『最高裁長官殺人事件』

第二章 キーワードは蒙疆アヘン

 小山田警視は、指定された6時ちょうどに〈クレセントG〉の事務所のドアを開けた。

「いや、どうもどうも。2度もご足労をおかけして。良い場所を予約しておきましたから」

 唯彦はすぐ先に立って歩き出す。狭い路地をめぐって雑居ビルの8階。小綺麗な和風の店であった。唯彦が選んだ席は、4人用のボックスで個室に近い雰囲気。座ると直ぐに運ばれてきたセットの中に〈弓畠〉の名札つきのボトルがあった。

「執務中、ということでもないでしょ、もう……」唯彦は先回りする。「ここは私が持ちますから、遠慮しないでください」

「では、水割りをいただきましょう」

 店の女性が手を動かそうとするのを、唯彦は右手をあげて押さえた。

「今日はセルフサービス」

 目顔で2人だけにせよと合図する。水割りを作りながら、

「食事はまだでしょ」

「ええ」

「それでは……」とつまみを注文する。

 唯彦の態度はまたしても、まことに滑らかであった。しかし、あまりにも滑らか過ぎるのである。チリッ、チリッ……と小山田のデカ長感覚に訴えるものがあった。

〈なにか隠している。それが、演技の感じになって現われているんだ。母親にもそんな感じがあった。もしかすると、この家族には世間に隠した秘密があるのかもしれないぞ〉

 頃合を見て小山田はズバリと切り込む。

「長官の話なら、なんでも結構なのですが」

「それが、思い出せないんです。うちの家族は団欒の機会もほとんどなかったし、親爺と一緒に飯を食うのは朝飯だけで、親爺はいつも新聞を広げていましたからね。話をすること自体が少なかったんです」

「なるほど。事件関係者が訪ねて来るということはありませんでしたか」

「いやあ……、記憶にないですね……」

 唯彦の右手の指先がテーブルを軽くたたいた。記憶をまさぐっている感じだった。

「ああ、あれはそうか。……いや、大変古い話になりますよ。確か、和歌山から大阪に引っ越したばかりで、私が小学校の3年生ぐらいの頃です。アメリカ人だと思いますが、英語を話す白人が混じっていたので、特に記憶があります。日本人が2人と、その白人が1人の3人の客でした。応対に出た母が、〈和歌山の検察庁にいらした……なんとかさん〉という取り次ぎをして、父は書斎で会いました。それまでに白人を見たことが何回もなかったし、自宅に来たのは初めてですから、妙に記憶に残っています」

「そのことで、なにか」

「親爺は私たちにはなにもいいませんでしたし、こちらも聞きませんでした。普段から、そういう習慣でしたから。……それに、そのときは……そうですね、親爺はそのご、しばらく不機嫌でしたね」

「不機嫌……」

「ええ、なにか気がかりなことがあるという感じでした」

 唯彦の顔色は段々と酔いが回って赤くなり、目も潤んできた。態度にも、くだけた感じが出始めていた。しゃべり方も少しくどく、熱っぽくなってきた。

「小山田さん、私は昼にいったんお別れしてから考えたんですが、これはやはり大事件ですね。そうでしょ。私はまだNHKでの仕事の癖が抜けなくて、デスクから大事件だといわれないと、そんな気がしないんですよ。おかしな話ですが、下っ端根性が身に染みついてしまったんですね。……今日は、1個人として、客観的に事件を位置づけ直してみました。大事件で、しかも極秘の捜査段階だと……。だから申し上げるんですが、親爺は、……秘密主義でした。家族の関係も人工的といいますか、他人行儀でしてね、冷たいものでした」

 唯彦の警戒心が多少は緩んできたようだった。小山田は唯彦のグラスにウイスキーを足し、氷とミネラルウオーターを加え、水割り棒で混ぜた。「どうも、済みません。事件がどう展開するか分かりませんが、小山田さんとは何度かお会いすることになるでしょうね。ご苦労さんです」唯彦はグラスを持ち上げた。「よろしくお願いします」グラスをほすと、「親爺はですね、二重人格だと思いますよ。私は自分が酔って暴れたりしたんで、自分にも二重人格の気があると思いました。それで、親爺のことも分かったような気がするんです。ただ、親爺の方が自制力が強いから、表面上は裁判官にふさわしい人格者として、世間体を守ることに成功しているだけなんです」

