連載:シオニスト『ガス室』謀略の周辺事態 (15-1)

「ガス室」裁判 判決全文 5

事実の第三:証拠
理由の第一:前提となる事実(一~七)

平成9年(ワ)7639号 名誉毀損・損害賠償請求事件
1997.4.18.提訴 判決[1999年2月16日]
《シオニスト『ガス室』謀略の周辺事態》と《「ガス室」裁判判決全文》兼用

事実(続き)

第三 証拠

 証拠については、本件記録中の証拠関係目録記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

第一 前提となる事実

 甲第1、第2、第4、第5号証、第7号証の1ないし21、第8号証の1,2,第9号証の1ないし12、第2号証、第12号証の1,2,第19ないし第22号証、第23号証の1ないし5,第28、第31号証、第32号証の1,2,第33号証の1ないし50、第50、第51、第66号証、乙第1ないし第34号証、証人巌名泰得の証言及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

 原告は、昭和12年に生まれ、かつて日本テレビ放送網株式会社に勤務していたが、現在は著述業を営む傍ら、平成9年1月に結成された「歴史見直し研究会」の代表の地位にあって、個人ミニコミ誌「歴史見直しジヤーナル」の発行に携わっている。

 被告会社は、平成5年に、本誌の発刊を目的として設立された会社で、商業公告収入に依存せず、定期購読者からの購読料に依拠して、あらゆるタブーに挑戦する「健全なジヤーナリズム」の形成を目指している。このため、本誌の編集方針として、「投書」欄、「論争」欄を重視し、「論争誌」として独特の性格を貫いている。被告会社の現在の代表者である本多は、朝日新聞社記者の経歴を有するジヤーナリストで、本誌創刊の当時から編集委員に加わり、平成6年5月から編集長を務めた。

 原告は、平成4年に「湾岸報道に偽りあり」と題する書物を著したが、平成6年春ころ、これを読んだ医師の西岡昌紀(以下「西岡」という。)から電話を受け、その際、「ホロコーストはなかった」という説が存在していることを知つているかと聞かれたことが機縁となって、この間題に関心を抱くようになった。その後、原告は、西岡から夥しい量の英文資料の提供を受けて、この問題を研究し、平成6年9月には、雑誌「噂の真相」に「映画『シンドラーのりスト』が訴えた“ホロコースト神話”ヘの重大疑惑」と題する論文を発表したが、これについては特段の反論はみられなかった。

 一方、西岡は、文芸春秋社が発行し、花田紀凱(以下「花田」という。)がその編集長を務めていた雑誌「マルコポーロ」(平成7年2月号)に、「戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった。」と題する論文を発表した。この論文の冒頭において、西岡は次のように述べている。

「そこで皆さんにまず、何が真実であったのかを先に言ってしまおう。欧米の幾多の研究を一口に要約し結論を述ベ、証拠はあとから示そう。(中略)」

1 ナチスかその政策においてユダヤ人に不当な差別を加え、様々な圧迫を加えたことは紛れもない事実である。そして、アメリカとの戦争に突入した後ドイツ本国及びドイツの支配下に置かれたョーロッパ諸国ではユダヤ人に対する圧迫が強まり、ユダヤ人を強制収容所に収容する政策が全ョーロッパ的規模で開始された。この点について、従来の説明は大筋で正しい。

2 しかし、ヒトラー及びナチスの指導部は、収容したユダヤ人達の『絶滅』を計画したことなど一度もなかった。ナチス指導部が計画したことは、強制収容所に収容したユダヤ人達を戦後、ソ連領内などの『東方地域』に強制移住させることであった。彼らは、このユダヤ人強制移住計画をユダヤ人間題の『最終的解決』と名付け、東部戦線でソ連を打倒した後、実行するつもりでいた。

3 ナチスドイツが、アウシュヴィッツなど、ポーランド領内に建設した強制収容所は、戦後ドイツがソ連を打倒、占領した後に実行する『最終的解決』のためのユダヤ人強制移住計画の準備施設であった。すなわち、ナチスドイツは、アウシュヴイッツをはじめとするポーランド領内の収容所に収容したユダヤ人達を戦争中は労働力として利用し、戦後、ドイツがソ連に勝利した暁には、ソ連領内ほかの『東方地域』に強制移住させる計画であった。従って、この計画とは両立し得ないユダヤ人絶滅などをドイツ政府が計面、実行したことは、一度もなかった。

4 ところが、ソ連戦線でドイツが敗退した結果、『ユダヤ人強制移住計画』は頓挫する。そして、戦争末期の混乱の結果、ユダヤ人達がいた収容所の衛生状態が悪化し、チフス等の疾病の爆発的発生が起きた。その結果、多くの罪のないユダヤ人達が収容所内で死亡した。

