『最高裁長官殺人事件』

第三章 極秘計画《すばる》

「こちらも、ここから早回しにします。あとは同じ画面が続くだけですから」

 映し終わって、もどしボタンを押すと、一斉にしわぶき、空咳、溜息がもれた。

 智樹は持ち帰った2本のヴィデオ・テープを映して《お庭番》チーム全員に見せ、不自然な編集の跡などの疑問点がないかどうかの検討を求めた。巻きもどしたテープをケースに収めて冴子に手渡す。胸中の複雑な想いとは裏腹に、わざと恭しく腰をかがめ、おどけてみせた。

「ご苦労さまでした」冴子も智樹のしぐさに応じて重々しく受け取った。「不肖ながら私、これを間違いなくご注文主にお届けします」

 一同は一斉に拍手した。

「まあ。やれやれ、という感じですね」と小山田。「弓畠耕一失踪事件そのものには、これ以上の組織的背後関係はない。そう結論づけて良いのでしょうね」

「ええ」と絹川特捜検事。「しかし、もう1つ最後の当てがはずれて、呆気ないような気分もしますがね。やはり私も蒙疆の生アヘン盗難事件の真相を知りたかったんです。弓畠耕一長官のいまはの際の告白とかいう奴でね」

「そうでしょう。でも私」と冴子。「なんだか、電話を受けたときから、そんな予感がありました。だって、内容はおっしゃらないけど、影森さんの国際電話の声には、ただただ疲れたというか、祭りが果てたあとのような虚脱感がありましたもの」冴子はヴィデオ・テープを丁重に金庫に納めて鍵をかけた。振り返ると、「でも、とりあえず、ひと安心。私、ヴィデオ・テープの内容如何では、北園夫妻と千歳さんの命がかかっているのではないかと思って、ハラハラしていましたのよ」

「そうですね」と絹川。「誰がとはいいませんが、目撃者を消せということで、プロの殺し屋を差し向けようと考えていたかもしれませんね。過去の秘密だけでなく、目下進行中計画の秘密もありそうですから。……私も、あのヴィデオ・テープを見るまでは気が気じゃありませんでしたよ。北園夫妻はお気の毒ですが、この内容ならまさか、千歳さんの命までは狙わないでしょう」

「しかし」と智樹。「北園夫妻が自ら死を選ぶとまでは予測できませんでした」

「死んでくれてひと安心の連中がいるのが、ちょっとしゃくにさわりますがね」小山田が目玉をギョロリ。智樹をじっと見つめた。「影森さん。今後が心配ですね。どこぞの暗黒組織の話ではありませんが、仕事が終わればご用済みということも……。身辺に気をつけてくださいよ。しかも、なにか計画が進められているとすれば、ヴィデオにその材料がなかったのも良し悪しで、彼らは安心するでしょうが、こちらは状況がつかめない」

「では引き続きまして、その計画とやらの件」冴子が資料コピーを配る。「影森さんの手配で、お留守の間に防衛庁調査課の徳島さんから情報をまとめていただきました。徳島さんも表立っては動けませんので、これはお手元の人事資料からの抜粋です。興亜協和塾出身の自衛隊員リスト。現役と退官者、将校、下士官、平隊員に分けてあります。特に注目していただきたいのは、別にファイルした人事資料と新聞や雑誌の記事、英文の報告書です。すべて、道場寺満州男に関するものです。道場寺満州男は現在、興亜協和塾の事務局次長ですが、元陸上自衛隊二等陸尉。アメリカで特殊部隊の訓練を受ける。自衛隊を退官してから、アンゴラの右派ゲリラ、UNITA、アンゴラ全面独立民族同盟の白人傭兵隊で実戦を経験……」ファイルをめくりながら報告していた冴子が、突然その手を止め、柄になくかん高い金切り声を発した。「あらッ、なによッ、この人だわッ」右手の人差し指がピタリと雑誌記事の写真の顔の上におかれている。「この人よッ。弓畠耕一長官の告別式のときに、あの老人の護衛役でピッタリくっついてきた人よッ。サングラスをかけてたわ」

