『週刊金曜日』『出版レポート』座談会記事批判

@南京大虐殺vsホロコースト神話

出席者の皆さんへの質問

皆さんはアラブ人に同じ話ができますか?

1998.4.17.初入力。

 別途『「ガス室」裁判本人陳述書抜粋』をさらに短縮し、同様の問題点を含む出版労連発行『出版レポート』(1997.6)への批判を追加したものです。

初出:『歴史見直ジャ-ナル』(1998.2.第14号)

『週刊金曜日』座談会出席者(肩書きは同誌によるもの)
 笠原十九司(宇都宮大学)渡辺春己(弁護士)藤原彰(歴史研究家)本多勝一(ジャーナリスト)吉田裕(一橋大学)

『出版レポート』座談会出席者(紹介は同誌によるもの)
 吉田裕(日本近現代史)佐藤健生(ドイツ現代史)


「チーズも石鹸も一緒くたにする」のが「歴史研究者」?

 中国人が天皇の「現人神」説を信じなかったと同様に、「偽」イスラエル人造国家の侵略によってパレスチナの先祖伝来の土地を追われ、パリでインターネットを駆使しながら戦っているアラブ人(別途「パリ通信」で紹介したパレスチナ人、バジル・アブエイドのこと)などが「ガス室」神話を信ずる訳がない。

 だが、本多が自分の全集の「南京大虐殺」関係1冊に添えて私に送り付けてきた1997年12月5日付けファックスでは、次のように、日本の大陸侵略と「ガス室」をわざと混同している。

「南京大虐殺について私はこの程度のことを調べました。[中略]木村さんも少なくともこの程度以上の報告を、ご自分の現地取材や体験者取材による結果を中心に書かれることをご忠告申し上げます」

 この屁理屈は、シオニスト得意の「広島」「アウシュヴィッツ」同一視と同じ「子供だまし」の手品である。「広島」と「アウシュヴィッツ」とは、あくまでも「別件」なのだ。「広島」大量虐殺の事実は「ユダヤ人絶滅」の証明にはならない。「ガス室」神話をばらまき、発疹チフスの死体で催眠術を施し、それでも疑うと「反ユダヤ主義」「ナチズム」などとワンワン吠え続けて怯えさせ、議論と調査を封殺するのがシオニストの陳腐極まりない常套手段なのである。

 この簡単な手品の種を暴くために「味噌も糞も一緒くたにする」では、いささか汚らしいし、普通のフランス人は味噌を知らないので、パリ取材に際して「チーズも石鹸も一緒くたにする」を考えて行ったところ、すでにその通りの警句が現地にあった。どこか似ているから同じという「子供だまし」は古今東西、一番簡単な報道操作素じゃである。

 1998年2月24日付けの「ガス室」裁判準備書面では、本誌(『歴史見直しジャーナル』)2号で軽く触れ、3号で「中途の伏線」と記した『週刊金曜日』(96.8.9/23)「南京大虐殺座談会」連載記事の件を詳しく展開した。私の「国際電網情報基地」にも「『週刊金曜日』本多勝一・徹底批判・正体を見破る」の題で42頁全文を収録した。

 本多と交した膨大な数と量の文書がある。発端は「座談会」出席者、「南京事件調査研究会」への手紙である。その誰一人として「ガス室」「調査研究」の実績がないのに、「ガス室」否定論を「南京事件」の「否定勢力」と同一視し、それによって自説を補強していた。「味噌も糞も」デマゴギーに他ならない。こういう俗論的な単純ミスを犯す人々に、本当の侵略戦争批判ができるのだろうか。大いに疑問とするところである。

 特に本多は「座談会」以前に、少なくとも私の草稿を「斜め読み」(本人の言)しているし、最初には、異常なほどの熱心さで、拙稿の連載を申し出たのである。それが、まさに口を拭って、この座談会のお粗末デマゴギーに調子を合わせている。何とも見苦しいオポチュミスト振りである。その後も、「世界の定説とされている『ホロコースト』を覆すに足るような充分説得力のあるルポ等で原告の説を論証することができるのであれば、『週刊金曜日』に掲載することをも検討」という二股膏薬を額に張り付けて、逃げ場の確保に苦心惨憺中なのである。

本多勝一の「ガセネタ」報道をなぜ擁護するのか?

