編集長の辛口時評 2007年3月 から分離

偽ユダヤ人カザール問題の解決法(8) シオニストを憎むよりもその悲劇を憐れむ

偽ユダヤ人カザール(Khazar・ハザール)問題

2007.3.22(2019.5.31分離)

http://asyura2.com/07/holocaust4/msg/236.html
偽ユダヤ人カザール問題の解決法(8) シオニストを憎むよりもその悲劇を憐れむ

 前回、「偽ユダヤ人カザール問題の解決法(7)」では、「カザール(ハザール)の歴史を広く知らせることが、この「解決法」の基礎であろう」と述べた。

 しかし、言う易く、行うは難し。

 なかなか、その時間が取れない。

 今回は、世界シオニスト機構の創始者、テオドール・ヘルツルが、ユダヤ人国家をパレスチナに建設するに至る経過を振り返り、その岐路の誤りの悲劇を憐れむことにする。経過を子細に見ると、ヘルツルは、フランスのロスチャイルド家(ロートシルト)に誘導されて、アラブ人国家のど真ん中に、ユダヤ人国家を割り込ませるという悲劇的な決定に至ったのである。


http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-6.html
『偽イスラエル政治神話』
著者はしがき
 [中略]

 政治的シオニズムの創始者、ヘルツル[訳注]は、いかなる宗派に属すると主張したこともなく、『回想録』には、《私は宗教的衝動に従うことはない》《私は不可知論者である》(同前)と記している。

[訳注]:ヘルツルには、彼に先行するシオニスト運動が格好の看板指揮者として途中で迎え入れたタレントの要素がある。彼は、オーストリア=ハンガリー二重帝国のハンガリー側首都、ブタペストで、裕福なユダヤ人の子として生れ育ち、ユダヤ教の信者にはならず、ウィーンのドイツ語新聞のパリ特派員となった。一八九四年に発生したドレフュス事件(フランス軍ユダヤ人大尉のスパイ容疑・冤罪による流刑判決事件)の衝撃を受ける以前には、ヨーロッパ社会への融和を考えていた。『ユダヤ人国家』の初版は一八九六年。第一回シオニスト会議(のち世界シオニスト機構)の開催が一八九七年。だが、すでにそれ以前の一八七八年に締結のベルリン条約で、パレスチナ地方がフランスの支配下に入って以後、本訳書二四二頁以下にも記されているように、フランスのロスチャイルド家(ロートシルト)による土地買収とユダヤ教徒の移住勧誘が始まっていた。本訳書巻末の訳者解説三五六頁で紹介した資料によれば、さらにそれ以前の一八六七年、つまりは、第一回シオニスト会議が開催されるより三〇年も前に、「開発資金を集めた創世期のシオニスト運動組織は、パレスチナの天然資源を調査」を行い、「数百万の人口を移住させる可能性」を確かめていたのである。

 彼は聖地に特別な関心を抱かなかった。彼は、国家主義を実現する目的地として、ウガンダ、トリポリ、キプロス、アルゼンチン、モザンビーク、コンゴの、どこでも同じく受入れようとしていた(同前)。しかし、ユダヤ教徒の友人の反対に直面し、彼が「力強い伝説」(mighty legend)(同前)と呼んだものが、《逆らい難い力を持つ同志糾合の号令となっている》(『ユダヤ人国家』)ことを認めた。

 この動員力のあるスローガンは、すぐれて現実主義的な政治家である彼にとって、見逃せないものだった。彼は、この「復古的」な「力強い伝説」を歴史の現実に置き換えようと宣言し、こうも語った。

《パレスチナは我々の忘れ難い歴史の一部である。……この地名のみが我々の仲間にとっての力強い同志糾合の号令になり得る》(同前)

《ユダヤ人問題は、私にとって社会的問題でもなければ、宗教的問題でもない。……それは国家の問題だ》

 [後略]