編集長の辛口時評 2006年5月 から分離

新聞「特殊指定」維持には大いに議論の余地あり。

2006.05.24(2019.8.29分離)

http://www.asyura2.com/0601/hihyo3/msg/134.html
新聞「特殊指定」維持には大いに議論の余地あり。

 世の中には、非常に重要なことが、意外にも、あまり深く議論されずに、現状維持が続く場合が多い。新聞の「特殊指定」も、その典型である。

 当該産業の労働組合では、新聞労連は、「多様な言論を守るため存続が必要」として維持を求める特別決議を採択した。

 新聞労連が加盟するマスコミ文化情報労組会議も、新聞の「特殊指定」維持を掲げている。

 しかし、言論の中央支配と、新聞の「特殊指定」の関係は、歴史的な経過をも吟味して、もっと深く議論しなければならない重要問題を孕んでいる。

 現在も続く三大紙の体制は、戦時の言論統制の手段の継続である。

 一九三八年(昭13)から始まる新聞統合の時期には、新聞用紙制限令によって一県一紙化を強制した国策以後、業界全体が急激に変化した。

 一九三七年当時、全国で一、四二二紙あったのが、内務省警保局の指導により、五五紙に統合された。いわゆる三大紙、朝日、毎日、読売は、「中央紙」として特別待遇され、地方紙を系列支配し、言論統制の先兵となった

 大手紙の系列支配は、戦後には、民放にまで及び、日本は、世界に冠たる言論の中央支配の国となっている。特に読売新聞は、内容はともあれ、発行部数では、世界一である。

 元・日本テレビ社員で、日本テレビへの「読売進駐軍」の支配に抵抗し、解雇反対闘争を16年半も戦った私は、読売新聞の支配に関して、以下の著書を発表している。

『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(筆名・征矢野仁、汐文社、1979年)
『読売グループ新総帥《小林与三次》研究』(筆名・征矢野仁、鷹書房、1982年)
『読売新聞・歴史検証』(木村愛二、汐文社、1996年)

以下は、『読売新聞・歴史検証』の関係箇所の抜粋である。


http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-11-2.html
『読売新聞・歴史検証』
 [中略]
 口実はどうあれ、新聞統合政策は、だれの目にも明らかな言論統制の手段であったが、新聞用紙制限令の場合には、実際に、その証拠となる文書さえ発見されている。『現代史資料』(みすず書房)41巻所収の資料、「新聞指導方策について」は、内閣の専用罫紙にタイプされた高級官僚の提言である。そこで最善とされているのは、「新聞の営業部門を掣肘する方法」である。具体的には、「用紙供給権」を情報部が握ることであり、さらには、「新聞社収入の半額以上を賄う広告収入に容喙する」ことまでが提案されていた。日付は一九四〇年(昭15)二月、日米開戦の一年一〇か月前のことである。


 このような歴史的経過に照らして見ると、新聞の「特殊指定」に関する意見は、以下のライブドアのパブリック・ジャーナリスト(PJ)、小田光康の「オピニオン」が、大いにうなずける。


http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1962617/detail
PJオピニオン
新聞の「特殊指定」が言論の自由を滅ぼす

【PJニュース 05月15日】- 新聞紙面ではこのところ、新聞の「特殊指定」維持を訴える記事がはんらんしている。「特殊指定」という用語だけが一人歩きしている感もある。そもそも「特殊指定」とは何か、はたして「特殊指定」を維持することと、言論の自由を担保することに因果関係があるのか、貴族的な体質を持つ新聞業界に「特殊指定」される資質があるのか、後出しジャンケン的な「特殊指定」関連報道に問題はないのか、そして言論機関としての新聞社に政治権力からの独立はあるのか--などを考えていきたい。

 大雑把にいえば、新聞の「特殊指定」とは、差別価格販売や定価割引、新聞社が実際の販売部数以上を販売店に押し付ける、いわゆる「押し紙」を禁止するきまりを指す。これは大戦直後に、公正な競争を阻害するおそれがあるとして定められた。ここでみなさんに考えていただきたい。新聞を割引販売することが今現在、はたして公正な競争を阻害する要因となるのだろうか。逆に、定価販売を定めることで公正な競争を阻害していると考えられないだろうか。長期購読契約で割引があるとすれば、読者層を増やしたり、新聞社経営の安定化を図ることにつながるのではないか。

