『最高裁長官殺人事件』

第三章 極秘計画《すばる》

「あん畜生奴! 勝手な真似しやがって!」

 田浦警部補はののしり続けていた。

 弓畠耕一の告別式終了後しばらくしてから、田浦の下には覆面パトカーからの連絡が刻々とはいって来るようになった。田浦の密命を受けた2人の刑事が覆面パトカーで長崎記者を見張っていたのだが、奇妙な3台の黒塗りパンパスを尾行し始めたので、急遽無線で連絡を取ってきたのである。2人は浅沼の顔も知っていたので、長崎を乗せた小型乗用車のサングラスの主が浅沼らしいと報告してきた。ナンバーで割り出すと、間違いなく浅沼の自家用車だった。

 それが〈あん畜生奴!〉の始まりである。小山田警視に連絡すると、即座に、

「危険だな。止めることはできないか」

「浅沼には命令できても、あのブンヤには、かえって反発されるのが落ちで……」

「うむ。ともかく見張っててくれ」

 そうなった以上、無線がつながる電話の近くを離れられず、結局、デスクに張りつけになる。〈あん畜生奴! おれを殺す気か〉とののしり続けながらも、実のところ、自分の怒りが、やや倒錯したものであることに気づいている。本来なら自分たちがやらなければならない捜査を、新聞記者や非番警官のボランティアが代わってやっているわけなのだ。箝口令にしばられている自分の立場が恨めしい。

〈行先を調べるだけなら、どうってことはないだろ〉

 ターミナルで《興亜協和塾》とたたくと、〈パスワードを入れてください〉と画面に出た。部外秘情報だ。自分の暗証番号を入れる。

  〈組織名称   興亜協和塾

   目的(概略)

 大東亜戦争戦没者の遺児を入塾の対象とし、生活費及び学費を無料支給する。学校教育の外に塾内でも歴史、語学、武道の錬成に努める。広い見識を持ち、正義と廉潔を重んずる人士を育成する。

   活動概況

 結成以来の入塾者は累計1200名を越えた。社会人となっても塾生の身分は変わらず、自衛隊関係者が多い。目立った社会運動の実績はないが、潤沢な資金を誇っており右翼団体間に隠然たる影響力を持っている。憲法改正による天皇の元首化、自衛隊の国防軍化、年号記載の元号への一元化等を旗印とする。

  結成年月日  1946年2月11日
  本部事務所  静岡県清水市
  主宰者    塾長 久能松次郎〉

〈久能松次郎〉をチェックし、〈名寄せ〉のキーをたたく。

〈1906年大連生まれ。元満州映画協会嘱託。興亜協和塾塾長〉

「これだけ?」部外秘情報にしては、あまりに簡単過ぎる。拍子抜けだ。

「ううむ」うなっているところへ、覆面パトカーの無線連絡がはいる。

〈ええ……ただ今、目的地に到着したようです。興亜協和塾………〉地図上の位置と建物の様子を報告してくる。〈……浅沼の車も前方に停車中です。以上〉

 田浦は覆面パトカーに注意した。

「危険な相手だ。慎重に見張れ。なにか動きがあったら、すぐ知らせろ」という間に、

〈ただ今2台の黒塗りパンパスがもどって来ました。Uターンして浅沼の車をはさみ、8名の黒ダブルが下車。あっ、取り囲んでおります。……浅沼の車は黒塗りパンパスに前後からはさまれたまま、塾の構内にはいりました。これは……拉致であります〉

 無線の声は途中からうわずり始めた。

 田浦警部補は大いに迷った。しかし、それだけで踏み込ませるわけにはいかない。

「見張ってろ」といい続け、とりあえずまた小山田警視に連絡を取った。

 

 長崎記者と浅沼刑事は塾の応接間に閉じ込められた。

「一応、ご身分の確認を」

 ドスのきいた脅しをかけられた浅沼は、あわてて身分を明かし、警察手帳を示した。

「う……」黒ダブルの若者は一声うなったのち、浅沼の顔をにらみながら立ち去った。ドアの曇りガラス越しに、廊下の椅子に座っている見張りの姿が見える。カギはかかっていないが、無理に出ようとすれば事態は悪化するだろう。そのまま30分。最初は座り心地のいいソファも、かえって疲れるものだ。イライラが極限に達した頃、

「おい」長崎が浅沼の脇腹をこづく。

「なんですか」浅沼がささやく。

 長崎は黙って天井の火災報知センサーを指差し、ポケットからライターを取り出す。

「危ないなあ……」最初は逃げ腰だった浅沼も、長崎とのにらみ合いに負けた。

 2人で静かにテーブルをセンサーの真下に運ぶ。ソファのクッションをテーブルに乗せて、その上に長崎が靴のままそっと立った。ライターを点火してセンサーに近づける。

 すぐに警報が鳴り出した。ドアの外の見張りが動いた。ドタドタと走る足音がした。

「今だ」とささやいて長崎は浅沼の肩をたたき、一緒にドアに突進した。

「火事だろ! 火事はどこだ!」

 叫びながら、正面の玄関に向かって走る。しかし、そちらには黒ダブルと戦闘服の若者が固まっていて、突破しにくい感じだった。1人が「あいつらを逃すな」と叫んだ。

 そのとき、廊下の向かい側に人影が見えた。大きな厚いドアが開いて、普通のジャンパー姿の中年男が4,5人、不安げな顔をのぞかせている。そちらの方が安心できる感じなので、長崎はとっさにそのドアの内側に飛び込んだ。浅沼も続いた。