「なにか思い当たるようなことでも……」

「いえ……」唯彦はわずかに言葉をにごした。「ただ……、親子関係からの実感ですね。親爺との関係は他人同士でした。よその人という感じでした。不思議なんですが、親爺は家族と一緒にいても、どこか別のところに心を置いてきている、という感じがしました。親爺の目がそう語っていました。いつもどこか遠くを見たままなんです。私も今、2人の子供を持っていますから、なおさらそう感じます。私と子供の関係は、親爺と私の関係とはまったく違うんです。私はいつの間にか、周囲の世間並の親子関係を真似ています」

「長官は、お孫さんと遊んだりしませんでしたか」

「そうですね。1度だけ私が子供を連れて正月に、親爺を訪ねたことがあります。ヴィデオ・カメラを持って行ったんですが、珍しく親爺が撮らせろといい出しまして、操作方法を教えました。面白がって子供を撮っていましたが、あれはどうも子供よりもヴィデオ・カメラに興味がある感じでした。親爺は戦前からのカメラ・ファンですからね。だけど、子供は苦手なんですよ。カメラのファインダーを通してのぞいている方が気楽なんじゃないかと、そのとき、私は感じたものです」

「長官がずっとお忙しかったためではないんですか」

「いや、そうじゃありませんね」

 唯彦は語気強くいい放った。すでに何度か考えて自分なりの結論を固めているというしゃべり方だった。

「親爺は自分の趣味のゴルフなんかには相当の時間を使っていますよ。時間の問題ではなくて、人生の位置づけ方にあると思います。親爺の人生、世間的な表面に見えている人生は、本物ではなかったんです。親爺は、きっと戦争中の若い頃にどこかで、自分の人生を置き忘れてきたんですよ」

「戦争中に、というと……」

「おや、ご存知じゃなかったんですか。親爺は最初に関東軍で見習士官になって、最後は北支那派遣軍の法務大尉だったんですよ」

「えっ、関東軍から北支那派遣軍ですか。法務大尉までは分かっていたんですが」

「そうですか。それなら早く聞いてくだされば良かったのに。もちろん、それ以上の細かいことはなにも知りませんが……。私も親戚の法事の席で耳にしただけで、これもやはり、親爺が家族の前では触れない話です。そうですね……。親爺は中国の話が出ると、目に見えないくらいですが、緊張しましたね。あれはやはり……なにか思い出したくないことが戦争中にあったんですよ」

 

「ピコ、ピコ、ピコ、ピコ……」

 小山田昌三警視が専用車にもどり、ヒミコに新しいキーワードを入れた途端、電子音と一緒に赤いアラーム表示燈が点滅し始めた。

「早トチリじゃないだろね」小山田はまず、こうるさいアラームのスイッチを切り、あわてず騒がず老眼鏡をかけてから画面を見る。

〈最新指定キーワードの事件報告あり。データは最優先で待機中。指示を待つ〉

 小山田は警視庁のデスクだけでなく自宅と専用車にもヒミコを設置していて、普段から定期的な報告を受けていた。いくつかの種類の事件毎に分類したデータの要約やファクシミリ通信が警視庁から送られてくるのだ。この情報ネットは警視庁と警察庁のコンピュータ・システムに直結されているから、小山田がヒミコに特別注文を出すと、既存のデータがあればただちに〈ピコ、ピコ……〉の緊急呼び出しがかかるようになっていた。

〈最新指定キーワード〉は《中国》であった。弓畠唯彦の話を聞いて、小山田は《中国》と弓畠耕一長官の関係に、なにか隠された事情がある場合を想定したのである。

 小山田は直ぐにキーボードに向かい、《実行》キーを押す。画面に出た新しい事件の報告項目と情報の字数は大した量ではなかった。直ぐに全文印刷の指示を出す。

 画面の字で報告を読むのはお断わりだ。勤続37年。55歳。老眼鏡を3度も作り直したベテラン刑事にとって、ブラウン管の上でチラチラするギザギザ文字の報告書ほど、腹立たしいものはなかった。印刷すればチラチラはなくなるが、それでも文字から受ける感じは同じだ。小山田が先輩の刑事たちに見習って年季を重ね、我ながら芸術的に仕上げていたガリ版報告書に較べれば、まるで子供のいたずらに等しい稚拙さが感じられる。確かに文字は規格どおりでそろってはいるのだが、捜査の苦労がにじみ出て来ないし、なによりも個性がないのだ。良いところといえば早さだけではないか。だが人生、なんでも早ければ良いというものでもなかろうが……、と思いつつも小山田は今の今、