 新聞社側の「新聞は一般商品と同列に語られるべきではない」という主張の根拠はどこにあるのだろう。公共財、もしくは公共性について語ったものだと思われる。ただ、新聞の内容について、つまりジャーナリズムについては公共性の高いコンテンツであるとはいえるが、それを伝えるメディアとしての新聞が、イコール公共財とは絶対的にはいえないのである。特殊指定が撤廃されたからと言って、言論の自由を担うジャーナリズムのすべてが棄損されるわけではないのだ。テレビやラジオ、そしてネットなどメディアが多様化した現在、むしろ、新聞だけを特別扱いする理由はどこにあるのだろうか。「新聞イコールジャーナリズム」というレトリックに騙されてはいけない。

 これまでもお伝えしてきたが、新聞社の経営内容は極めて不透明だ。「情報開示」と「説明責任」を大々的に主張している新聞社が、自らに関してほおかむりすることは誰も納得できないだろう。特殊指定を主張する前に、コスト削減などの自助努力がなされているのか疑問を抱く。財務的基盤がしっかりしていれば、定価販売を定める特殊指定など必要ない。特殊指定が新聞社の放漫経営を助長させる道具になってはならない。そもそも、読者から新聞への絶対的な信頼・支持があることを新聞社が主張するならば、特殊指定など必要ないはずだ。

 先日、東京拘置所前で堀江貴文被告の保釈についてメディアの取材風景を取材した。駅から徒歩5分の場所に高級ハイヤーがずらりと並んでいた。新聞社を往復するには電車が一番速くて便利な場所にだ。都心にある新聞各社から電車で往復1000円とかからない場所に一日中、高級車を待機させておく体質に、市民感覚があるとはとうてい思えない。新聞メディアは残念ながら、市民社会に対峙する貴族的な権力に成り果ててしまったようだ。この一件を取り上げても、新聞業界が特殊指定される資質があるかは疑わしい。

 このところ、特殊指定撤廃を意図する公正取引委員会の竹島一彦委員長のインタビュー記事を目にする機会が多くなってきた。新聞業界はこれまで、いわゆる文化人や政治家を巻き込んで「特殊指定」撤廃反対の報道を繰り返してきた。その結果、本当のところはわからないが、新聞紙面では「特殊指定」撤廃反対があたかも世論になったように報じている。新聞は公取委の外堀を埋めるまで、公取委の主張を取り上げることはなかった。この後出しジャンケン的な報道の仕方には大きな問題がある、フェアでない。この一方的な報道の影響からか、新聞紙面では竹島委員長が孤立化してしまった感がある。

 5月15日付朝日新聞朝刊に「特殊指定」問題が大きく掲載されていた。そこで少々、気に掛かったことがある。「全政党が廃止反対表明」との大見出しである。特殊指定の問題については朝日新聞のみならず、撤廃反対を表明する新聞社すべてが当事者といえる。「独立不羈」や「客観報道」、「権力の監視」を掲げる新聞社が政党と結託する姿には、首をかしげざるを得ない。政治家にとって、この機会に新聞メディアに恩を売っておこうという魂胆がみえみえだ。このありさまでは、新聞の「特殊指定」が言論の自由を滅ぼすことにつながりかねない。【了】

 [中略]

※この記事は、PJ個人の文責によるもので、法人としてのライブドアの見解・意向を示すものではありません。また、PJニュースはライブドアのニュース部門、ライブドア・ニュースとは無関係です。

パブリック・ジャーナリスト 小田 光康【東京都】


http://www.dhw.ac.jp/professor/oda.html
教員紹介|デジタルハリウッド大学
小田 光康
パブリック・ジャーナリスト
特定非営利活動法人「森の響」村長
早稲田大学兼任講師、明治大学兼任講師
(株)ライブドア 報道センター長補佐

[担当授業]メディア表現概論ゼミ
[プロフィール]
「1964年生まれ。米ジョージア州立大学経営大学院修了、東京大学大学院人文社会系研究科修了。専門はパブリック・ジャーナリズム論、ジャーナリスト教育論。米デロイト・トウシュ、共同通信社、ロイター通信社を経て、パブリック・ジャーナリスト。00年度から03年度まで、東大社会情報研究所newslab幹事、「情報メディア論」「ジャーナリズム演習(I)」などを担当。国内の会計基準問題の英文連載報道で98年、米ニューヨーク州公認会計士協会賞と米シルーリアン記者協会賞を受賞。著書に『スポーツ・ジャーナリストの世界』(出版文化社)、『論争 いま、ジャーナリスト教育』(東大出版会)、『実践ジャーナリスト養成講座』(平凡社)など。