 

 覆面パトカーは、指示どおりにそのまま待ち続けていた。田浦警部補が小山田警視に連絡を取って相談したのだが、やはり、待つしかないという結論になったのだ。

 浅沼の車が連れ込まれてから2時間ほどが過ぎた頃、鉄門が開いて大型のランドクルーザーが出て来た。港の方向に向かって走り、15分ほどでもどって来た。

 陽が落ちて、あたりが薄暗くなってきた。時刻は午後6時過ぎ。再び鉄門が開いて大型のランドクルーザーが出て、やはり港の方向に向かう。少し間をおいて赤い小型車が出て来た。覆面パトカーは無線で報告した。

〈ただ今、浅沼の車が出て来ました。浅沼が運転し、長崎記者が助手席に座っています。方向は反対です。帰る方向ではありません。清水港に向かっています。尾行します〉

「清水港だと。……人に心配かけときながら、ついでに物見遊山か」

 田浦は舌打ちした。

 浅沼の車は人気のない真っ暗な貨物船用の埠頭に乗り入れた。灯台の明かりが遠くで回転していたが、近くには照明がない。覆面パトカーは倉庫の陰に隠れた。埠頭に大きな箱やロープを巻いた束などがあって、覆面パトカーの位置からは浅沼の車の上半分しか見えない。それも星明かりだけの空を背景にしたシルエットである。10分ほど経って車から2人が降り、埠頭に立った。上半身が見える。なにやらいい争っているうちに、いきなり殴り合いが始まった。2人の姿がフッと消えたと見るや、

「ボチャーン。バチャーン」水に落ちる音が、2度続いて響いた。

 覆面パトカーの2人の刑事は事態を無線で報告し、ただちに飛び出した。埠頭に駆けつける。波の照り返しの合間に人間の身体と思える物体が2つ、プカプカ浮いているのが見えた。周囲を見回すと、埠頭の端にはモーターボートがつないであった。2人の刑事はそれに飛び乗ってロープをほどく。モーターははずされているので、手で海水をかく。その間、5分と経っていない。だが、それだけ手早く近づいて拾い上げたのに、水に落ちた2人はすでに息をしていなかった。埠頭に運び上げて人工呼吸を試みたが、効果はあがらなかった。

〈おかしいな。たぶらかされたみたいだ〉というのが、2人の刑事の即座の実感だった。殴り合って海に落ちただけで、こんなに直ぐに死ぬわけはないのである。しかも、落ちた音がしただけで、水中で暴れる音もせず、声も聞こえなかった。

「奴ら、なにか仕組んだな」1人が叫ぶ。

「そうだ。先刻の喧嘩は別人の芝居だ。先に殺しておいて、すり換えたんだ」

 そのとき、近くで車が動き出す音がした。2人はダッシュした。倉庫の反対側に回って道路に出ると、大型のランドクルーザーが角を曲がって姿を消すところだった。

「間違いない。あれだ」

「畜生! なめやがって」

「追うか」

「いや。追っても無駄だ。指示をあおごう」

 覆面パトカーの2人は事態を無線で報告した。田浦は2人に現場でそのまま待つように指示し、小山田警視に連絡を取った。警視庁から小山田と田浦が鑑識班を伴って現場に急行した。

 鑑識の結果、長崎と浅沼の血液からはアルコール分がたっぷりと検出された。2人とも顔面と上半身、両手の拳に軽い打撲傷を負っており、酔って殴り合いの喧嘩をした場合と同じ状態だった。2人の肺の中の液体は、現場で採集した海水と同じ成分だった。

「あれだ」2人の刑事は異口同音に叫ぶ。「ランドクルーザーで運んできたんだ」

「あのときだな」田浦警部補も重苦しくつぶやく。「途中で出て、すぐにもどって来たときだ」

「そうだろうな」小山田警視は渋い顔。「ポリタンクに詰めてきた海水を浴槽に入れる。そこに殴り倒して口から無理矢理ウィスキーを流し込んだガイシャを沈めて溺死させる。海水が肺にはいる。すぐに海に運んで投げ込んだから、死亡推定時間に大差は出ない。しかし、これを立証するのはむずかしいな。喧嘩の替玉説も警官が目撃者ではね……」

「申しわけありません」2人が異口同音。

「いや。謝ることはない。相手が悪過ぎたんだ。起訴をすれば、それこそ最高に悪知恵の働く弁護士を雇うだろう。君らの奇妙な目撃証言以外にはなんの物的証拠もないんだから、これは勝負にならん。口惜しいがね、しばらく様子を見るしかないな」

 