「畜生! 早く出てこい!」ヒミコの縁を握り拳でコツコツたたいている。ジー、ジー、ジー、ジーと印刷用紙が上がって来る。待ち兼ねて引きちぎる。

〈最新指定キーワード〉の項……〈中国残留孤児の可能性〉

〈報告の題名〉の項……〈奥多摩山中で遺棄死体発見〉

「うむっ」うなった小山田は、直ぐさまヒミコで警視庁の直通電話につなぎ、「捜査第1課当直デスクを頼む」

 小山田警視は一応、警視庁犯罪捜査部特別捜査課所属の、いわゆる特捜刑事であるが、犯罪捜査部長さえ飛び越えて、警視総監直属の独立捜査官となっており、特別な独立権限を与えられていた。小山田はいきなりどこの課の捜査官にも直接連絡できたし、単独で事件を処理することも許されていた。

「特捜の小山田だが、田浦警部補は……」

「たった今、退庁しました」

「至急連絡を取りたい」

「はい。すぐポケベルで呼びます」

「奥多摩山中の遺棄死体の件、しばらく預かりたい」

「はい。了解」

「広報に連絡して発表は最少限に押さえてくれ。ほかに材料があれば、……ほら、例の連続殺人事件なんかの新情報があったら、それと一緒に発表してな、こちらはベタ記事で目立たないようになれば助かるんだ。血液鑑定は急がせて、すぐ送ってくれ。ああ、それと、ガイシャの顔写真もデジタルで」

「はい。了解」

 連絡を待つ間に、小山田は《いずも》の暗号ソフトを使って厚生省のデータバンクを呼び出した。〈198X年〉〈中国残留孤児〉〈血液型〉の3つのキーワードを組み合わせて、データの量を調べる。〈全文印刷〉の指示を出す。印刷が終わって間もなく、アラームが鳴った。リターン・キーを押すと、画面に血液型の鑑定結果が映った。

「よっし」これも〈全文印刷〉の指示を出す。印刷用紙が上がって来るのを待ち兼ねて、厚生省のデータと見較べる。「あった。これだっ」思わず「ふうっ」と溜息を吐く。

西谷禄朗 中国名 劉玉貴 1945年3月10日生まれ O型……〉

 赤血球のO型はもとより、Rh型、〈ヒト白血球抗原〉のHLA型まで完全に一致している。小山田は再び厚生省のデータバンクを呼び出す。〈西谷禄朗〉及び〈劉玉貴〉のキーワードで関係データのすべてを求める。全文印刷し、フロッピにも収める。デジタルではいっていた顔写真を印刷する。一応、警視庁から送られてきた死体の顔写真を画面に出して較べて見る。確かに同一人物である。

 ベルが鳴った。受話器を取ると、

「田浦ですが、お探しだそうで……」

「おう、おう。お疲れのところ申しわけないが、今日の奥多摩の発見死体の件、事情があって、おれが預かった。あんたにも協力して欲しいんだが、良いかな」

「はい。分かりました」

「急いで知りたいのは、報告書以外になにかあったかどうか……。外部に漏れないようにしたいんだよ」

「あれあれ。そいつは厳しいですね。……大日本新聞の長崎記者と110番センターの浅沼巡査が非番で同行しておりまして、背広のブランドからメーカーと中国残留孤児の可能性までたどったのは、その2人なんです。2人はガイシャと孤児の写真を見較べる気で、大日本新聞の資料室に行ってますよ」

「うむっ。あんた、大日本新聞に電話して、浅沼巡査を押さえといてくれないかね。長崎記者はこちらから手配する。ヘソを曲げられても困るからね」

「はい。分かりました。ですが浅沼は、刑事になりたくてウズウズしてる張り切りボーイですから、なにかうまい口実を設けないと……」

「えっ、面倒臭いこというな。なにか、そちらで考えてくれよ」

「はい。なんとかやってみます」

 小山田は長崎記者と面識があったが、直接に発表自粛を頼めるほどの関係ではなかった。

「巴御前に頼むか」と独り言。秩父冴子審議官のことである。

 大日本新聞の先代社長正田梅吉は元警視庁警務部長。今の社長の正田竹造は先代の長男だが、やはり元内務官僚で警察畑の経験がある。紙面も昔から警察ネタを重視しており、警察関係のコネが深かった。この種の記事自粛要請なら一番話の通りが早い相手だ。

〈そうだ。ついでに、これまでの状況報告もしておこう〉ヒミコの受話器を取る。

 

