『NHK腐蝕研究』(1-6)

《あなたのNHK》の腐蝕体質を多角的に研究!
《受信料》強奪のまやかしの論理を斬る!

電網木村書店 Web無料公開 2003.10.20

第一章 なぜNHKは《国営》ではないのか? 6

だれが“国営化”をのぞんだのか

 マスコミ・文化共闘は、日本のマスコミ関係主要労組のほとんどを集めている。図体は小さいが、春闘共闘のなかでの“大産業別共闘”という方式では、もっともまとまりがいいといわれる。だが、ちんまりまとまっているために、かえって相互の批判がしにくいという声もある。とくに上田哲は、改称前のマスコミ共闘初代議長。いまでも名誉議長ということになっている。そんな関係もあろうか。マスコミ・文化共闘の会議では、上田哲の政治活動や社会党一本支持の日放労の運動方針や、NHKの受信料等々の問題は、タブー扱いだったという。正面切っての議論になったことはないらしい。これが、いやしくも言論にかかわる労働組合の実状なのだ。

 だが、雑談ではいろいろ出る。もちろん日放労の幹部のいないところで、バンバンと日放労批判がやられているというのだ。自民党側からの攻撃とは質は違う。自民党は右から、他のマスコミ関係労組の幹部や活動家は左から、ということだ。NHKの”国営化反対”スローガンについては、「公務員賃金に合わせられるのがいやなんだろ」という皮肉さえ飛ぶ。もっとも、そういっている他業種の大手マスコミ・エリートたちも、自分がその立場に置かれたら、と考えれば、クビが涼しくなるだろう。ともあれ、受信料値上げと引き換えに、義務制が出され、一斉に“国営化反対”と声があがったようだが、下部討議が充分だったとはいえない。

 ことの成り行きからして、政党や労組の大幹部の意見発表があり、それがマスコミに載るという順序だから、大衆運動の基本的な組み立て方とは外れた動きだ。だから、本質的な論議抜きに“錦の御旗”がひるがえると、われもわれもの大合唱となる。そして受信料の「義務制」“阻止”……“勝利”!……となっているのだが、結果はどうだろう。NC9カット事件での悪役、島局長の動きなどを見れば、“国営”どころか“自民党営”、もしくは“角営”テレビのにおいが、プンプンただよってくるではないか。

 「どうも、あの騒ぎは向こうさんの手の内だったような気がする」

 これが、放送問題をまともに考えているものの、当たり前の感想である。

 というのは、もともと自民党の方は、タカ派の役者を別とすれば、「NHKを国営化する」などとは一言もいってはいない。さきに結論めいたことをいってしまえば、NHKを本当に国営放送局にしてしまったら、一番困るのは自民党の方であり、日本の支配者階級である。こういう言い方をすると、いかにも高度の革命理論を振りかざすかのように取られるかもしれない。しかし、たとえば放送評論家の志賀信夫は、民放については、「まったく企業の代弁をしているに過ぎない」(『テレビ腐蝕検証』)などという疑問を投げかけられているものの、NHKには手厳しい。フランスの実例を紹介しながら、つぎのように書いている。

 「しかし、そうかんたんに、NHKを国営放送局にさせないところにむしろ問題がある。国営放送局になってしまえば、どうせ政府の御用放送局なんだからと、国民はNHKの放送番組の内容を信用しなくなる。そうなってしまったら、政府・与党も困ってしまうからだ。

 パリにいったとき、フランスのある女性ジャーナリストにあってフランスの公共放送ORTFについて質問すると、彼女はズバリとこう答えた。『わたしは、ORTFの番組はほとんどみたり聞いたりいたしません。政府の御用放送局のニュースを、わざわざテレビでまでみる必要がないからです。ド・ゴールは“新聞がいくら反対しても、放送は自分のものだ”といったという有名な言葉があるが、いつもラジオやテレビは政府のいいなりになっています』

 ORTFの会長は、政府によって任命され首相直属で監督されているために、どうしてもフランスの公共放送は政府の強い規制を受け、公共放送としての信用を失い、国営放送のような扱いをうけてしまっている。

 日本のNHKも、このフランスのORTFのようになってしまえば、NHKの放送を支持する人は激減し、いくら政府がNHKを利用しようとしても、ほとんど役に立たなくなってしまう。NHKは国営になって経営の心配はいらなくなるかもしれないが、それでは政府がかえって迷惑してしまう。

 そこで、一見、民間の放送局らしさを保たせながら、NHKが現状のように存在していたほうが、政府・与党にとってはまことに結構なわけであり、陰ではNHKと手を結びながら、表面的にはときどき政府はNHKの批判をする、NHKも政府批判をやる。だが、それはあくまでも外見上のことなので、すぐ仲良くなって、同じ穴のムジナに化けてしまう」(『あなたの知らないNHK』)