 ほかの3人はポカンとして互いに顔を見合わせる。

「そうだわ。……あのとき、この人は式場の中にははいらなかったわ。皆さんは式場の中にいたでしょ。だから、見なかったわけね」

「そうか。彼か!」智樹がうなった。

 目をつむったまま上を向き、顎を引き締める。長い間、脳の片隅に押し込め続けてきた記憶のいまわしい断片が、ドドッと急激な接触を求めてきたのだ。脳神経のシナプスがパチパチ焦げる音が聞こえるようだった。智樹は、吐き気がするような記憶の悪臭とショックに耐え、それを真正面から受け止めようとしていた。

「ご存知の方なんですか」冴子が気を飲まれたようにつぶやく。

「ええ。よく知っている男です」智樹はそういいながら、〈忘れようと務めてきた何人かの1人〉という言葉のかたまりを、喉元で押さえつけ、急いで飲み込む。何日か前から頭の隅でチリチリとくすぶっていた記憶のチップの1つは、この男のことだったのだ。

〈おれを監視していた灰色の車のサングラスの男。あれだ〉

「済みません。今頃になって思い出して」智樹は重い気持ちで説明を始めた。「彼は自衛隊関係者の中でも最も危険な男です。確かに、告別式の会場の中であの老人につき添っていたのは、陣谷弁護士と大日本新聞の正田社長の2人だけでしたね。道場寺満州男はきっと意識的に、あの会場の中にはいるのを避けたのでしょう。そういう男です、彼は。時々、陰に身を潜めるんです。本能的な警戒心という奴ですかね」

 智樹は徳島の資料の中にも触れられていない事実のいくつかを一同に物語った。道場寺満州男はクーデターの失敗で自決した鮫島雪雄の御楯会にも、自衛隊幹部のタカ派グループにも加わっていた。その当時の調査課の部外秘報告書には、〈復古思想の持ち主。口数が少なく、黙って行動に出る危険なタイプ〉と書かれていた。

〈そうだ。それで、あの日に思い出しかけたんだ〉やっと納得がいった。《いずも》の定例会議の席上で智樹の記憶の断片を刺激したキーワードは〈Xデイ〉であり、〈崩御〉に代表される復古調の言葉であった。それが当日の朝見かけたサングラスの男の姿と、潜在意識下で結びついたのだ。背後には、当時陸幕の装備本部長だった角村丙助の姿がちらついていた。智樹には不愉快な記憶だったし、のちにまた別の事情が生じたためもあって、その人脈は務めて思い出さぬようにしてきたのであった。

「なんといっても、戦争のない国の軍隊の役所ですからね」智樹は内心の動揺を押えながら、状況説明を続けた。「シビリアン・コントロールもありますし、現場の部隊勤務者と本庁の高級官僚化した幹部との間は、あまりしっくり行かなくなります。軍人としての実戦能力と官僚的事務能力とは、逆比例している場合が多いもんですから、この矛盾の解決は容易ではありません。時にはそれをわざとあおって、ためにするものも出てきます。そういう不満分子の一方の旗頭が、この道場寺満州男でした。彼は当時から狂信者タイプとしてマークされていました」

「私の方でも洗ってみましょう」小山田が約束した。「出生。家族関係。……この資料には本人の戸籍だけしかありませんからね」

「私も」と絹川。「興亜協和塾の事務局次長なら、政治献金などにも関わっている可能性が高い。政界筋を探ってみましょう」

「くれぐれも相手方に抜けないように、ご注意を」といって冴子が、「では最後に……」と手品のようにファイルの下からゆっくり取り出したのは、1本のヴィデオ・テープであった。「どうやら、ますますこれが重要になったようです。……小山田さんの方では予想どおりに、興亜協和塾の強制捜査の案が上から押さえ込まれました。しかし、ここが《お庭番》チームの隠しパワーの発揮しどころです。NTTの事務局に頼んで電話を盗聴してもらいました。普通の会話は問題なし。ところが時々、スクランブルをかけてヒミコでテレヴィ会議をしているんです。これがその部分です。私が入手できた限りの《いずも》関係のスクランブル暗号では解けませんでした。あとは影森さんにお願いして、自衛隊の暗号班にでも……」