 報告を入れ終わると直ぐに、小山田は西谷禄朗の自宅に向かった。

 厚生省引き揚げ援護局のデータによると、西谷は渋谷区丸山町のアパートに独り住まい。中国に妻と子供が3人いるのだが、呼び寄せてはいないらしい。職業欄も空欄のままだし、なにか中途半端である。しかも西谷は、当局が《19回の訪日調査で初のケース》と発表したほどで、非常に珍しい例であった。データベースで呼び出した毎朝新聞の場合、《僕は母さんと中国で会った》という大見出し、写真入りで6段抜きの扱いである。だが本来、母親が健在ならば身元が判明していることになり、訪日調査の対象とはならないはずなのである。ところが騒ぎは最初だけで、あとはパッタリ。そのごの経過が記されていない。あるのは、氏名、年齢、現住所、電話番号のみ。……そして空白の3ヵ月後、西谷は死体となって発見された。その間、西谷は一体なにをしていたのだろうか。

〈なにか裏があるはずだ〉小山田はもう一度データの束をめくり、念入りに見直す。

 毎朝新聞の記事には、《中国残留孤児の劉玉貴さん(推定44歳)》と書かれており、西谷の日本名は記されていない。つまり、この時点では、日本名が判明していないことになる。だが、資料のどこを見ても、いつ、どういう経過で日本名が判明したのかがまったく分からない。さがしに来た肉親については、単に《東京都内に住む父親》と記されているのみ。母親が中国におり、何度か会っているというのに、なぜ父親の名前が分からなかったのであろうか。それとも、内密にしておかなければならない事情でもあったのだろうか。

 渋谷区丸山町。道玄坂を登って左に横町をはいると、途端に古くて狭い道並になる。登り降りが激しい。安普請のアパートやマンションが崖っ縁にぶら下がるようにして無秩序にひしめき合っている。新宿、渋谷、池袋などの、戦後に急速に発展したターミナルの裏にまだ残る典型的な《ねぐら》地帯である。

 西谷のアパート、第2神泉荘はすぐに見つかった。急斜面の石段の上に建つ、あちこちが崩れ始めた2階建ての木造アパート。1戸が4畳半にガス台と便所だけの広さと見えた。目当ての208号は2階の一番奥で、表札入れに《西谷禄朗》と書かれた紙がはいっている。街灯の明かりではっきりと読める。墨黒々と記した筆字。素人目にも見事な書体である。

〈西谷は中国でどんな仕事をしていたのだろうか〉小山田はとっさに思った。字が上手だと、それだけでなにかの資格があるような気がする。同じ漢字文化の下で育った感覚である。しかも達筆だから、それだけで一挙に西谷に対する認識があらたまる感じである。

 念のためにノックをし、返事がないのを確かめてからノブを回してみる。間違いなしに締まったままである。2階と1階のドアを全部見て回るが、管理人の表示はどこにもなかった。また2階にもどって、隣の207号のドアをノックする。

「はい。どなた」

 気怠い女の声がして、ドアが少し開いた。化粧は落としたままだが、水商売らしい中年女性の顔が奥からのぞいている。

「夜分恐れ入ります。お隣の西谷さんのことで、ちょっと」

 小山田は警察手帳を示す。女は露骨に迷惑そうな顔をして、

「特におつき合いはありませんが……」

「挨拶ぐらいはなさるんでしょ」

「それはしますけど……」

「最近見かけませんでしたか」

「そうですね。1週間ほど見かけなかったかしら。でも、お互いに出かける時間が食い違ってるから、珍しいことじゃないですわね」

「管理人とか大家さんとかは……」

「会ったこともないわ。不動産屋さんに紹介されて、家賃は銀行振り込みですから」

「皆さん、そうなんでしょうか」

「さあ、ほかの人のことは知りませんけど」

「では、その不動産屋を教えてください」

「駅前の、そうそう、米屋の不動産部ってのが珍しくて。原だったか、原田だったか」

「どうも、ありがとうございました」

 女はこれで用済みと安心したものか、急に好奇心をのぞかせる。

「お隣になにかあったんですか」

「いえ。ちょっと参考に聞きたいことがあるだけです。どうもお邪魔しました」

 

 不動産屋はすぐに分かった。原島米穀店がまずあって、その隣の小さな別棟に原島米穀店不動産部という看板がかかっていた。だが、もう店は閉まっているし、中は真っ暗で誰もいない。間口2間、奥行き2間、4坪の事務所に狭いドアが1つ。残りのウィンドウ一面に物件案内が貼ってある。見慣れた風景だ。

「誰もいなけりゃ仕方ないか」と独り言。あきらめかけたときに、隣の原島米穀店の方に目が行った。奥が住まいになっているらしく、雨戸のすき間から明かりが漏れていた。

「おう。米屋の家族か同居人が不動産部をやっているってことも……」