編集長の辛口時評 2006年9月 から分離

偽ユダヤ人カザール問題の解決法(7)

偽ユダヤ人カザール(Khazar・ハザール)問題

2006.9.7(2019.5.31分離)

http://asyura2.com/0601/holocaust3/msg/434.html
 偽ユダヤ人カザール問題の解決法(7)

 カザール(ハザール)の歴史を広く知らせることが、この「解決法」の基礎であろう。

 以下は、電網(インターネット)検索で出てきた頁の抜粋である。


http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fha401.html
[中略]
クリミア半島のハザール人

●ハザール王国は極めて国際的な国であった。ハザール王国は近隣諸国と盛んに交易を行ない、ハザール商人は中継貿易をしていた。7世紀末にハザール王国に併合されたクリミア半島の港町カッファ(現フェオドシア)は、交易の拠点として特に重要な都市であった。ここを拠点にして、ハザール商人はイタリアのジェノバやベネチアにも進出していった。

11世紀から16世紀にかけてジェノバやベネチアの商人たちは、クリミア半島のことを「ハザリャ」とか「ガザリア」と呼んでいたが、これは「ハザール」に由来している。また、ジェノバとベネチアの商人のほとんどはユダヤ人であった。

10世紀初頭のハザール王国

●1243年、ハザール王国の首都だった場所に「キプチャク汗国」が誕生したが、ハザール人の一部は、王国崩壊後もクリミア半島に残り続けた。ハザール王国の交易の拠点として特に重要な都市であったカッファは、依然としてジェノバやベネチアと交易を続けた。そして、外部からの侵略に備えて厳重に防備を固めるようになった。

●1346年、「キプチャク汗国」がクリミア半島に攻め込んできた。モンゴル軍はカッファの城塞を包囲した。軍勢を率いるのはキプチャク汗国の皇帝ジャニベグ・ハン。この城塞を陥落させて、ユダヤ商人の富を奪い去ろうと決然と攻撃を仕掛けてきたのである。

しかし、ハザール王国最後の都市ともいえるカッファは難攻不落で、数週間が過ぎてもモンゴル軍が目的を達成する見込みはほとんどなかった。皇帝ジャニベグ・ハンはこのまま攻撃を続けるべきか、それとも潔く撤退するか迷い始めた。
[後略]