「分かりました。早速やりましょう」

 ヴィデオ・テープを受け取る智樹に、一同の期待の視線が集まった。

 

 散会後に冴子が智樹の肩口を軽くたたいた。

「そういえば……」意味ありげに微笑む。「もう1つ。つい忘れていました。弓畠長官未亡人からご指名のお呼びがかかっています。事件の真相を知りたいので、影森さんに頼んでほしいとのことでした。なんでも、葬儀のときに蒙疆駐屯軍の名簿で影森さんのお父さんのことを知られたそうで、ついでに中国関係の話も詳しくうかがえればとか……」

 この間、弓畠未亡人との連絡窓口は冴子になっていた。そのせいか、冴子の口調にはいささか勘ぐりぎみのところがあった。冴子の微かなこだわりを感じ取った智樹は、必要以上に首をかしげ、これまた面妖なという顔を作って応じた。

「参りましたね。あの奥方は拙者、苦手でござるよ」

「オホホホホッ……」

 

《お庭番》チームの打ち合わせが終わると、6時を過ぎていた。もう夕暮れである。

 空路の疲れもあったが、ことは急を要する。智樹はその足で防衛庁調査課の徳島3佐を自宅に訪ねて、興亜協和塾のスクランブル・テレヴィ会議のヴィデオ・テープを渡し、解読を頼んだ。徳島はすでに、道場寺満州男ら興亜協和塾関係者の極秘調査をしたばかりだったから、10分に事情を飲み込んでいた。

「あの連中が無精をして、防衛庁のありもののスクランブル・ソフトをそのまま使ってくれてると楽なんですがね」

「大いにありそうなことだよ。そう祈ろう」

「では明日の朝一番でやります。10時に来てください」

 解読テープのコピーは2本頼んだ。《お庭番》チームによる検討と並行して、達哉にも見せておこうと考えたのだ。

 続いて智樹は電話をかけてから、最高裁長官公邸を訪れた。

「大変ご無理を申し上げまして」

 未亡人、弓畠広江は丁重に智樹を迎え、応接間に案内してくれた。智樹を先にソファに座らせておいて、いったん姿を消した。少し離れたところで微かな物音がし、家政婦に茶菓子の用意を命じている声が聞こえた。

 智樹がこの公邸を訪れたのは長官が失踪した直後だけである。葬儀の場以外で長官の一家に会うこともなく、公邸に足を向ける必要もなかった。前回の訪問は《お庭番》チームの皆と一緒だったが、今度は1人だけである。自然と庭や建物のたたずまいに目を配る。建物の全体は和風だが、応接間の内側の作りは洋式だった。いわゆる和洋折衷式である。前のときには見過ごしていたが、洋式の暖炉の横が和式の床の間風になっており、そこには、弓畠耕一の葬儀のときに掲げられていた遺影と骨壺入りの桐箱が安置され、菊の花が飾ってあった。よく見れば蝋燭も立てられ、線香立ても鈴もある。

 智樹は自分の世間知らずなうかつさに気づいてハッとした。もともと智樹は冠婚葬祭の儀式が苦手である。事件の騒ぎに取り紛れてもいたし、もっぱら弓畠耕一の過去を暴く立場にいたということもある。ついつい、死者の弔いの儀式が続く家への訪問だということを失念していたのだった。あわてて立ち上がり、鈴を鳴らし、線香を上げ、両手を合わせて瞑目した。なんとか未亡人がもどってくるのに間に合ったので、ほっとした。