 だから私は、「座談会」出席者全員に対して手紙を送り、「内々の理解に止めて下さい」という注記を付し、本多が裁判になってから全面否定してきた「連載計画」の経過を記した。それに対して本多は、「木村さんと私との間の件についてかなり一方的な説明があります」と記すものの、「連載計画」そのものに関しては具体的な否定なり抗議なりは何らしていない。以後にも、何ら否定なり抗議に類する発言や手紙の文句はない。

 本多はまた、「花田に対する『宿年の恨み』等とはまったく無関係」と主張したので、この「関係」を、可能な限り解明した。本多が宣伝し続けている「文春」による「攻撃」のきっかけとなったのは、日本刀による「百人斬り競争」などという技術的には全く不可能な話を、あたかも事実であるかのように得々として報じた朝日71・11・5夕刊の記事である。しかも、この記事には(注1)(注2)しかないのに、単行本には何の断りもなしに長い(注4)を加えている。

 (注4)は『東京日日新聞』(現毎日新聞東京本社の前身)の「昭和12年12月13日付け紙面」だが、これこそが問題の朝日記事の中の「日本でも当時一部で報道されたという有名な話」の現物である。本多は、現物の確認もせずに、かなりニュアンスの違う伝聞のみによる記事を発表し、その記事作りの粗雑さを直後に「文春」が発行した『諸君!』(97・1)掲載「朝日新聞のゴメンナサイ」で指摘されたのに、以後、お得意の論旨不明型悪文レトリックによって居直りを策した。

 居直りキーワードとして本多が利用したのは、『諸君!』(72・4)掲載の鈴木明による批判記事「『南京大虐殺』のまぼろし」の題名の一部の「まぼろし」だった。本多は、この題名をねじ曲げて、「文春」が「南京大虐殺」の全体を「まぼろし」だと主張してキャンペーンを張ったかのように宣伝し始めたのだが、鈴木自身は、その記事の冒頭で、問題の朝日記事と、自分がマイクロフィルムから「発見」した『東京日日新聞』記事とを比較し、本多の記事作りの粗雑さを徹底的に検証していたのである。「まぼろし」は決して「南京大虐殺」そのものが「まぼろし」だという意味ではない。基本的には「百人斬り競争」のことを「まぼろし」と主張していたのである。

 本多は、「文春」が世間的に「右寄り」と見なされているのを奇貨とし、あたかも自分が正しい侵略戦争批判の記事をかいたのに対して、「右寄り」「体制派」「反動的」「文春」が「虐殺全否定」の攻撃を仕掛けてきたかのように装いを凝らし、論点を次々と逸らし、「左」の、しかし不勉強な自称「平和主義者」たちをだまし続けてきたのである。

 さらに重要なのは、この被告・本多勝一の「ガセネタ」報道が、掲載当時すでに記事中の「A少尉」、被告・本多勝一の先輩たちの「でっち上げ戦意高揚記事」を唯一の根拠として戦後の中国における粗雑な戦犯裁判で死刑に処せられた向井敏明少尉(当時)の未亡人と先妻の娘、次女の千恵子を深く傷付け、千恵子の家庭を崩壊に導く導火線となったという事実経過である。

 本多は『週刊金曜日』(96・5・31)で、花田編集長当時の『週刊文春』(88・12・15)が、「『東京日日新聞』(のちの毎日新聞)の記事を、私の記事のようにスリかえた上で攻撃し」たと称しているが、その『週刊文春』のどこをどう読んでも、「スリかえ」の箇所は見当たらない。むしろ、本多が「その記事(『東京日日新聞』)を再検証しないで書いている」という批判意見の方が、明確に記されているのである。

「百人斬り」が可能かどうかについて見解を明らかにせよ

『週刊文春』記事は、『諸君!』(89・1)に掲載された(旧姓)向井千恵子執筆の詳しい記事「『向井中尉の娘』の四十年」を、週刊誌向けに編集し直したものだが、そこには前出「南京事件調査研究会」代表、洞富雄(元早稲田大学教授)の次のような発言が記されていた。

「洞氏が言うには、百人斬り論争をやったのは、山本七平氏から論争を挑まれたからで、自分では百人斬りはなかったと思う、と言ってくれました。

『いろいろ書いて申しわけなかったですね。この電話でおわびできてよかった』

 と謝られ、私も予期せぬことにびっくりしました」

 洞は、『ペンの陰謀』にも長文を寄せており、そこでは「据え斬り」説に傾いていたので、右の経過を確かめるため、私自身も洞に電話をし、私が被告・本多勝一の仕事振りに疑問を抱いていると断った上で、事実関係を質した。

