『NHK腐蝕研究』(4-3)

《あなたのNHK》の腐蝕体質を多角的に研究!
《受信料》強奪のまやかしの論理を斬る!

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第四章 NHK《神殿》偽りの歴史 3

《天皇の声》放送局の反革命的出発点

 すでに第一章で、“国営”の性格付けを試みた。本章では、若干お固く整理すると、利権的もしくは資本主義的性格、ついで、侵略的もしくは軍事帝国主義とのかかわりにふれてみた。そのいずれもが、大きなテーマである。そしてNHKは、冒頭にも憲法・治安維持法の研究で知られる奥平教授の文章を引用したように、まぎれもない「イデオロギー関係機関」なのであって、近代日本の国家機関としての特徴の数々を持たざるを得ないのである。

 そういう基本的性格を避けた議論は、いかにも頼りなく、「物足りぬ」ものであるのは当然だろう。ましてや、“国営化反対”という短絡スローガンで、わずかな労組員を号令で動かして見せれば、それで「議席」が維持できるというような水準では、足元を見透かされるのがオチである。

 さて、さらに根深いNHKのルーツは、天皇制の古木にしっかりと継木されている。桜の名木は、上に若木を継がれ、下に若根を継がれ、何百年の樹齢を数えるという。NHKの敬語放送も、それに似て、まさにイデオロギー機関としての基本的な役割なのである。

 誤解の無いように、わたしの天皇制に対する考えを、はっきりさせておこう。わたしは古代史の愛好家でもあり、伝統保存主義者だから、戦後共産党のアジテーター志賀義雄(いまは除名)のように、「天皇を死刑にせよ!」などと叫ぶ気はない。天皇制の伝統保存会館などをつくって、天皇家の希望者に館長等の優先権を与えてもよいと考えている。そして、天皇制廃止の日には、皇居周辺に歴史絵巻の大ページェントをくりひろげ、末永く国民祭日にすべきだと思う。ただし、あの一部右翼のヤンキー型戦闘服は、日本の天皇制の過去とは何の関係もないから、熱烈な愛好家には、平安朝よりも奈良朝、それよりも神代風の優雅な服装を推奨しておきたい。

 《神代》の昔の名残りは、いまも、結婚式で実用的役割を果たしている。わたしも、自分が式を挙げた若年の頃には、笑いをこらえるのに苦労した方だが、最近では、歴史の時空を味わう気分になってきた。そして、あの「カシコミ、カシコミ、マオサク……」には、一種の忘我状態をさそう麻酔効果があると気付くようになった。「存在不安感」という、生理学とも心理学とも哲学ともつかぬ用語があるようだが、そんな感覚に訴えるものがある。そして、JOAK発足早々からの天皇報道の、“荘重”な響きとやらにも、そういう原理が働いていたのだろうと思う。

 「戦前のNHKは、天皇制とともにあった。ラジオ放送が皇室番組を放送するために、全国に拡大したことをみても、それはわかる」(『サンデー毎日』’73・4.22)

 これが、「元NHKディレクター」として紹介された小中陽太郎のNHK「指弾」の一部。週刊誌だから、発言の要約だろうが、小中は、他でも詳しく論じている。

 ラジオの機能的活用も、また天皇番組によって前進した。あたかも「大東亜戦争」の天長節猛攻撃のごとき突進ぶりだが、NHKは、いまだに、そのチンドン屋商売の歴史を誇りとしている。

 はじめに断わっておくが、以下の“敬語文”が書かれたのは、つい最近である。いわく、

 「十四年(大正、一九二五年)十月三十一日、名古屋放送局では、市内の第三師団練兵場から天長節(天皇誕生日)祝賀式の実況を中継した。これは最初のスタジオ外中継放送である。名古屋放送局は、これを手始めにスタジオ外中継放送に意欲をみせ、次々に新しい境地を開いていった」

 「大正十四年の最後を飾る放送は、十二月六日の皇孫ご誕生放送であった。東京放送局では、陸軍戸山学校の軍楽隊が待機して、君が代吹奏の準備にかかっていた。国民は、東宮妃(皇太子妃)の初のご出産を待ち望んでいたのである。いざご誕生ということになれば、新聞の号外と、当時東京市民に正午を告げていた午砲(ドン)、そしてラジオの三つがご誕生の第一報を知らせることになっていた。……(略)……『気をつけ』のラッパ吹奏の後、服部はマイクロホンの前に威儀を正し、『皇太子妃殿下は六日午後八時十分ご分娩、内親王がご誕生遊ばされました。竹の園生のいや栄えさせたもうは、われら国民としてご同慶の至りでございます』と放送した。……(略)……皇孫ご誕生の放送は、ラジオの持つ遠報性の機能を聴取者の耳に強く印象づけた」(『放送五十年史』、以下『五十年史』と略す)