「私の鼻先で偽装殺人をやってのけられたようなものです」

 テレヴィ画面の中の小山田の表情はいかにも重苦しい。

「奴らは殺す前に興亜協和塾の名乗りをあげて警視庁に身元確認の電話をしています。長崎記者についても警視庁の記者クラブに所属していることを確かめています。さらに覆面パトカーが尾行していることも承知のうえです。殺された2人が大した事実をつかんでいたとも思えませんから、これは明らかに我々に対する牽制です。余計なところに鼻を突っ込むなという脅しでしょう」

《お庭番》チームの雰囲気は緊張の度を増していた。ヒミコを通じての緊急呼び出しによる深夜のスクランブル・テレヴィ会議なのだが、お互いの息遣いが身近かに感じられるほどに臨場感が溢れていた。

 一同はすでに、田浦警部補が見たような興亜協和塾のデータだけでなく、さらに極秘の情報についても報告を受けていた。まずは怪しい老人の正体が、かつて甘粕機関の中心だった元特務少佐の古葉に違いないという智樹の情報である。それを受けた途端、

「なるほどッ」絹川が深くうなずいた。「それで見事に読めましたね。8トンの生アヘンを売りさばいたのは、まさに当時の中国大陸のアヘン・マーケットを知りつくしたプロ中のプロだったんですよ」

 次には小山田が、警視庁のデータベースにもはいっていなかった超々極秘情報を、皆に送った。ヒミコの画面には意外な人名が並んでいた。

〈組織  理事会  理事長 下浜安司〉

「なに! 理事長は前首相」

 智樹は思わず大声をあげた。そのほかの平理事たちも、驚くべきメンバーであった。

〈清倉誠吾〉(憲政党幹事長)
〈江口克巳〉(通産大臣)
〈筋沢重喜〉(都知事)
〈角村丙助〉(元陸幕長・五島重工業相談役)
〈正田竹造〉(大日本新聞社長)
〈陣谷益太郎〉(弁護士)
〈剣崎近雄〉(軍事評論家)
〈島山常次〉(元陸軍少佐・作家)
〈石立兼策〉(経営連合専務理事)
 …………  ………………

「軍隊、警察、検察、マスコミ、政界、財界……」絹川が呆れる。「現職の政治家が古色蒼然たる右翼団体の理事に名を連ねていて、よくも今まで問題にならずにいたね」

 小山田がこともなげに説明する。

「この内容は、公安情報からはずされていて、自治省の政治団体の報告にもはいっていなかったんですよ。一応、《いずも》のデータベースに収めますが、我々のコードと暗号でロックしておきます」

 考えてみれば《お庭番》チームも、弓畠耕一の告別式以前には興亜協和塾という団体の名前さえ知らなかった。ところが、〈潤沢な資金を誇っており〉という報告の内容は、常識では考えられない性質のものだった。通常の《政治献金》はゼロで、《事業収入》だけ、それも《利子》と《配当》のみだったのである。

〈興亜協和塾 198X年度事業収入 利子配当他 14億3572万円〉

「こりゃ凄い。相当な財産があるということか。ええと……」絹川がヒミコを使って計算する。「年利が5パーセントとして、基金を逆算すると、287億1440万円。おそらくそれ以上でしょう」

「満蒙の怨念がこもる超巨大機密費……ですか。しかし、殺しに至る動機が、もう一つはっきりしませんね」小山田が首をひねる。「彼らは、この軍資金を使って、刑事や新聞記者に知られては困るような仕事をしていたのでしょうか」

「やはり、アヘンがらみの過去を隠すだけじゃ説明できない狂暴さでしょ」と冴子。

「そうです」絹川が強くうなずく。「ああいう鉄面皮な連中のことです。マスコミがよう騒がない昔話で、急に尻に火がつくわけはない。今の今、なにか探られては困る事情があるんですよ。間違いなしに現在進行中の問題がね。あの老人の突然の出現は、いかにもわざとらしかった。しかも、陣谷さんと一緒に大日本新聞の正田社長がぴったり脇にくっついていた。彼は日本最大のマスコミ・グループのワンマンです。つまり老人は今、なんらかの形でマスコミを利用しようとしているのではないか。または逆に、マスコミを握る正田が老人を利用しようとしているのか。ところが、政界の実力者である清倉誠吾は苦々しい顔をしていた。防衛庁OBで軍事産業界黒幕の角村は、困っている表情でした。このあたりに謎を解くカギがありそうです。彼らの関係を洗い直して見るべきでしょう」

「私の方はすでに、あの塾に張り込みチームをつけました」と小山田。「近所での聞き込みを続けます。我々としては、警官殺しをそのままにしてはおけませんからね」

「それじゃ」と冴子。「検察関係の清倉さんと陣谷さんの身辺は、私と絹川さんで当たりましょう。あとは影森さんに期待してもよろしいかしら」

「結構ですよ。角村に関しては、防衛庁調査部の後輩にも協力を依頼します」と智樹。

「影森さん自身には、例の千歳さんと会っていただかないと……」と冴子。「返事が来ました。北京空港でコンタクト」

「分かりました。調査の手配が済み次第、直ぐに出発しましょう」