編集長の辛口時評 2006年6月 から分離

日本の新聞は1940年の戦時体制のままの禍根を特殊指定が維持

2006.06.28(2019.8.30分離)

http://www.asyura2.com/0601/senkyo23/msg/471.html
日本の新聞は1940年の戦時体制のままの禍根を特殊指定が維持

 昨年来の新聞の特殊指定の見直し、ないしは維持に関して、新聞労連もマスコミ情報労組会議も、維持を主張した。

 特殊指定の廃止が、戸別配達(宅配)制度の崩壊につながり、多様な言論が失われるというのだが、いわゆる「美文」の文字面の主張だけで、実態の歴史的な研究、本質的な議論は、皆無である。

 新聞業界も、マスコミ業界全体も、労組は「企業別」、「企業内」の典型であり、はっきり言えば、「会社組合」、「御用組合」の限界を持っているのである。

 以下は、共同通信の配信記事である。


http://topics.kyodo.co.jp/feature23/archives/2006/04/post_36.html
新聞宅配
2006年04月21日
特殊指定の維持求める 新聞労連が特別決議

 新聞労連(美浦克教委員長)は21日、東京都内で中央委員会を開き、公正取引委員会が見直しを検討している新聞の特殊指定について「多様な言論を守るため存続が必要」として維持を求める特別決議を採択した。

 決議文は、特殊指定の廃止が戸別配達(宅配)制度の崩壊につながるだけでなく、新聞の乱売を招く恐れがあると指摘。その上で「経営体力や資本力の差によって新聞が淘汰(とうた)され、多様な言論が失われる」としている。

 公取委は昨年11月に特殊指定見直しの方針を表明。これに対し、新聞労連は昨年12月、特殊指定改廃に反対する声明を出したほか、今年3月には公取委を訪れ、特殊指定堅持を訴えた。


 私は、一ヶ月以上前に、以下の「辛口時評」の投稿を発表した。


(karakuti-060524.html)
新聞「特殊指定」維持には大いに議論の余地あり。
http://www.asyura2.com/0601/hihyo3/msg/134.html
投稿者 木村愛二 日時 2006 年 5 月 24 日 22:02:48


 つい昨日、阿修羅マスコミ批評掲示板に、以下の投稿が現れた。


日本の新聞は1940年の戦時体制が続いている。だから日本のマスコミの論調は画一的で硬直化した言論になる。
http://www.asyura2.com/0601/hihyo3/msg/240.html
投稿者 TORA 日時 2006 年 6 月 27 日 13:21:17


「1940年の戦時体制」とは、太平洋戦争の開戦直前、日本の全国の新聞の「統廃合」による言論統制が行われたことである。。

 以下は、拙著『読売新聞・歴史検証』の関係箇所の抜粋である。


http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-11-2.html
『読売新聞・歴史検証』

 [中略]

 読売はとくに、昭和の戦時体制の下で大躍進をとげた。一九三八年(昭13)から始まる新聞統合の時期には、新聞用紙制限令によって一県一紙化を強制した国策以後、業界全体が、「表2」のような急激に変化した。

 (画像:表2『現代の新聞』より)

 読売は、朝日と毎日と並んで、三大中央紙の独占的地位を固めただけでなく、さらには九州日報、山陰新聞、長崎日日新聞、静岡新報、樺太新聞、小樽新聞、大阪新聞を、次々に傘下に収めた。一九四一年(昭16)の日米開戦直前には、かつての名門紙ながら赤字転落中の報知を安値で買収するのに成功した。

 [中略]

「陸軍省の記者クラブが問題を起こしたことがあった。その時係の役人が『新聞なんか東京に二つもあれば十分じゃないか』といったそうであるが、その時正力氏はこれを聞いて、すこぶる慌てたということである。もし東京に三つもあれば……といったとすれば、彼は慌てなかったに相違ないが、二つとすれば、それが朝日と東日[毎日系]であるにきまっている」

 この状況下での報知の買収は、当時の新聞用紙制限令による用紙の割り当て数、三〇万部の権利取得を含んでいた。務台光雄はそのとき正力から、かつての古巣だった報知の経営実権を任された。

 [中略]

 戦時体制下の新聞統合で「朝・毎・読」の全国三大紙体制が確立した。その「うまみ」をたっぷり吸収したからこそ、三大紙は、戦後の米軍占領下でも生き残り、さらに肥え太ったのである。読売の場合はとくに、部数に関する限りではあるが、この三大紙のドンジリからトップに踊りでた。

[中略]

 新聞統合政策は、内閣情報局と内務省を主務官庁として進められた。『新聞史話』(内川芳美、社会思想社)によれば、「具体的な統合実施過程では、各都道府県知事および警察部長、特高課長が指揮をとった」のである。

 口実はどうあれ、新聞統合政策は、だれの目にも明らかな言論統制の手段であったが、新聞用紙制限令の場合には、実際に、その証拠となる文書さえ発見されている。『現代史資料』(みすず書房)41巻所収の資料、「新聞指導方策について」は、内閣の専用罫紙にタイプされた高級官僚の提言である。そこで最善とされているのは、「新聞の営業部門を掣肘する方法」である。具体的には、「用紙供給権」を情報部が握ることであり、さらには、「新聞社収入の半額以上を賄う広告収入に容喙する」ことまでが提案されていた。日付は一九四〇年(昭15)二月、日米開戦の一年一〇か月前のことである。

 [後略]