5 戦後、それらの収容所で病死したユダヤ人らの死体を撮影した連合軍は、そうした病死者達の死体を『ガス室』の犠牲者であるかのように発表した。

 西岡は、このように述べた上で、右の結論を支える主要な証拠として、次のようなものを掲げている。

1 ナチス指導者が、「ユダヤ人絶滅」を決定した文書等は残っていない。逆に、ドイツ政府が計画した「ユダヤ人問題の最終的解決」なるものがユダヤ人の強制移住であったことを明快に示す文書は多数残っている。

2 ホロコーストには証言以外の証拠がない。

3 「ホロコースト見直し論者」は、ネオナチや反ユダヤだけではない。最初に見直し論を唱えたポール・ラッシニエは、フランスのレジスタンス運動に参加した人物である。

4 戦時中から戦後にかけて、アメリカやイギリスは報道操作を行った。例えばダッハウ収容所の「ガス室」の写真は、シラミなどで汚染された衣服などを消毒するための施設を写したものであった。

5 現在アウシュヴィッツに展示されている「ガス室」には、換気扇を取り付ける場所がなく、極めて非効率であることに加え、右ガス室には処刑用ガス室の設計において常に要求される高い気密性がない。

6 ホロコーストに用いられたとされるサイクロンBが入つている缶の中身は、シアン化水素(HCN)、すなわち青酸ガスが吸着したチョークやパルプのかけらであって、これらを長時間ヒーターで加熱しない限り、青酸ガスは発生しない。

 この西岡論文は、日本内外に大きな反響を呼んだ。特に、平成7年(1995年)は、連合軍によるアウシュヴィッツ収容所の解放50周年に当たる年でもあったため、在日イスラエル大使館やユダヤ人団体は、右論文に強く反発し文芸春秋社に抗議を申し入れるとともに、「マルコポーロ」に広告を掲載している企業にその掲載を止めるよう働きかけた。事態を重大視した文芸春秋社は平成7年1月、「マルコポーロ」の廃刊を決定し、右西岡論文を掲載した平成7年2月号を回収するとともに、編集長の花田を解任した(以下、これを「マルコポーロ事件」という。)。

 原告は、西岡から提供を受けた資料と独自の調査結果に基づいて、平成6年ころから「アウシュヴィッツの争点」と題する論文の執筆に取りかかった。原告は、平成5年に、本多から依頼されて、当時創刊準備中であった本誌(平成6年1月14日号)に記事を寄稿したことがあったが、平成6年11月ころ、執筆中の「アウシュヴイッツの争点」の第2草稿を本多に見せたところ、同人は、これを本誌に連載させて欲しいと述べて、具体的な条件まで提示した。原告は、これを了承して、第3草稿を完成させ、被告会社の本誌編集部に送付したが、この連載計画はその後立ち消えとなった。

  かかる経緯を経て、原告が執筆した「アウシュヴイッツの争点」は、平成7年6月、リベルタ出版から発刊された(以下「本書」という。)。

 原告は、本書において、基本的には前記西岡論文と同旨の見解を展開しているが、原告が「ホロコースト見直し」問題の最大かつ核心的な争点として指摘するのは、「ガス室」と「チクロンB」との関係である。

 この争点に関して、原告は、概要次のとおり主張する。

(一)ナチスが強制収容所においてユダヤ人を殺害するために用いられたとされる毒物は、チクロンBと呼ばれる殺虫剤である。この殺虫剤は、1923年に開発され、発疹チフスの病原体である微生物リケッチヤを媒介するシラミを退治するために使用されたが、その成分は、人間にとって猛毒のシアン化水素(気化状態の通称が青酸ガス)であるから、これによって人を殺すことは不可能ではない。

(二)チクロンBを用いてガス室で人を殺害する場合には、チクロンBの投入、その気化、殺害、毒ガスの換気、死体の除去という一連の経過を辿ることになるが、これに要する時問を短縮するため毒ガスの濃度を高めれぱ、それだけ殺人者の側の危険も大きい。ニュールンベルグ裁判で採用された元アウシュヴィッツ強制収容所司令官ルドルフ・ホェッスの「告白」によると、ガス室の犠牲者は10分以内に死亡し、30分後に死体搬出をしたというのであるが、このような短時間に大量の殺人を、殺人者の側の危険なしに遂行しようとすれば、それだけの建物の条件(場所、遮蔽、換気といった精密な条件)が完全に満たされなければならない。しかし、問題のガス室が右のような条件を満たしていたことを確信できる証拠はなく、現存するガス室には、そのような設備は設けられていない。