「お弔問ありがとうございます」

 弓畠広江は初対面のときと同様に、ピシリと和服を着込み、礼儀作法の模範のようなお辞儀をした。智樹は最初の訪問のときと同じように、再び背筋がゾクリとするのを覚えた。

 家政婦が茶と菓子を持ってきた。

「どうぞ、ご遠慮なく」広江は手振りで茶を勧めた。

「はい。では、遠慮なく頂戴します」智樹は応じた。

 2人の間の空気はピーンと張り詰めていた。智樹は戦後育ちの礼儀作法知らず。というよりも日本古来の礼儀作法を否定し、無視してきた世代である。相手の広江は戦前の育ちで、茶の湯はもとより、すべてのお稽古ごとに通じているに違いない。智樹は常になく緊張を覚えていた。あたかも尋問を待ち受ける立場にいるような気分だった。

 広江は、この日をかねてから覚悟していたように冷静であった。月並な挨拶に手間取ることなく、ズバリと切り込んできた。

「影森さんには、お忙しいところ、無理なお願いを致しまして……。この公邸住まいも49日の法要で納骨を済ますまででございます。……わざわざお越しを願ったのは、ほかでもありません。私、本当のことをすべて知りたいのでございます。特に、中国でなにがあったのか、一番お詳しそうな影森さんから直接うかがいたいと存じまして」

「………」智樹は思わず床の間の弓畠耕一の遺影を見てしまった。それに気づいた広江は、すかさず畳みかけてくる。

「たとえ主人が聞いていても構いません。事実をはっきりさせたいのです」

 広江の頬にサッと赤みがさした。目には急速に感情が溢れてきた。〈主人〉という言葉には、同情も遠慮もこもっていなかった。智樹は、その変化の激しさに胸を衝かれた。

〈そうだったか。憤りなのだ。一生涯を裏切られ続けてきた女の憤りなのだ〉

 だとすれば、決して場違いな話ではないのである。むしろそこには、弓畠耕一本人の遺影を避けるどころか、逆に本人を引き出しての公開裁判の趣が漂っていた。広江はさらに迫ってきた。「私もこの年です。今更なにがあっても驚きません。どうか、遠慮なさらずにすべてをおっしゃってください」

 智樹はすべてを詳細に物語った。相手は最初から《お庭番》チームの役割を承知していた広江のことである。しかも当の家族の秘密の話だ。どこかに漏れて困るという心配はしなかった。智樹が話し終えたとき、広江の目は赤らみ、涙で潤んでいた。

〈誰に対する涙なのだろうか。なにが特に悲しいのだろうか〉

 悲哀の感情は智樹の胸にも浸みわたっていた。弓畠耕一の血をうけた西谷禄朗こと劉玉貴をはじめ、大日本新聞の長崎初雄記者、浅沼新吾刑事、北園和久、亜登美と、事件発生以来でも弓畠耕一自身以外に5人の死が続いていた。3年ほど遡れば海老根判事の死があり、さらに40年遡れば、北園留吉法務中尉の処刑死があった。

 しばしの沈黙ののち、広江は静かに顔を上げ、ヒタと智樹を見据えた。

「影森さん。ありがとうございました。……ところで、勝手なお願いをしたのは、影森さんが主人の任地だった張家口にいらしたことがあるから、というだけではございません。実は、息子の唯彦のことでございますが、ご存知のように仕事上でもしくじったりしております。私は唯彦が不憫でなりません。やはり自分の腹を痛めた最初の子供でございます。お坊っちゃん育ちで我が儘なところもあろうかと存じますが、親の欲目でしょうか、本来は正義感の強い素直な性格だと信じております。私は唯彦がなんとか今度の事件を乗り越えて、これからの人生を貫けるようにと願っているのです。そこで、影森さん」

 カタン、……先ほどから時折聞こえていた庭の鹿威しの音が、ピリリと空気を震わせた。せっぱ詰まった気合いを感ずる。のっぴきならない立場に追い込まれていくような気分になる。広江は容赦なく間合いを詰めてきた。