 と引用しておいたところへ、図らずも本書の大方の執筆を終えた五月十一日、フランスでは、ミッテラン大統領が誕生した。

 フランス社会党のミッテラン第一書記といえば、一年前にはフランス法務省から“電波法違反容疑”で起訴され連行されたこともある。ジスカールデスタンによる放送支配への抗議を、“海賊放送”による実力闘争として、フランス全土にくりひろげていたのだ。“反撃放送”(ラジオ・リポスト)というのだが、リポストは「口答え」の意味である。

 今度の大統領選挙戦の最中にも、テレビ三局で、ミッテラン支持を表明していた職員十数名が休職処分という目に会っている(『赤旗』《パリ十一日緒方特派員》5・13)。報道内容も露骨に偏っていたらしく、選挙後は報道局長への辞任要求などの動きに発展しているようだ。

 いっそ日本でも、右へ寄るだけ寄ってごらんなさいと、こちらが居直ればよいのだ。日本社会党“教宣局長”の汚れたプリンスぶりとは大違いの、フランスの話だが、同じ社会党でも、やはりレジスタンスの闘士となれば、の感がある。

 話は日本にもどって、実質的には政府・自民党の機関放送局たるNHKは、その正体をかくすためにも、国営であってはならないのだ。日本の場合、戦後改革は不充分だが、それでも「大本営」とか「情報局」といえば、大多数の国民は拒絶反応を起こす。これが歴史の教訓というものである。その歴史の波風を、NHKがいかにしてかいくぐってきたのか、という点は、のちの課題とする。ともかくNHKは、いま、なぜか国民の厚い信頼感に支えられているのである。

 第2図は、NHK自身による調査だから、調査方法には疑問ありとしよう。しかし、大筋の感じはわかるのではなかろうか。「天皇」の信頼度は、おそれ多くて省いたようだが、これは別問題。まぎれもない資本主義国のチャンピオンたるニッポンで、エコノミックアニマルの「大企業」の信頼度は、最低のどん底である。「政府」と「労働組合」がいい勝負。「民放」や「新聞」も過度の信頼を寄せられているが、なんとNHKは、最高も最高。おそるべきことである。アメリカの世論調査では、クロンカイト個人が七十三%の信頼度だったという。NHKといえば、日本のインテリは顔をゆがめておけばよいと思っているが、その信頼度はクロンカイト以上なのだ。

 もちろん、内容の分析が必要であろう。しかし大多数の日本国民は、すでに述べたことだけからも明らかなように、NHKの放送内容に「しょっちゅう」干渉があったり、自主規制があることを、ほとんど知らされていない。NHKの視聴者センターが、「圧力はありません」とか「NHKは平和を守ります」などと連呼するのは、そういう大多数の国民の存在を背後に意識しているからだ。

 NHKは、あの評判の悪い「大企業」になり代わって国民の信頼を集め、資本主義国ニッポンを安定させる任務を帯びている。そしていま、見事にその任を果たしているのである。国家論を云々する場ではないが、まずドイツの詩人、エンツェンスベルガーの評論的発言を紹介しておこう。

 「意識産業の政治的前提は、人権の、ことに平等と自由の宣言(実現ではない)である。歴史上のモデルは、ヨーロッパにとってはフランス革命であり、共産主義諸国にとっては十月革命、アメリカ、アジア、アフリカの諸国にとっては植民地主義からの解放である。まず、共同体の運命や自分の運命を自由にあやつる権利が、ひとりひとりの人間にあるかのような擬制(フィクション)が生じる。その擬制が、個人ならびに社会が自分で手にいれる意識を、政治化(ポリテイクム)する。そして、この意識を産業的に誘導することが、将来の支配権を確立するための条件となるのだ」(『意識産業』)

 もちろん、こういう認識は、評論家や詩人だけのものではない。国家論やマスコミ論の専門家たる社会科学の研究者は、もっと早くから、こんな仕掛けは見抜いている。だが不幸なことには、とくに日本の場合、いわゆる訓詁学的傾向が強く、社会科学の用語と一般民衆の会話とが、いかにも離れてしまっている。まったく通じないといった方がよい。