(三)第2次大戦の終戦直前ころには、ドイツの民間企業では、殺虫剤チクロンBによる消毒方法として、密閉した無人の部屋の内部でチクロンBを入れた缶のふたを開け、チップを金網に移し、温風を循環させて時間短縮と濃度の均等化を図り、最後にはシアン化水素の沸騰点以上の温風を吹き付けてこれを完全に蒸発させてチップを無毒にする装置が工夫されており、この技術が外国にも輸出されていた。仮に、ナチスがガス室によるユダヤ人の大量殺戮を企図していたとすれば、この民間の最高技術をガス室に導入していたはずであるのに、そのような形跡はない。

  原告が右の見解を支える証拠としてしばしば引用するのが、カナダにおける「ホロコースト見直し」論者に対する裁判(ツンデル裁判)において証拠に採用されたアメリカ人フレッド・ロイヒターの鑑定(ロイヒター報告)である。このロイヒター鑑定の要旨を、原告は次のように紹介する。

(一)これまでガス室とされてきた建物の構造は、木製のドア、換気装置の不備など青酸ガスの便用には不適当で、チクロンBによる大量殺人は不可能である。

(二)チクロンBから発生する青酸ガスは、コンクリートの天井、壁、床等に浸透して残留し、コンクリートの成分や鉄筋と結合してシアン化合物を形成する。日蔭の場所なら最低数百年、条件次第では数千年後でも検出できるという。ところが、ガス室と称されている建物または建物跡からは、全くごく微量のシアン化合物しか検出されなかった。その一方で消毒室からは明確に大量のシアン化合物が検出された。

(三)青酸ガスは火気に触れると、酸素と化合して爆発する性質の気体であるから、火の気のあるところのそばに「ガス室」を設けるのは危険であるところ、アウシュヴイッツ収容所の建物の場合は、ガス室とされる部屋の隣に焼却炉が並んでいる。

 右のロイヒター報告のほかにも、原告は自説の根拠となる証拠を多数列挙しているが、その主要なものは次のとおりである。

(一)ニュールンベルグ裁判の基礎となつたルドルフ・ホエッスの「告白」は、拷問と酒潰けによるものであって、信用性に乏しい。他方で、1943年からアウシュヴィッツ収容所の最後の司令官の任にあったリヒヤルト・ベイアーについて、パリで発刊された週刊「リヴァロル」は、彼が「アウシュヴイッツにいたすべての期間を通して、ガス室を見たことはないし、そんなものが一つでも存在するなどということも知らなかった」と伝えている。この他にも、1949年アメリカ議会上院で発表されたシンプソン陸軍委員会の報告書は、アメリカ軍がダッハウで行ったドイツ人捕虜に対する様々な拷問の事実を暴露しており、これら捕虜の「証言」が一連のナチス幹部に対する裁判を歪めたのである。

(二)ナチスが「ユダヤ人絶滅」を目的として強制収容所を設置したという見解には疑問がある。アメリカ軍が押収したナチス・ドイツの文書類の中には、「ユダヤ人絶滅計画」を示すような公文書は現われてこない。「ホロコースト見直し論」を最初に唱えた、フランス人ポール・ラッシニエは、ナチスドイツはユダヤ人を「移住」させる以外の政策を立てたことはなかったと述べているし、ユダヤ人で「左翼」のプリンストン大学教授アーノ・メイヤーも、「ナチの多くは、殺戮よりも労働力としてユダヤ人を使用することに関心を持っていた。」と述べている。

(三)アメリカ軍とともにダッハウなどの収容所に入ったチヤールズ・ラーソン(検死をした法医学者)は、収容所の死者に毒物及び毒ガスによる例証は一つもなく、大部分はチフス、結核、栄養失調によるものだと報告している。第2次世界大戦の末期にドイツ国内で発疹チフスが大量発生したことはよく知られており、「発疹チフスの大流行下でユダヤ人を大量に強制移送したドイツ軍は、彼らを強制収容所に入れる前に、それまで着ていた衣服を全部脱がせ、シラミの卵が植え付けられている可能性が高い髪の毛を刈り、シヤワーを浴びさせた。衣服は別室にまとめ、殺虫剤チクロンBで燻蒸することによってシラミを駆除した。チクロンBと燻蒸室には毒物の危険を知らせるために、どくろのマークが付けられた。」という説明が自然、かつ合理的であるように思われる。

