を行なっているが、4日の方が規模も10倍で内容も厳しかった。防衛庁は3日にマスコミ関係者を引きつけておいて、秘密裡に翌日、本命の訓練を北海道で実施したのである。タイミングとしては翌1970年予定の日米安保条約の再改訂と、それへの反対運動に焦点が合っていた。

 3日の公開訓練の模様を『サンデー日々』はこう描いている。

 

「戦車が地響きをたてて進む。黒煙がもうもうと上がる。真上の戦闘ヘリコプターからはカモフラージュの戦闘服を着た空挺隊員が縄を伝ってスルスルと降りてくる。突撃ラッパが耳元で鳴る。鉄カブトに小銃。完全武装の兵士の群れ。恐ろしい、なんて生やさしいものではない。まるで戦場だ。いきなりタイム・トンネルをくぐり抜けて激戦地に放り込まれたかのようなショックに襲われた」

 

 デモ隊が100名でAビルとBビルを占領し、200名の治安出動部隊がそれを制圧するというのが、3日のマスコミ公開訓練の規模と主な内容であった。AとBのビルは建物だけで、その業務内容は定かではなかった。

 だが、4日の秘密訓練は、参加人数も1桁上であり、〈N地区の暴徒〉を鎮圧すると同時に〈N地区を封鎖〉し、〈N放送局〉〈A新聞社〉〈B電力会社〉などの重要機関を〈警護〉するという具体的な内容になっていた。〈警護〉は現実的には〈占領〉である。〈封鎖〉と〈占領〉を合わせれば、戒厳令の原型となる〈合囲〉下の状態と同じである。だから、この訓練が秘密裡に実施された理由については、参加した自衛隊員が〈クーデターのための訓練ではないか〉と内部告発し、その結果、国会でも問題となった。

 

「抵抗を止めて解散せよ!」

「解散しなければ実力を以て排除する!」

「催涙弾発射!」

「放水開始!」

「戦車前へ!」

「障害物を突破せよ!」

「首謀者を逮捕せよ!」

 

 デモ隊は火炎ビンを投げる。古タイヤに火を放つ。猟銃を撃つ。催涙ガスが漂う中を消火器を抱えた治安出動部隊が前進する。隊員は小銃を肩にかけているが、その訓練では撃たない。だが……本番用のマニュアルでは、必要とあれば撃つことになっている。

 その後、自衛隊の治安行動用の兵器や装備が次々に整備され、主要都市周辺の基地に常備されている。

 特に、首都東京の周辺に配置された各部隊は、一夜にして首都を封鎖し制圧しうる態勢に置かれている。1974年の春には関東周辺の図上演習が行なわれた。夏には本州と四国の陸・海・空自衛隊が合同して〈大震災対処演習〉の名目による〈非常呼集〉の訓練を実施したが、そのときの出動態勢は3時間で完了した。

 

 そういう状況下で部外秘発表された論文『国家と自衛隊』が外部に漏れ、国会でも〈自衛隊のクーデター研究〉ではないかと追及された。

 論文の筆者は〈体制を打倒して本来の憲法秩序体制に復帰させる〉必要のある事態を予測し、そのような事態における〈幹部の心構え〉についての論拠を、次のように外国の実例研究に求めていた。

〈『軍隊と革命の技術』の著者、K・コーリ夫人は豊富な例証をあげて歴史の結論として、革命が成功するか否かは正規軍隊の動向、特に将校団の動向如何がその成否を決したと述べております……〉

 そして、そこから筆者は、次のような結論を導き出しているのであった。

〈現憲法秩序体制を破壊する兆しのある場合における自衛隊の行動は、国民の動向と関連してタイミングの選定が必要であろうかと思いますが、機敏果敢に行動して禍根を絶つ必要があろうかと思います。……日本の革命を左右するものは自衛隊特に幹部の動向であることを自覚して更に憲法秩序体制護持の覚悟を新たにしたいものと思います〉

 つまり、外国の事例の〈将校団〉が〈自衛隊特に幹部〉に置き換えられているわけであり、これはシビリアン・コントロールの原則の否認と受け取られても仕方なかった。

 智樹はそのとき、防衛庁本庁の防衛局調査課にいた。問題の論文の執筆者や、その周辺の突き上げグループの動向は一応押さえていた。智樹の脳裏にチリチリとよみがえろうとしていたのは、その連中に関する記憶である。彼らの強力な後ろ楯として名が聞こえていたのが当時は現役陸将、装備本部長の角村丙助であった。すでにその頃から角村と兵器工業会とのつながりや金回りの良さが噂されていた。道場寺満州男ら若手と、六本木界隈で飲んではオダを上げているという報告も何度かはいっていた。

 

 《お庭番》チームの全員が一緒に解読ヴィデオを見た。

 智樹が注釈を加えるまでもなく、クーデター計画の打ち合わせであることは誰にも分かる内容だった。すでに基本計画ができている作業について、数度の点検の会議が持たれているものだった。