「私も考えに考え抜きました。まだどうするか結論は出し切れませんが、ともかく事実だけは確かめておきたいと思うようになりました。私は、唯彦の正義感の強い性格を大事にしたいのです。それは、あの子が本当の父親の血筋を引いている証拠だからなのです」

「えっ。本当の父親とおっしゃると……」

「はい。唯彦は主人の……弓畠耕一の子ではありません。それを知っているのは私だけです。もしかすると主人もなにか気づいていたかもしれませんが、最後まで一言もいわれたことはありません。……私はまず、唯彦の本当の父親の消息を確かめてから、そのうえで、本人に真実を知らせるかどうか決めたいのです。それで、影森さんにお願いしたら調べていただけるのではないかと思いまして……」

「とおっしゃると、元軍人ですか」

「いえ。奉公義勇隊と聞いておりますが、フィリピンの鉱山に連れて行かれました。敗戦直前の手紙で、そこから脱走したという話があったまま、その後の消息が分からないのです。名前は矢野島菊治郎。私の兄の友人で、早稲田大学理工学部の学生でした。奉公義勇隊というのは志願の形を取っていますが、司法省行政局の思想犯保護観察所が半ば強制的に思想犯だけを集めたものです。矢野島さんは、技術者なら徴兵されないからといって技術系を選んだのですが、学生運動に加わるようになり、治安維持法違反で投獄されたりして、当時は思想犯として保護観察処分中でした。特高や憲兵が自宅ばかりか親戚縁者の家まで上がり込んで、しつこくいやがらせを繰り返すという毎日だったようです。私の兄も呼び出しを受けたことがあります。……私の結婚は、両親が私をそういう兄たちの影響から引き離そうと考えて、強引に進めたものです」

 広江の目は涙で潤んでいた。この先を詳しくいわねばならないものかと迷い、ためらっている気配だった。

 智樹は気を利かすべきだろうと感じた。その矢野島菊治郎のフィリピンへの出発は、広江と弓畠耕一の結婚式の日取りを間近に控えてのことだったのであろう。だが、その数十日間に展開されたに違いないドラマについて、智樹は敢えて知る必要はない。個人的な秘めごとに立ち入るべきではないのだ。智樹は皆までいわせずに調査を引き受けた。

「分かりました。確か4,5年前にも、ボルネオの思想犯島流しについての新聞報道がありました。ほかの地域の例に関しても、司法省の名簿などが残っているはずです。直ぐ調べましょう。ただ、差し支えなければ、脱走したという話の手紙の内容をお聞かせ願えませんか。なにか手がかりがあるかもしれませんから」

「それは、兄宛てに偽名の手紙が届いたのです。誰かは分かりませんが、帰国する人に託して日本で投函してもらったもののようでした。兄が実家に私を呼んで、主人には内緒にするようにといって見せてくれたのです。筆跡は間違いありませんでした。文面はぼかしてありました。兄は手紙を私の目の前で焼き捨てましたが、私は文面を正確に記憶しています」広江は目を閉じた。「〈最初に契約した仕事は条件が悪いので破約にし、奥地に移住した。絶対に無駄死にはしない。現地の仲間と一緒に自分の本来の使命に邁進する〉と書かれていました。実際には脱走だったのです。敗戦直後に兄が復員局まで行って確かめてきました」

「お兄さんはご存命ですか」

「いえ。そのごまもなく亡くなりました。25歳の若さでした。戦争中から結核にかかっていて、それで学徒動員も免れたのですが、病には勝てませんでした。まだ、ペニシリンなどは手にはいらない時代でして……」

「それはお気の毒でした。……もう一つ、矢野島さんはあなたが結婚するということを知っておられましたか」

「はい。それで私宛てには便りを寄越さなかったのだと思っているのですが……」

「それでは、これから直ぐに調べ始めます。2,3日で調べ終えて、ご連絡します」

 智樹がそういうと、広江は軽く頭を下げたが、同時に、右手の人差し指を縦に唇に当てた。懐から入場券を取り出して指差す。

「ここへ来ていただけますか」

 静かな口調だが、〈ここ〉に少し力がはいっている。動作を考えれば、〈ここ〉は入場券に記された場所と日時のことである。しかし、言葉だけを聞けば、〈ここ〉は今2人がいる応接間であり、最高裁長官公邸の意味としか受け取れない。智樹は一瞬驚いたが、直ぐに理解した。