 すると洞は、「老齢のために記憶が確かではないが」、と前置きした上で、やはり、「戦闘中のことではなかったと考えている」という主旨の答えをした。しかし、右のように千恵子に詫びたことは事実として認めた。私が、「もしも据え斬りだとしても日本刀では何人も斬れない」と言う疑問を呈すると、「軍事的なことは分からないので、もしも何か記事を書くのなら送ってほしい。反省すべき点があれば反省する」と答え、さらには、「本多さんは千恵子さんと話し合って解決したと聞いています」と付け加えた。

 これは初耳の重大なことなので、私が、「裁判所の和解ですか」と聞くと、この問いには、「詳しくは知らない」と答えるのみであった。『週刊文春』と『諸君!』に記事を見る限りでは、確かに、その後の千恵子の消息が、どこからも聞こえてこないのは不思議なのである。あの思い詰めた雰囲気では、そのまま収まるはずはない。もしも、洞の話が本当ならば、本多には、その「解決」の経過を世間に明らかにする義務がある。

 また、「座談会」出席者で、長老格の藤原彰(元一橋大学教授)の「百人斬り論争」に関する見解も聞きたいが、二度も電話で話し、その後も資料を送り続けているのに、まったく返事がない。

 藤原は、本誌の写真説明のような経歴だから、洞とは違って、「軍事的なことは分からない」と言える立場ではない。戦闘中は言うに及ばず据え斬りであっても、「百人斬り」が可能かどうかについて、見解を明らかにせずに本多と同席し、結果として大嘘つきの本多をのさばらせることは許されない。私は、学生時代にも、その後に右に転向した著名教授、清水幾太郎を見たし、長年、マスコミ業界の底辺から世間を見続けてきた。マスコミに登場するアカデミー業者(教授たち)を見る目は厳しくなっている。主観的には「善意」のつもりでも、本多が犯した「ガセネタ」報道とその結果の悲劇を見逃し、沈黙の代償として、「元朝日新聞著名記者」との同席確保をズルズル続けるようであれば、批判を加えざるを得ない。このような処世術は、日本の過去の侵略戦争への批判作業を汚し、視点を歪めることにもなるのだ。


『出版レポート』(1997.6)

「日本人の戦争認識と出版ジャーナリズム」

司会の誘導:「デマゴギーですか」に出席者は直接答えず

『出版レポ-ト』の方では、次のように司会が歯切れの悪い前置きを付けたのちに、『マルコポーロ』記事の方を「デマゴギーですか」と誘導している

 ……『マルコポーロ』問題が、どういう問題であったかということについて、あまり物言いもせずに過ぎてしまったんですが、ジャーナリズムの持っている問題があらわれていると思います。あそこでもズレを感じました。佐藤先生のように永年ドイツ現代史をやっていらっしゃる方には、内容的には『また出たか』というようなものだったと思うんですけど。ドイツ語でいえばデマゴギーですか。……

 この司会者は、出版労連の中央執行委員で『出版レポ-ト』の編集長、新村恭である。「あそこで本を出すよりも入る方が難しい」とまで言われる最も著名な権威の高い出版社、岩波書店の編集者、新村恭である。特に会話の記憶はないが、私の争議中には書記長だったので、面識はある。

 私は、1988年秋、争議の解決で民放労連日本テレビ労組の組合員資格を失い、8年半後の1997年4月1日付けで出版労連合同労組ネッツ分会(フリーの個人加盟。のち独立して単独の労組)の新入組合員になった。加盟直後の出版研究集会で、出来立ての同誌を買い、読んだ直後、新村本人に、この問題に関する知識の程度を確かめている。新村には独自の知識も調査経験もなかった。拙著『アウシュヴィッツの争点』の存在は知っていた。ところが、「長年やっている学者の方を信用する」というのである。愕然、唖然、呆然、しかし、拙著の編集兼出版人、一人書店社長の田悟恒雄に話したら、こともなげに、「今頃そんなことで驚いているようでは……」と冷笑した。ごもっともである。

 面白いことに、対談の主たち、若手教授の吉田と若手助教授の佐藤(私の常用語ではアカデミー業者)の二人がともに、この誘導に即応していない

 吉田は、先の『週刊金曜日』座談会でも、この件に関して沈黙を守っていた。ただし、「沈黙は共犯」である。資料は届いているはずだから見解を明らかにしてほしいものである。

 以上。


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