 たとえば、現代マスコミの背景をなす資本主義国家の政治体制についていうと、原典をなすレーニンの方がはるかに簡潔である。「民主的共和制は資本主義の最良の政治的外被」(『国家と革命』)であるというのだ。この「外被」を、オーバーコートとか、カクレミノとか、ボロカクシとか、“馬子にも衣裳”の羽織袴とか、一般人に通用する訳語に入れ換えれば、もっとわかりやすくなる。“語訳は誤訳である。というダジャレがあるが、正確な“直訳”ですらが、普通の日本語になっていなければ、翻訳の商売では落第である。ミステリーやSFの翻訳などでは大変な苦労話が多い。ところが、“民衆救済”を掲げる社会科学の世界では、もうひとつ別の“準”日本語の体系をつくり上げている。そして、ヨーロッパにおけるラテン語(たったの二十六文字の国際語!)よりもはるかに難解な“非国際的・非国内的”学術用語を、あたかも高等数学の公式のように羅列する特技が要求されている。岩波の『広辞苑』では、〔隠語〕の説明が、「仲間同士以外に知られぬように特定の意味を付与する語、かくしことば」となっているが、それと選ぶ所のない現状である。

 わたし自身、NHKの本質を極めんがため、これはと思う最新の国家論をあさってみたのだが、優れたものを求めれば求めるほど、絶望的な無力感に襲われるのであった。たとえば、もっともやさしそうな部分をとってみても、つぎのようなものだ。

 「国家とは、一定の階級的経済構造のうえにたち、これを維持=総括するため、外見上は社会から分離してその上にたって対立を緩和し、これを秩序の枠内にとどめるという幻想的な共同性をふりまきながら、実質的にはそこにおける基本的生産手段の所有者の政治的組織として、階級支配を貫徹せしめるところの系統的・恒常的装置〔実体=形態〕を保持するところの統治組織である」(星埜惇『国家移行論の展開』)

 これだけの文章に( )入りの数字で二つの注釈がつく。ときには本文よりも( )内の説明や注釈の方が長い。もちろん、それなりの工夫もあり、第3図は大変参考になる。そして、おどろいたことには、この著者の前著『社会構成体移行論序説』は、増刷つづきで一万部も売れているというのだ。つまり、こういう水準の学者が、日本には一万人もの単位で、全国各地にいるわけだ。それだけいて、どうして竹村健一ふぜいにしてやられたままなのか、そのへんが疑問なのだが……。

 そういう学者のなかで、マスコミ論の専門家は、「幻想的な共同性」(レーニン『国家について』)をつくりだす「シンボル=正統化機構」について、こういう規定をする。

 「シムボルを主な手段とし媒介することによって支配への人びとの『合意』や『同意』を調達し、それによって支配の正統性や『民主性』を確保する機構は、なにも文字どおりの公的機関であるとは限らないしその必要もない。むしろ、支配の正統性と『民主性』によりたしからしさを加え、人びとの『合意』と『同意』をより自然に、よりスムーズに、より有効に獲得する上では、このシムボル=正統化機構は権力と距離があるように見える私的なそれによる方がいっそう効果的に機能するとさえいえるであろう」(塚本三夫『科学と思想』’76・1所収「現代マスメディアと世論操作」)

 ここでは「私的」と表現されているが、NHKは、「私的」でも“「公的」でもない独特の歴史的産物である。ともかく、「権力と距離があるように見える」ことが、こういうシンボルの重要な部分をなすマスメディアにとっては、不可欠の条件といってよいのだ。

 理論的には、こういうことだし、実感からいってもその通りではなかろうか。だから、自民党内でも、いわゆる“保守本流”といわれる主力部隊が、NHKの国営化を字義通り望むわけはない。“公正中立”の装いを保ったまま、肝心のところで味方をしてくれればよい、と考えているに相違ない。

 事実関係を新聞報道で洗いなおしてみると、「浜田幸一氏 税金(受信料)を取る以上、NHKは国民放送である。国家管理にそむくなどとはとんでもない」(『毎日新聞』’81・3・26「記者の目」)というのが、最右翼の発言らしい。これは、放送法改正と受信料値上げにからんで、自民党の総務会が開かれた際、成田空港管制塔襲撃事件のビデオテープ提出が問題となった、その時の脅し文句だ。

 このヤクザ上がりの発言の尻馬に乗って、ウルトラの石原慎太郎がつづく。「NHKは白痴番組を放送している。何が公共放送か」……。『太陽の季節』で売り出した戦後派も、ヒット作が続かずに修身の先生に転身したのであろうか。いやはや、これが与党の総務会の討論だというのだから、まともに論評する気も起きない。

 もちろん、このような暴言を日放労がただちにたたき返したのは、当然、正しいことであった。そして、大衆的な憤激を組織するために、この暴言や白民党内の“NHK調査委員会”設置の動きなどを暴露し、“国営化の陰謀”として追及したのも、勢いのしからしむるところだったのだろう。清水幾太郎や竹村健一などのようなデマゴギーによる大衆操作とは、一線を画して考えるべきであろう。

 だが、日放労の動きには、上田哲流の“美文”的あいまいさがつきまとい、本当の問題はかくされたまま。その上、“アベック闘争”の要素もあったのではなかろうか、等々の疑問が多い。


(1-7)受信料制度の“多数派”指向?