〈Xデイ以前にバラマキ工作〉が予定されているらしく、その資金を〈一度に200億円以上動かすよう努力中〉だという。憲政党の〈派閥のトップが動かす資金でも年間に10億とか20億の単位〉なのだから、政界やマスコミ界への〈買収工作資金としては史上最大の規模になる〉という豪語もあった。〈興亜協和塾での作業の進行状況はどうか〉という問答があったが、その〈作業〉の内容は分からなかった。

 計画の実務的な中心になっているのは角村と道場寺であった。角村は、陣谷弁護士からの極秘情報だと断わって、智樹らの秘密グループの活動状況を道場寺に伝えていた。〈明日が告別式だが、最高裁の弓畠耕一長官の失踪、死亡には謎がある〉〈ヴィデオ・テープを撮られたらしい。足がつく恐れがある〉といった調子である。

 道場寺満州男が〈影森たちは余計なところに鼻を突っ込み過ぎる〉〈秘密を知り過ぎてる〉〈我々の計画を嗅ぎつけるかもしれん〉〈そろそろ消しといた方が良いんじゃないか〉などという。

〈いや。そうもいかん〉角村がさえぎる。〈《いずも》の正規のメンバーに手をつけると、逆にこちらが火傷をする。《いずも》は敵に回わさない方が良い……〉

〈しかし、影森は風見とかなんとか、部外者をやたらと引っ張り込んでいる〉〈若造の新聞記者と刑事がまだつきまとっている。押さえが効いていない〉何度も同じ趣旨の発言をくりかえす道場寺満州男の声は粘っこく、目つきには蛇を思わせたものがあった。

〈2人は上手に始末した〉というのが最後の報告であった。

「これが角村」「これが道場寺」智樹は画面に注釈を加えた。テープが終わると、

「Xデイのマスコミ報道計画は前回の《いずも》の会議で報告されたとおりです。もう何年も前からマスコミ各社がそれぞれに非常事態対策要領を作って備えています」

「そのドサクサを狙うなんて、考えたものね」と冴子。

「これが戦前だったら、どうでしょう」と絹川。「2.26事件の行動計画が事前に漏れたようなものですかな」

「ええ。しかし」と智樹。「2.26の行動計画は下級将校中心の粗雑なものです。今度の計画はもっと規模が大きいようです」

「そうですね」と絹川。「2.26は、人数でいえばたかが1000そこそこ程度の反乱部隊の直線的行動でした。他の部隊の呼応は単なる空想的な期待に終わっています。それでも、あれだけの騒ぎになったんですからね」

「2.26の効果はむしろ、そのあとなんです」智樹は続けた。「一般にはあまり知られていませんが、そのごの流れを見ると、皇道派のお粗末なクーデターを土台にして、統制派の方が、事前に準備していたカウンター・クーデター計画に絡め取ったことになります。それが以後の軍部独裁の強化につながるわけです。参謀本部で統制派の若手参謀が作成していた《政治的非常事変勃発に処する対策要綱》が発動される結果になったのです。ところが今度の計画には、この双方が含まれています。このテレヴィ会議の内容だけからでも、5段階以上の行動展開が考えられます。まず最初に、極左グループを装った部隊が天皇制打倒を叫んで各所を襲撃する。目玉は皇太子、というより新天皇の襲撃と防御戦。お次がマスコミ機関の奪い合い。そこで《すばる》の発動です。鎮圧する側は、警視庁機動隊の出動に続いて、自衛隊の全面的出動で事実上の戒厳令を敷く。ここからは、反乱分子の暴動を口実として警察と正規軍の全体を動かすカウンター・クーデターなんです。もちろん、最初の暴動がヤラセなんだけどね、これをテレビでジャンジャン流して本物だと信じ込ませる。ここが、この計画の最大の目玉でしょうね」

「だとすると、ですよ」と絹川。「《すばる》の最新版の増し刷りが終了したという報告がありましたね。あれは既製のもののコピーでしょ。つまり、その部分はすでにでき合いの行動計画書になっていて、いざ鎌倉というときに必要な部署には全部配られているわけですね。すると、クーデター計画の台本には、単に《すばる》としておけば良い。いや、なにも書かなくても分かるでしょう。ここからあとは防衛庁なり警察庁なり国なりが既定方針どおりにやってくれるとなれば、その部分については、陰謀グループ独自の台本は必要なくなりますね」

「つまり」冴子が確認する。「クーデター計画の陰謀全体については、証拠となる台本がないという可能性もある。そういうことですね」

 智樹はさらに今度の計画の特徴を指摘した。

「日本全体の平和ムードとの落差が、ここでは逆のバネに働いているんです。〈まさか、こんなことが〉という感じの今の政治状況ですが、それが興亜協和塾の連中には我慢ができない。このまま行けば彼らはますます孤立する。だから、逆にはねるんです。そういう状況だから、戦術は当然、少数精鋭型になります。しかし、軍資金は豊富です。なんらかの手段で、《すばる》発動の状況さえ作り出せば、あとは機械のように自動的にマニュアルどおり動く巨大集団の存在。これが一番怖い点です」