 ただし、問題の「ラジオの持つ速報性の機能」については、ニュースを提供した新聞社の方で、読売の文芸部長柴田勝衛が、こう書いている。

 「ラジオ・ニュースは娯楽と違うなら、事実を伝えるものなら、何を放送しても構わないようなものの、現在ではとにかく、多少のブルジョア階級が一家団欒の裡に聞き楽しんでいることだから、人生の大惨事なら別として市井の些事を報じて徒らに気色を悪くさすことは、遠慮しなければなるまい」(『新小説』’25・5)

 つまり、ラジオ報道の最初から、受け手の意向をうかがう事情が、つきまとっていたのである。高価なラジオ受信機、目玉が飛び出たテレビ受像機、そのいずれにも、はじめから下々向きのチラシとは異なる性格があったのだ。その上、全面検閲のアナウンス原稿である。“創意”の発揮される余地は、いかに《活弁》と勝負し、《神殿》の荘重さを盛り上げるかの技術を競うところにしかなかった。

 「三局合同が行われた大正十五年の十二月十五日、大正天皇ご病気のニュースが伝えられ、二十五日午前一時二十五分、崩御された。号外の鈴の音は全国の町々をめぐり、東京、大阪、名古屋のラジオは、それぞれ地元の新聞社提供のニュースを深夜、荘重なアナウンスで放送した。…(略)…

 東京中央放送局では、ご葬列が赤坂付近を通過するもようを放送し、あわせて、しめやかな奉悼歌(作芳賀矢一)を放送した。この放送は実況放送ではなく、ご葬列の進行に合わせた予定原稿を、愛宕山のスタジオからアナウンサーの松田義郎が伝えたものであった。赤坂からは哀調を帯びた轜車のきしる音を中継し、また、現場からのブザーの合図によって、スタジオの松田が、順序に従って原稿を読むという形式で行われた」(『五十年史』)

 近代科学と一口にいっても、受け手に科学的な世界観が欠けている以上、三種の神器と選ぶ所はない。いや、その技術が理解しがたければそれだけ、超現実的な神秘の力は増幅される。かくて、いまだ大半が文盲から抜け出したばかりの日本人は、改めてラジオの《神の声》で大日本帝国の天皇の赤子へと、教育され直していったのである。たとえば、この『放送五十年史』をもひも解いた“放送タレント”の三国一朗は、こう書いている。

 「おりから私に添い寝していた祖母(母方)の号泣する声に目をさました六歳(数え)の私は、号泣の理由を説明する彼女の言によって『天皇陛下がおかくれ(斜体原文傍点)になった』ことを知った。

 こうして、私の『昭和史』の第一ページは祖母の号泣の涙で飾られることになったが、では一体彼女はなにによって『崩御』を知ったのか。

 新聞の号外でか。そうではない。実に『ラジオ』によってそれを知ったのであった。ラジオが私の記憶に入ってきたのは、まさにこの時点であり、それは昭和の開幕とも、ぴったり一致するのである」(『週刊朝日』’81・2・13)

 「昭和」はまさに、ラジオと天皇と、そして十五年もの侵略戦争(動乱とはいいえて妙のスリカエ用語)の時代であった。国民精神総動員に向けて、天皇を最大限に活用する“擬似イベント”が、つぎつぎと企画された。NHK公史は、「御即位とラジオ体操」という、珍にして要を得た小見出しをつけ、こうつづる。

 「昭和三年十一月六日午前五時、東京中央放送局では放送部長矢部謙次郎が、チューブラー・ベルの“百一点鐘”をつき鳴らし、アナウンサー松田義郎の『気をつけ』の号令とともに、高らかなラッパの吹奏を放送した。ご即位の礼をあげられるため、両陛下が馬車で宮城をご出発、京都へ向かわれる時刻である。この時から始まったご大礼の奉祝番組は、既述のように、開通したばかりの中継線で全国の放送局に送られ、さらに家庭へ広がっていった。

 二重橋から東京駅までの馬車の音は、沿道のマイクロホンから中継し、ご大葬のときと同様に、アナウンサー松田義郎がスタジオからあらかじめ作成した原稿を朗読した。……(略)……

 このご大礼記念事業として、昭和三年十一月一日から『ラジオ体操』が東京中央放送局で始まった。体操の放送はその年八月、東京と大阪で早朝に試みられたことがある、これは盛夏の国民体育に寄与し、早朝のさわやかな気分を味わってもらおうと始めたもので、……(略)……」(『五十年史』)