〈誰かの立ち聞きを恐れているのか。それとも誰かが盗聴器を取りつけたという疑いでもあるのか〉智樹の口に出せない疑問は、思わず周囲を見回す視線と宙に泳がせる手振りに出てしまった。

 広江はしっかりとうなずいて見せ、無言のまま入場券を封筒に納めて智樹に手渡した。立ち上がると、直ぐに頭を下げる。

「それでは、どうもありがとうございました」

 これ以上は問答無用という素振りであった。智樹も無言のまま辞去した。

 

 広江から渡された入場券は5日後の国立劇場の夜の部のものだった。演目の中心らしい能の曲名は〈班女〉。聞いたこともなく、言葉そのものの意味も分からない曲名である。〈苦手な場所に呼ばれたものだな〉と思う。

 考えてみれば、映画やテレビの場面として何度か目にしてはいるものの、能の舞台を直接鑑賞した経験は中学校時代の古典芸能集団鑑賞だけである。智樹は、自分が駆け足で過ごしてきた人生の武骨さをあらためて思い知り、1人赤面せずにはいられなかった。

 だが、入場券を渡され、そこに来いといわれた以上、一緒に座って鑑賞しなければなるまい。そののちに、どこかで調査報告をすることになろうが、いきなり用件にはいるのも不作法だろう。招待のお礼もいい、多少の感想も述べなくてはなるまい。智樹はせめて、つけ焼刃の予備知識を仕込まねばと思った。駅前の本屋に立ち寄って探したら、ちょうど手頃な『能楽百選』という単行本があった。帯には「開演五分前に役立つ能楽鑑賞の手引き」とある。奥付けを見ると12版も重ねている。〈おれみたいな水準の客も結構多いということかな〉と少しは安心もし、早速買い求めて電車の中で読むことにした。

 目次の曲目を見ると、〈葵上〉とか〈敦盛〉〈俊寛〉〈道成寺〉〈羽衣〉など、少なくとも文字面の意味が分かる曲名も多少はあった。本文をめくると、見開き2ページで〈あらすじ〉〈みどころ〉〈備考〉〈作者〉〈登場人物〉などが一応すべて分かるようになっている。〈班女〉は〈備考〉によると、〈前漢の武帝の寵を受けた女の略称〉であり、寵を失ったのちの我が身を〈秋になれば捨てられる扇〉にたとえて嘆きの詩を作ったという。能の〈班女〉の主人公(前シテ・後シテ)は遊女花子で、副主人公(ワキ)の吉田少将との契り、別れ、再会のドラマに、愛の形見の扇が象徴的な小道具として配されている。恋慕に狂う女を描く狂女物、能の分類では4番目物に属する男女の物狂物の1つとされている。

〈ファースト・レディの最高裁長官夫人と遊女花子か。かなり奇抜な組み合わせだな〉

 最高裁判所庁舎の隣にある国立劇場を瞼の裏に思い浮かべながら、智樹は苦笑した。

 たまたま選んだ日の演目がこれだったのか、それとも、好みの演目の日に合わせて智樹に仕事を頼んだのか。どちらにしても智樹の頭の中では、弓畠広江と遊女花子が、そして広江から調査を頼まれたばかりの尋ね人、矢野島菊治郎と吉田少将が二重写しにならざるを得なかった。冷静そのもののように見えていた日本式貴婦人の典型が、その裏に遊女の物狂いへのあこがれを秘めていたとすれば……。

 しかも、あそこまで個人的な秘密を打ち明けながら、なおも盗聴を警戒するのはなぜだろうか。まだなにか重要な謎が隠されているのだろうか。

 そこに思い至って智樹は、またしても背筋をゾクリと襲う寒気を覚えた。