「よろしいかな」絹川がいつにも増して慎重な声。「弓畠耕一の名が出たということは、やはり、なんといっても自衛隊関係者の悲願、憲法第9条の改正との関係でしょうね」

「ええ。皆が2度や3度は、憲法違反の存在だの税金泥棒だのとののしられて、骨身にこたえていますからね」

「クーデターで憲法改正を図る場合にですね、憲法第96条、衆参両院で総議員の3分の2以上の賛成による発議、国民投票の過半数による承認という条項はどうなりますか」

「これは明らかにクーデター計画の最大の焦点です。今の日本では、いきなり現行憲法の停止という手段は取りにくいでしょう。だから、できるだけ合法的に憲法改正を図ることになります。手段は脅しか金か。金については〈1度に200億円以上動かすように努力中〉……つまり、クーデターを背景に可能な限り、野党議員の寝返りを策す」

「オホホホホホッ……。その買収資金の元をただせば、あの生アヘン。ますますオドロ、オドロですわね」と冴子。

「ただしですね」智樹は持参したファイルをめくる。「私も防衛庁関係の研究会に参加したことがあるのですが、現行憲法には法律的な整備が不十分な箇所がいくつかありまして、これもその1つなんです。クーデター計画のグループも、この研究を知っているはずです」

「憲法にも穴場情報あり、ですか」小山田はさも嬉しそう。

「アッハハッ……ところがこれは、憲法学者や国会関係者なら誰でも知っていることらしいんで、情報価値は低いですよ。問題は〈総議員〉という用語の解釈なんです。本来なら、憲法が定められた直後に、不明確な用語の解釈は法律で定めておくべきなんですが、この〈総議員〉の解釈は定まっていないんです」

「議員の定数とは違うんですか」と冴子。

「そう。公職選挙法第四条の〈定数〉を〈総議員〉の数だとするのが、一番有力な学説です。ところがこの公職選挙法自体が、憲法第43条の〈議員の定数は、法律でこれを定める〉という規定に基づいている。つまり、憲法にはすでに〈定数〉という用語がある。すると、憲法で〈定数〉と〈総議員〉という別の用語を用いている以上、別の定義をすべきだという理屈が出てきます。しかも実際には、死亡や辞任で定数を満たしていることの方が珍しいんです。そこで、生存議員数説とか、議員資格があるものの現在数説とかが出てくるんです。人数が多い順にいうと、〈定数〉、〈生存数〉、議員資格の〈現在数〉ですね。今の国会は憲政党が過半数ギリギリですから、どうやって合法的に〈総議員〉の数を減らして解釈することができるかが、マル秘の離れ技になってきますね」

「今の日本では」と絹川。「反対派をバサバサ殺すのは無理ですから、〈生存議員数〉説も現実的ではない。議員資格の〈現在数〉説が一番数も少ないし、最も現実的ですね。憲法第55条〈議員資格争訟の裁判〉……〈議員の議席を失はせるには、出席議員の3分の2以上の多数による議決を必要とする〉……〈出席議員〉を減らすのは色々な方法があるでしょう。テープにも〈逮捕者名簿の点検はしたか〉というのがありましたね。頑固なグループを口実を設けて逮捕、投獄する。最初の襲撃事件の指導責任というのが一番強力な罪状ですね。これでまず反対派の出席を減らすことによって〈出席議員〉の3分の2の多数を確保し、反対派の逮捕者の議員資格を奪う。これで〈現在数〉は減ります。今度は、〈現在数〉が〈総議員〉の数だという法律なり決議を通す。最後に〈現在数〉の3分の2の賛成で憲法改正の発議をする。解釈に異議があれば最高裁判所の決定に待つ、という順序ですか」

「最高裁も一役買う」と智樹。「そのときが弓畠耕一の出番だったのでしょう。最高裁がいったん合憲の判断を下せば、これをくつがせすのは容易じゃありませんからね」

「それと」と冴子。「影森さんが先ほど、〈実質的な戒厳令布告〉といわれましたが、これも研究済みですか」

「はい。それも」智樹は別のファイルを取り出した。「治安行動で予測される事態への対策は、ほとんどの細目に至るまで実質的に完成しています。一番のポイントは、国内の治安行動に関する限り自衛隊が警察の要請で出動すれば、それでこと足りるという点です。基本になるのは警察法第71条〈内閣総理大臣は、大規模な災害又は騒乱その他の緊急事態に際して、治安の維持のため特に必要があると認めるときは、国家公安委員会の勧告に基き、全国又は一部の地域について緊急事態の布告を発することができる〉……これが自衛隊法につながります。自衛隊法第78条〈内閣総理大臣は、間接侵略その他の緊急事態に際して、一般の警察力をもってしては、治安を維持することができないと認められる場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる〉……行動の細目は、地震対策などの諸法規ですでに整備済みですし、警察も自衛隊も訓練を経験しています。自衛隊の行動上支障があれば新しい法律を作りますが、それらの諸法規を援用する形で議会の審議が省略できます。ほとんど表紙を取り代える作業だけ、ということです」