 日本のラジオ体操のはじまりについては、ヒットラーの真似だと書いている例があるが、どうもそうではないらしい。征矢野仁は、つぎのように指摘している。

 「昭和の戦争史とともに流れたラジオ体操のはじまりは、一九二八(昭和三)年である。提唱者とされる田辺隆三は、当時逓信省簡易保険局長であったが、ラジオ体操の効果として、『一斉運動による集団精神の涵養』(『逓信史話』)を強調していたそうである。

 ヒットラーがラジオ宣伝を重視し、やはりラジオ体操の効果に注目していたのは、有名な話であるが、ヒットラーの政権掌握は、一九三三(昭和八)年である。日本のラジオ体操は、その五年前にはじまり、しかも、ラジオ体操の会まででき、会長におさまった永田秀次郎は、元東京市長といえばきこえはよいが、その前には内務省警保局長、つまりは言論取締りの元締め経験者だったのである。そして、さきにふれたように、後藤新平の四天王の一人といわれた人物でもあった」(『読売新聞・日本テレビグループ研究』)

 このような経過をたどってみると、日本の戦前からの支配層には、かなり先を行ってる所がある。話を天皇制にもどすと、この利用方法も、なかなか上手なものだ。

 資本主義的秩序の道具立てについては、マルクスが、フランスとイギリスを較べたりしている。旧教と新教の血生臭い内戦をやり、王様の首をチョン切ってしまったフランスと、英国教会を独立させ、王様をやとい続けるイギリス。だが、そのイギリスにも、やはり、王様のクビをチョン切ったクロムウェルの時代がある。王家同士の殺し合いもある。

 日本でも明治維新の“元勲”たちは、若い天皇が忍び出ると、「玉が逃げた」と追いまわしたらしいから、別に「尊崇」の念など抱いてはいなかった。明治天皇は、薩長閥政府の飾り道具でしかなかったのである。

 その天皇が、しかも凡庸で知られた大正天皇あたりから、ラジオの《神の声》を得て、再び天高くスメラミコトに舞い上がったのである。その、日本版“火の鳥”の天皇制再生時代とは、どのような時代だったのであろうか。

 いわゆるマスコミが「中立幻想」をふりまく時代の特徴は、国際的にみると、その体制がロシア革命前後に確立されたことにある。とくにラジオは、はっきりとロシア革命以後である。テレビも、アメリカとイギリスの先駆的な時期をのぞけば、第二次世界戦争後、民族独立国家の時代、中国革命の成功以後のこととなる。

 つまり、マスコミによる「中立幻想」は、資本主義時代の支配者階級が駆使する最後の魔術であった。そこには、もともと支配階級が「よぎなくされて」いたタテマエの上に、さらに、社会主義国の実現を眼の前にしながらの、より強い幻想的タテマエ論による補強が加わっていると考えねばなるまい。だからこそ日本でも、国営ラジオでなく、民営のみせかけが狙われたのである。

 そして、この二重に補強されたタテマエは、ブルジョワ議会の制度とも、並行的、相互依存的な関係にあった。

 その意味で、ラジオ報道の最初の成功が、アメリカ大統領選挙のそれであったというのは、まことに象徴的である。のちにド・ゴールが、「彼らには新聞がある。だが、こちらには電波がある」という本音を聞かせてくれることになるが、ラジオとテレビなしには、ロシア革命以後の世界情勢は説明できないであろう。

 因みに、いわゆるラジオ放送開幕の前夜にも、反革命宣伝とそれへの反撃が展開されている。その有様を、NHKの戦後作成の公史(一九五一年刊)は、こう記している。

 「この国の『無電外交』というのは、かの十月革命後、ボルシェヴィキがロシアの政権を獲得して以来、対外政策に強硬方針をとり、一時は外交無用論さえ擡頭したが、突如として、ソヴィエト外交当局を大いに悩ませた問題が生起した。それはパリ、エッフェル塔の世界的反ソ宣伝放送の開始であった。フランスはソヴィエト革命に対して、最も強烈な反感を持っていたので、エッフェル塔無線局は全世界に向ってボルシェヴィキ攻撃の宣伝を開始したのである。これが相当の効果を挙げ、ためにその味方たるべき労働者の間にすら、あるいは懐疑を生じ、ややもすれば彼等の同情を失わんとする形勢となった。ここにおいて、ソ連側でもついに黙視できず、エッフェル塔の宣伝放送に対抗して、ペテルブルグ郊外、ツアルスコエ・セローの無線電信局を動員し、全世界に向って大々的な共産主義宣伝を開始したのであるが、『トロツキーの無電外交』と称されたのが即ちこれである。ソ連における放送事業の先駆をなし、その異常な発展を促進したものは、革命初年における、このような『白色世界相手の無電外交』であったと言われる」(『目本放送史』)


(4-4)シンフォニーとともに宿命の《鬼っ子》誕生