  原告は、概要以上のとおり論じて、「ガス室」による殺人に疑問を投げかけるのであるが、仮に「ホロコースト」が情報操作によって作出されたものであるとすれば、その目的は何かが問題とされなければならない。原告は、本書において、この点を次のとおり分析する。すなわち、1947年のイスラエル建国のためのパレスチナ分割の国連決議は、全アラブ諸国を含む反対13票、棄権10票を抑えてアメリカ、ソ連などの賛成多数(33票)で可決されたが、この決議の強力な推進者であったアメリカが利用した最大の政治的根拠が「ホロコースト」の償い、つまり、ナチスドイツが犯した歴史上最大の「民族皆殺し」という大罪「ホロコースト」を償うための建国という名目であり、これが欧米のキリスト教諸国を動かして、賛成票を投じさせることになったのである、と。この見解は、ラッシニエ亡き後、「ホロコースト見直し論」の第一人者であるフランス人のロベール・フオーリンソンも採っており、原告は、「ホロコースト」の「欺瞞」の基本的な犠牲者はドイツ人及びパレスチナ人であるとする彼の見解を紹介している。

 このように、原告によれば、「ホロコースト」はイスラエルの建国という政治目的のために造り上げられた「神話」である。原告がナチス政権のユダヤ人絶滅政策に疑問を抱いていることは前述したとおりであるが、原告は、これを裏付ける事実として、ナチス政権が既に1930年代からユダヤ人のパレスチナへの移住・資金の輸送に協力してきた事実を指摘した上で、次のように述べる。

 「人造国家イスラエルの建国という途方もない巨大計画は、一時的にナチス・ドイツの協力をえながら具体化され、ある段階から逆に『ナチ批判』、『ホロコースト批判』を跳躍台にして、第2時世界大戦の廃墟の上に展開されたのである。」

 平成8年1月17日、朝日新聞社は、前年のマルコポーロ事件で文芸春秋社を追われた花田を、女性雑誌「UNO!」の編集長に招聘することを発表した。この人事に対しては、朝日新聞の読者から強い拒否反応が起こったほか、朝日新聞社内にも大きな不満がわき起こり、こうした批判的な情報が被告会社の本誌編集部にも多数寄せられた。そのような情報の一環として、同編集部は、かねてドイツ問題の取材に関し朝日新聞社と協力関係にあつたベルリン在住のジヤーナリスト梶村太一郎(以下「梶村」という。)が、朝日新聞の花田招聘に怒り、今後同紙への協力を一切絶つとの態度を鮮明にしたことを把握した。

  被告会社の本誌編集部は、文芸春秋社がマルコポーロ事件の処理について、西岡の「ガス室否定論」が何故誤りであったかを明らかにせず、「マルコポーロ」の廃刊と花田の更迭という措置に留まったため、世界史的事件である「ホロコースト」問題をこのまま放置することはできないとの認識を抱いていたが、平成8年5月28日の編集会議において、朝日新聞社がマルコポーロ事件の中心人物であった花田を新編集長に招聘することを決定したのを契機に、この問題を採用することを決めた。その企画が、「『朝日』と『文春』のための世界現代史講座・第一部」で、被告会社はその執筆を朝日新聞社に対して厳しい批判の目を向けている梶村に委嘱することにした。かくして、平成8年6月14目号を皮切りに、同年6月21日号から7月5日号まで、7月19日号、7月26日号、8月9日号の合計7回にわたって梶村の論文が本誌に掲載された。

  梶村は、右論文において、朝日新聞社が花田を新雑誌の編集長に迎えたことを知ったとき、「日本が砂山のように崩れていく」という思いにかられたと述ベ、日本人の歴史認識の欠落と没国際性に警鐘を鳴らすため、いまだにナチスの影を引きずっているドイツの日本とは異なる政治風土を紹介した上で、朝日新聞が、戦前は「本土決戦に勝機あり」と唱い、終戦直後は「神風賦」で一人ひとりに反省せよと論じた変節を指摘し、今回の花田招聘は、朝日新聞の「『忘れて恥じぬ根性』が再び根を張り、芽を出してきた」ものと批判した。

 前記の梶村評論に対して、原告は、本誌(平成8年9月6日号)の「論争」欄に「連載記事『世界現代史講座』に根本的な疑問を提出する」との題名での反論を寄稿した。この中で原告は、「(梶村の)最大の錯覚の表われは、ドイツの刑法を無批判に崇め奉り、大上段に振りかざしていることだ。」「現在のドイツでは、ネオナチだけではなくて、共産党も『禁止』と『財産没収』の対象である。簡単にいえぱ、戦後の対米従属政権維持のための法体系下にあるのである。そのドイツの全体像を見ずに、かなり痛烈な批判の的でもあるヴァイツゼッカーらの偽善的保守政治家を神格化する議論は、欧米崇拝に毒された日本人の思考停止状況の典型である。」と述ベ、右講座については、「私から見ると、検証不十分で、科学的事実と相反する『神話』伝聞の繰り返しでしかない。」とか、「『ガス室』そのものへの疑問、特に『密閉性に欠ける』構造については、まったく論じられていない。」などと批判した。


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